Side Riku.「二度目のキスと偽物の夜」
※リク視点の三人称です。
「これはどういうことかな? うん? マシモフが死んでる。ほかの連中はいない代わりに、誰だか分からない大男が倒れてる。不思議だね」
耳に届いたシャンティの声に、リクは目を開けた。そこに映ったのは、相変わらず岩場に座り込むシンクレールの姿である。リクが愕然としたのも無理はない。監視役がわざわざ目を閉じているというのに逃げ出さない理由はひとつだ。
シンクレールは本当に、嬉々としてシャンティの軍門に下ったらしい。
「ねえリク。説明しなよ」
説明を求めるシャンティの背後で、側近の血族たちがニヤニヤと下卑た笑いを口元に浮かべていた。リクが叱責を受けることを期待しての笑みである。残酷な見世物を前にした観客の本性である。リクにとっては見慣れた表情だった。
「そこの男が崖を登ってきて、マシモフが両断されたのです」
言いながら、リクはシンクレールの様子を目の端に留めていた。座り込んだきり、やはり動かない。顔はシャンティに向けていて、つんと唇を尖らせている。
「それから私は、そこの男を相手取って戦いました。そして意識を奪ったのです」
「ふーん。で、ほかの子はどこに行ったの?」
「……シンクレールが崖に落としました」
瞬間、「おい」と不快そうな口調でシンクレールが横やりを入れた。「話が違うぞ」
シャンティがシンクレールに一瞥を向けてから、靴を鳴らしてリクへと歩み寄る。そして胸倉を掴んで持ち上げた。
「正直に言いなよ、リク。馬鹿にしてるの?」
「……」
事実を包み隠さずに説明すべき状況だった。そんなことはリクにも分かっている。打ち明けたところで自分は決して不利にはならないのだから。
それでも口が閉じたまま動いてくれなかったのは、いまだにシンクレールに期待を寄せていたからだろう。彼が本当に隷従を良しとしてしまったなら、自分に手を差し伸べてくれた事実が丸ごと蹂躙されてしまう。敵味方を超えて厳然と輝きを放っていた信念が虚構となってしまう。そうなれば自分は今後一切、『貴さ』というものを信じられなくなってしまうのではないか。そんな思いが駆け巡り、リクの口を固く閉ざしたのである。
やがて彼の身に訪れたのは、激しく地面に叩きつけられる衝撃と、側頭を割れんばかりに踏み付けるシャンティの靴裏である。
「あんたには忠誠心ってもんがないんだね!?」
何度も踏み付けられ、耳は正常さを保ち切れずノイズで満ち満ちていたが、それでもシャンティの叫びは彼の脳に届いた。
「僕が代わりに言ってやるよ」
仕方ないな、という言葉と、うんざりしたようなため息。どちらも紛れもなくシンクレールのものだった。
それを契機に、リクを襲っていた暴力の波が止まる。
「君らの仲間を崖に落としたのは事実だ。でも、説明が足りない。だってそうだろ? 敵である僕が君のお仲間を攻撃するのは当たり前だとしても、ここでじっと座ってるなんておかしいからな」
「そうだよ、シンクレールくん。矛盾してる。マシモフが死んだんだから、リクとだって戦えるはずなのにここで大人しくしてる理由が分からないの」
シンクレールが荒い手付きで自分の頭を掻くのが、倒れたリクの目に映った。まるで反抗期の子供のような姿だった。
「僕があいつらを崖に叩き落したのは、別に、敵だからとかじゃない。カリオン――そこの大男とリクを、あいつらが丸ごと攻撃しようとしたからなんだ。別にリクがどうなってもいいけど、カリオンはそこそこ優秀な奴だからさ、死なすわけにはいかなかった」
「ふぅん。仲間だから助けてあげたかったって?」
「違う。生け捕りにすべきだと思ったんだ」
シャンティが驚嘆の声を上げた。「生け捕り? 味方なのに?」
すると、急にシンクレールの声がくぐもった。
「……って」
「ん? なんて?」
「君が喜ぶんじゃないかと思って」
それを耳にしたリクは、地に伏したまま、際限なく身体が脱力していくのを感じた。もはやどこにも力が入らない。
一方で、シャンティは周囲の側近たちに「ねえ、今の聞いた?」と投げかけている。心底嬉しそうに。
「ってことは」シャンティがしゃがみ込んで、シンクレールと視線の位置を合わせた。彼女の首から下がった銀の時計が、ふらふらと覚束なく揺れる。「マシモフの誓約がないのに、シンクレールくんは私に従うってことね?」
「奴隷にはならない。でも、君に従う」
「うんうん、素晴らしいね。君が生け捕りにしてくれたことも、とっても嬉しい。実を言うと、まとまった数の捕虜が欲しいんだよね。戦果としてオークションに出さなきゃいけないから。あ、もちろんシンクレールくんは出さないよ? 私が独り占めするから。どう? 嬉しい?」
シンクレールがはっきりと頷くのを、リクは見た。
誇り。
信念。
そうした清らかで真っ直ぐな概念にヒビが入った瞬間である。
「あのさ、それで……ご褒美が欲しいんだ」
シンクレールの言葉に、シャンティが愉しげに笑う。もはや側近たちさえ蚊帳の外だった。
「うん。なんでも言ってごらん」
「もう一度――」
もう一度、キスがしたい。今度は自分のほうから。
シンクレールはそう言って立ち上がる。返事を待たずに顔を近づける彼に、シャンティは抵抗しなかった。目を瞑り、口元に緩んだ笑みを浮かべ、彼を迎え入れたのである。
これで終わりだ、とリクは思った。見たくもない光景だったが、目を閉じる気力さえ湧かない。清い精神などこの世に存在しないのだと――否、この瞬間、あらゆる清浄な心が死ぬのだと、彼はそう感じた。今この地を覆っている闇のように、かつて存在したであろう精神の煌めきは永遠の夜に没して消え去る。卑劣な享楽が『現実』の名をほしいままにする。
二人の唇が触れ合い、舌が出入りするのを、リクは確かに目にし、光が潰えたのを悟った。これから自分はなにも信じることなく、ただシャンティに拝跪する人形として生きるほかないのだと実感した。
しかし、それから起こった目まぐるしい変化が、リクの諦念を丸ごと吹き飛ばした。
「――っ!!」
声にならない叫びとともに、シャンティがシンクレールを突き飛ばした。彼女の顔から喉にかけて、真っ白な霜が斑に覆っていた。
その一瞬の出来事の間に、シャンティからシンクレールの手へと渡っていた物がある。
突き飛ばされた衝撃をそのまま後方への跳躍に使って距離を取ったシンクレール。その手には銀の時計が握られていて――。
「これで偽物の夜は終わりだ!!」
氷の魔術が彼の手のなかで弾け、時計が木端微塵に砕け散った。刹那、山岳地帯を覆っていた闇が一気に開く。
銀の破片が、降り注ぐ光を浴びて煌めいた。
太陽を背にしたシンクレールを見上げて、リクはなにがなにやら分からぬまま、ただ呆然と口を薄く開いていた。その口の端が、徐々に、ほんの少しだけ、笑みのかたちに変化していく。
降り注ぐ光に圧倒されながらも、身の内から笑いのようなものが込み上げてくるのを、リクは確かに感じた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




