Side Sinclair.「侵略者たち」
※シンクレール視点の三人称です。
リクに向けて放つはずだった氷の魔術が、攻撃のかたちを取る前に霧散していく。数瞬前の出来事に対して、シンクレールは肩を落とし、自分の手のひらを見つめるばかりであった。
マシモフの持つ血族の力により、自分の行動が縛られているのは明白だった。否定材料を頭に浮かべようとしても、敵に向けて魔術を行使出来ないという現実が希望の芽を摘み取ってしまう。シャンティの配下の血族たちに対してどこまでも無力な存在となってしまったことを、シンクレールは歯痒く思うことしか出来なかった。
そんな彼に対してリクは、決して嘲弄することはなかった。
「お前には感謝している」
リクは低い声音で、一語ずつ明瞭に言った。
「……感謝?」
「シャンティ様を制止しようとしてくれた」
「ああ……」
シンクレールは、なんだそのことか、と言わんばかりにため息をついた。
シャンティに虐げられるリクを見て、居ても立ってもいられなくなっただけである。親切心ではなく、侮辱を忍ぶリクの姿に自分を重ねてしまったに過ぎない。主人の靴を舐める様を見せつけられて、敵であることを忘れて共感し、胸を焼く痛苦から逃れるためだけに加虐者へと食ってかかったのだ。シンクレールとしては、感謝される謂れなどなかった。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、リクは「個人的な話をしてもいいか?」と言う。
「いいよ、別に」
聞きたくない、という意味で返したつもりだったが、リクは逆の意味に捉えたらしい。滔々と話しはじめた。
「おれに関して、シャンティ様がご説明なさったことは間違いではない。おれはシャンティ様の領地に攻撃を仕掛け、敗北し、拝跪している。だが」
いくつかの事情が抜け落ちている。
胡坐をかいたリクの背が真っ直ぐに伸びていて、正面を見据える眼差しがどこか遠くに焦点を置いていることに、シンクレールはそのときはじめて気が付いた。
「シャンティ様がおっしゃったように、おれは伯爵位を持っている。それを誇るつもりはない。爵位は単に、領地の多寡を示す指標でしかないからな。それも大昔の価値基準だ。今は形骸化している。魔物が跋扈するこの世界で、より多くの土地を持つことにあまり意味はない」
とはいえ一国一城の主であり、少なくない領民と土地を有している。三方を山河に囲まれた豊饒な土地だそうだ。南には平野が広がっていて、街道は遠くラガニア城へと続いている。街道を西に逸れると陰鬱な沼地があり、そこがシャンティの領地――マナスルらしい。
「祖父の代から、マナスルとは交易をしていた。まあ、交易というのは方便で、土地の痩せているマナスルのための慈善行為と言っていい。こちらが作物を分け与えて、代わりに『聖印紙』を受け取る」
「『聖印紙』?」
シンクレールには耳馴染みのない言葉だった。
リクは頷き、皮肉な笑いを口元に浮かべる。
「紋章の描かれた紙だ。それを所持してさえいれば、死後、神の寵愛を受けるとされている」
シンクレールは思わず苦笑したが、すぐさま表情が凍り付いた。
勇者一行のひとり――『教祖』と呼ばれていた女性の微笑が、脳裏に色濃く浮かんだのである。山の頂に暮らす人々の屈託ない笑顔。教会のベッドに仄かに香るラベンダー。夕暮れ時、太陽が自分の足元よりも下に沈んでいく様子。微睡みの合間に聞こえた告解。澄んだ空気を震わす鐘の音。
自分たちの破壊した一切が、克明に蘇った。
「聖印紙の紋章は魔力が織り込まれていて、マナスルの長でないと描けない。彼らが代々継承してきた秘法なんだそうだ。……迷信深い父は、聖印紙を随分とありがたがっていたよ」
リクの口振りには、どこか呆れが含まれていた。
「……話が逸れたな。ともかく、おれの領地とマナスルとは、そう悪くない関係を持っていたんだが……ほぼ同時期に領主が変わって、交易も消え失せた」
「君が領主になって方針が変わったのか?」
「いや、そうではない」
リクは首を振り、口元を引き結んだ。
「なら、どうして」
「シャンティ様が交易をお断ちになられたのだ。……たかが紙切れをありがたがる狂人など相手にしたくないと、そうおっしゃられた」
