Side Sinclair.「存在意義」
※シンクレール視点の三人称です。
額にシャンティの指先が触れた直後から、シンクレールの意識は曖昧にぼやけてしまっていた。視界が赤黒く混濁し、眼球はズキズキと痛みを訴えている。きつく目を閉じていたが、瞼を押し開けて熱を帯びた液体が流れていく感触があった。
手足が痺れ、力が入らない。磔になっているがために倒れることはないものの、平衡感覚は失われていた。見えざる支えがなければとっくに崩れ落ちていただろう。濁流を間近で聴いているような音が耳の奥で絶えず鳴り続けており、弛緩した口から錆臭い液体を吐き続けながら、なんとか呼吸をしていた。
意識の糸が急速に細くなっていく。頭のなかを様々な幻燈が駆け抜けては、意識に残ることなく消えていった。そのなかにはクロエやシフォンの姿があったが、乱れ、歪み、千切れ、明滅し、攪拌され、意味を持たないモザイクのひと欠片へと没していくばかりであった。
思考は砕け、時間の感覚もない。
自分がどのような状況にあるのかさえ不明瞭だった。
五感だけが意識の拠りどころで、それさえ遠ざかっていく。
――そんな状況でシンクレールが気を失わなかったのは、奇跡めいた偶然と言えよう。
「五分きっかりです。残念ながら……シャンティ様の攻撃は終了となります」
苦々しいその声は、シンクレールの耳には届いていなかった。とはいえ、磔から解放されてその場に崩れ落ちたことで、状況に変化があったことを全身で察した。
「シンクレールくんってタフだね。それだけ血を流せば、普通は気絶するのに」
シャンティの言葉の内容を、今のシンクレールは理解出来なかった。
彼女の声が、ひどくたわみながらも聴覚を刺激し、それがきっかけとなって目を開けた。
赤。
視界がすべて、赤く、暗い。腕を動かすだけでも億劫である。
這いつくばったまま目を擦ると、視界は多少の透明度を取り戻し――彼は段々と状況を理解していった。
自分が血だまりのなかに倒れ込んでいること。おびただしい血液が自分の目、耳、鼻、口から流れ出したものであること。
手足の麻痺は幾らか収まっていたが、しかし立ち上がろうとすると意識が遠のき、その場に倒れてしまった。
「これより五分間、シンクレール様の攻撃となります」
今度のマシモフの声は、意味ある言葉としてシンクレールの意識に入り込んだ。
――攻撃?
――ああ、そうか。攻撃か。僕のターンなんだ。早く立たないと。でも、なんだか怠い。身体に重石がついてるみたいだ。
――深呼吸。そう、深呼吸だ。時間は限られてる。早くしないと。
焦りが思考を加速させる。だが、その場に座り込むだけでやっとの状態だった。
磔の姿勢になったシャンティが、彼の薄赤い視界に映る。
「シンクレールくん、もう降参してくれない? さっきも言ったけど、さっさと爆発物を処理しなきゃなんだよね。さすがにあの規模の爆発じゃ、私がなんとかするしかないし」
嘲りのない、諭すような口調だった。おぼろげな意識のなかでも、彼女が焦りを抱いていることくらいは分かる。
白銀猟兵は今や、シンクレールにとっても不愉快な代物である。とはいえそれは、味方に被害が出る可能性があることや、自爆の事実をオブライエンが伏せていたことに起因する抵抗心だった。
現状、自軍は谷での戦闘を続けている。一方で白銀猟兵は、谷から距離を置いた場所で血族たちと戦闘している。爆発の被害があるとすれば敵側だけ。
シンクレールは、決死の思いで両手を頭上に掲げた。そして徐々に徐々に、魔力を集中させていく。
頭上に生まれた小さな氷塊が、肥大と縮小を不安定に繰り返した。
遠ざかる意識を繋ぐだけで、やっとの状態である。魔術を扱うのは困難極まりない。しかし彼は、難事を自らに強いた。
「もうやめなよ。シンクレールくんが万全の状態でも、魔術は通用しなかったでしょ? そんなボロボロの攻撃を打ったって、結果は見えてるよね」
彼女に氷の魔術は通用しない。確かにそれは、すでに証明されているようなものだった。全身を凍結させたうえで砕いても、彼女の身には傷ひとつつけられなかったのだから。
「……関係、ない」
無我夢中で声を発する。ほとんど呟くような声量だったが、そんなことはシンクレールにとって問題ではなかった。
「なんて?」
「関係、ないんだ。お前に勝つ、とか、そういうの」
シャンティの口から、呆れ果てたような濃いため息がこぼれた。
勝ち目のない相手に攻撃を仕掛け続けるのは、体力および魔力の無駄。それを自覚しながら力を振り絞るのは滑稽でさえある。ゆえに、彼女の呆れは至極当然のものだった。急ぎの用事がある以上、そうした健気な抵抗に苛立ちを覚えてしまうのも当たり前である。
丸々一分を消費して、直径二十メートルほどの巨大な氷塊を作り出したシンクレールに、シャンティは明らかな蔑視を送っていた。
「氷弾……母球!!!」
シンクレールは絶叫とともに、両手を前方に突き出した。
猛スピードで放たれた巨塊は、シャンティ――の遥か頭上を素通りしていく。
「あは。ごめん、可哀想だけど、ちょっとほんとに笑っちゃった。あんなに頑張って作ったのに命中しないとか」
あちこちで血族たちの追従笑いが弾ける。
シンクレールが渾身の力で放った攻撃は、彼女に命中しなかったのだ。つい笑ってしまうほど哀れな状況に違いない。彼女を討つことが目的であれば、だが。
不意に、シャンティの嘲笑が引いた。彼女の瞳には、必死の形相で両手をかざし続けるシンクレールの姿が、はっきりと映っている。彼の様子には、攻撃が外れたことへの落胆は露ほどもない。
首を捻って後ろを見返った彼女は、山岳地帯の上空――隊列を組んだ血族たちのちょうど真上で、今しも静止した氷塊を捉えたことだろう。
「一斉掃射!!!」
喉を破らんばかりの絶叫。それを合図に、空中に留まった氷塊が地上に向けて、猛烈な勢いで無数の弾丸を放った。氷のつぶてが嵐のごとく降り注ぐ先は、無論、血族たちである。
「へぇ……」シンクレールの意図を理解したのだろう。シャンティの声には感心が滲んでいた。「私に勝てないことが分かってるから、時間の使い方を変えたんだね」
最初の攻撃ターンが無為に終わった時点で、シンクレールは彼女の攻略ではなく、別の目的を見据えていた。
敵の勢力をいかに目減りさせるか。
それは、前線基地の存在意義そのものでもあった。
「お前に勝つのは、諦めた。けど、人間がお前らに勝つために、僕は全力を注ぐ!!」
シャンティが顔を前に――シンクレールのほうへと戻した。口元は不快そうに歪んでいるのに、目だけは感心の光に煌めいている。
「賢いね、シンクレールくん。大局が見えてる。勝つために自分を犠牲にする勇気もある。さっきの爆発といい、シンクレールくんの攻撃といい、こっちは大損害……」
でもね、と彼女は満面の笑みを浮かべた。
「こっちが受けた被害なんて、もうどうでもいい。それよりも、シンクレールくんのほうがずっとずっと価値が高いんだもの」
弾丸を射出し続ける氷塊に意識を集中しながらも、シンクレールは、口の端が自然と持ち上がるのを自覚した。
「そう言ってもらえて、嬉しいよ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