リクの目が、一層遠くを見つめるように細くなる。その瞳に屈辱の色はなく、わずかに寄った眉間から辛うじて悔しさを読み取れた。
リクの抑制された自己主張に、シンクレールは痛々しさを感じた。淀みなく流れるシャンティへの言葉遣いもまた、支配に慣れてしまったことを雄弁に語っている。靴を舐める瞬間の、心を閉ざし切った表情を思い出し、シンクレールは唇を噛んだ。
「交易を断ち切ってからのマナスルは、付近の村や町を支配下に治めていった。グレキランス人には馴染みのないことかもしれんが、ラガニアでは土地によって、領地の所有者である貴族と領地経営者である長が別個に存在する。領主の住んでいない町や村があるのだ。そうした土地に害を為す者が現れれば、所有者である貴族が武力を率いてやってくることになる。……そうした火の粉を、シャンティ様は悉くお払いになった。返り討ちにあった貴族は一旦退却し、別の貴族の手を借りるなどの方策で戦力を増やして再び攻め入ったが、ついに土地を取り戻すことはなかった」
シャンティは、ほかの貴族連中から嫌悪されている。ヨハンがそう語った理由を、シンクレールはようやく納得した。侵略行為を繰り返せば憎まれるのは当然である。また、そんなことを仕出かしたにもかかわらず生き残っていることが、シャンティの強さを裏付けてもいた。
これまでも貴族同士の侵犯はあったが、堂々と侵略して生存し続けている例はシャンティだけらしい。やがてマナスルは腫れ物のように忌避されるようになった――とリクは語る。
「それまで侵略行為が横行しなかったのは、不法の輩が潰され続けたという歴史にある。秩序を乱す者には爵位の所有者が一丸となって対処するという暗黙の了解があった。……それがいかに脆弱な絆であったかが、シャンティ様によって暴かれたのだ。返り討ちの話を耳に入れた貴族たちは、なにかと理由をつけて義務から逃れたのだからな。その意味では、おれも潔白ではない。いの一番に協力要請を受け、しかし過去の縁故を理由に断ったのだ」
以来、そこかしこで貴族同士の小規模な侵略が行われるようになったのだという。
リクは皮肉な調子で、乾いた笑いを漏らした。
「おれの領地も侵略の憂き目にあった。当然の報いだろうな」
「……シャンティに侵略されたのか?」
「いや、違う。他所の貴族だ」
侵略者の軍勢を前にリクは白旗を振り、要求通りに作物や金品を渡したらしい。リクの領地であり、彼自身も暮らしているその土地には、非力な者が多いのだそうだ。もちろん魔物から身を守るだけの勢力は持っているが、ほかの貴族からの侵略を退けるほどの人材はいないらしい。
侵略者は、リクの土地を犯した。領民を嬲り、必要のない物でも奪い取り、他者を足蹴にして優越に浸った。リクの目には、侵略者は土地の破壊者としか映らなかったのである。また、事実その側面が強かった。というのも、侵略行為を行った貴族はほかにいくつも土地を所有しており、なかには肥沃な場所も少なくなかったらしい。シャンティのように、自力で生きていくのが困難な領地しか有さないという背景はなかったのである。
「蹂躙が好きなのだと、そいつは語っていた。おれを踏みつけて、そう言ったのだ。……公然と領内を闊歩する侵略者に背を向け、おれはある場所へと歩んだ」
「……マナスル」
シンクレールの呟きに、頷きが返る。
目には目を。
侵略には侵略を。
「おれはシャンティ様に対し、決闘を申し込んだのだ。領地を賭けて」
そして敗北し、領地を失った。すなわち彼の土地はシャンティと利害で結ばれたのである。彼女が侵略者を放っておくはずはなく、その日のうちにリクの土地は敵の血で赤く染まったという。
事の顛末は理解出来たが、一点だけ確かめたいことがあった。そればかりが無性に、シンクレールの頭で爪を立てている。
「賭けたのは領地だけなのか?」
「……」
リクは沈黙したきり、返さなかった。
しかし、沈黙はひとつの答えである。
彼が個人的な服従をも決闘のテーブルに乗せたことは、容易に見通せた。領地を彼女が握っているがために、過剰なまでの無抵抗を演じる必要があることも、同じくらい透明な事実である。
シンクレールはこれまで以上に強く、リクの横顔に自分の未来を思い描いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より




