Side Sinclair.「雨の追想」
※シンクレール視点の三人称です。
その日は雨が降っていた。風は絶えていて、小さな雨粒が垂直に降り注いでいる。まるで天上から無数の糸が垂れているように錯覚したことを、シンクレールはよく覚えている。大気は不思議なほど温く、防水加工の施されたコートの内側は、熱と湿気で臭い立っていた。
陽はとっくに暮れていて、王都北門から伸びる大通りに永久魔力灯が点々と灯っている。白く煙る街明かりを眺めながら、シンクレールは緊張と不安に苛まれていた。彼と同じく、閉じた門前で待機する十数名の騎士たちは落ち着きのない様子を見せている。
時刻は間もなく二十二時。いつ魔物が現れてもおかしくない時間帯である。にもかかわらず、シンクレールたちは門内に留まっていた
夜間防衛は原則、東西南北の門それぞれでチームを組んで行う。チームメンバーは流動的で、初対面の騎士と共闘することも珍しくない。だからこそ、どのチームも出発前に門前に集まって作戦を立てる――とシンクレールは思っていた。現に、見習い期間が終わって最初の夜間防衛のときは、みっちり三時間は作戦会議を行った。
今日は、シンクレールが一人前になってから二回目の夜間防衛である。今回も綿密な作戦会議を期待したのだが……チームを率いるリーダーが、一向に姿を現さない。
――まさか、作戦会議なしに戦いに出るなんてことはないはず。
そんなシンクレールの思い込みは、見事に叩き壊されることとなった。
「お前、シフォンさんのチームは初めてか? 作戦会議なんてねぇよ。黙って朝まで突っ立ってりゃいいんだ」
不安に駆られるシンクレールに対し、門前に集まった騎士のひとりがそんなことを口にした。冗談だろうと思ったのだが、結果的に男の言う通りとなった。
細雨のなかを亡霊のように現れたシフォンは、集った騎士たちに一瞥もくれなかった。騎士団支給の防水コートではなく、普段使いと思われる素っ気ないシャツとズボンを濡れるがままに濡らしている。
彼女を見て、シンクレールは愕然としてしまった。というのも、自分と少しも変わらない年齢の少女だったからである。同年代の女の子が騎士団ナンバー2の称号を得ている事実に、彼はしばし呆然としていた。
門番は彼女の性質を心得ているのか、言葉を交わすことなく門を開いた。
それに困惑したのはシンクレールばかりではない。見習いを卒業した新人騎士の何人かが、勇敢にも彼女に食ってかかった。
「なんでこんな遅れて来たんですか!」
「門を開く前に作戦を共有してください!」
「このままじゃ戦えません!」
そんな言葉の数々に対して、シフォンはただのひと言さえ返さなかった。一顧だにせず、門の外へと歩みを進めたのである。
「作戦なんて必要ねぇんだよ」ベテラン風情の男が言う。「俺たちは戦わねぇんだから」
案の定、男は新人騎士から質問攻めにあったが、シフォンはというとそうした問答がまるで耳に入っていないかのように、振り返ることも、立ち止まることもしなかった。
やがて追い出されるようにして壁外へ出た騎士たちは、閉じゆく門とシフォンの背とを交互に見やり、胸中の不安を強めていった。無論、シンクレールもそのうちのひとりである。
その日の夜間防衛は、男の言った通りの結果となった。十数名の騎士たちのうち、新人はただ呆然と夜闇に立ち尽くし、シフォンのチームに参加したことのある者は悠々と王都の壁にもたれ、雨の夜を眺めていた。なかには居眠りをしている者までいた。シンクレールはもちろん、呆然自失の側である。
グール、キマイラ、スピナマニス、タキシム……目まぐるしく襲い来る魔物たちは、門前に到達する前にことごとく霧散した。両断された魔物たちの間に、ときおり銀の髪が踊る。細い刃が微光に煌めく。朝になって魔物が自然消滅するまでの数時間、彼女の動きは一瞬たりとも止まらなかった。
嵐のシフォン。そう呼ばれる彼女の戦闘を目に焼き付け、彼はただ、なんて静かな嵐なんだろう、と思うばかりだった。猛烈な勢いで消えていく魔物たちは、さながら風の刃に切り刻まれているように見えた。まさしく嵐の激しさだったが、ときおり垣間見えるシフォンの表情は『無』そのもの。雄叫びはない。呼吸の乱れもない。渦巻く嵐の中心はどこまでも静かなのだと、シンクレールは悟った。
見惚れているうちに朝が来て、ようやくその日、自分が一発の魔術さえ行使していない現実に思い至ったのである。夜間戦闘のはじまる前に男が言っていたことの意味は、もはや新人全員が理解していた。
「あ、あの」
門へと帰還するシフォンを、シンクレールは思わず呼び止めていた。が、彼女の足は止まらない。一定の歩調は、彼が声をかける以前と以後でなにひとつ変わらなかった。
彼女に追い付き、その凍り付いた横顔を見据え、シンクレールはこうたずねた。
「どうしてそんな戦い方をするんですか?」
本当に言いたかったのは、もっと別の言葉だった。協力すれば負担が減るとか、それぞれの騎士の実力や得意分野を加味した作戦を立てればもっと楽に戦えるんじゃないかとか、そんなことを言いたかったのである。
「これが一番いいから」
それだけを口にして、シフォンは去ってしまった。彼女の戦闘を目にしたシンクレールにとって、その返答はあまりにしっくりときてしまった。異常なほど強烈な個の力は、小賢しい戦略を軽々と凌駕する。
シンクレールは降りやまぬ雨のなか、ただ立ち尽くしてシフォンの背を見つめ続けることしか出来なかった。
シフォンのチームに割り振られたのは、あとにも先にもその一度だけだった。だからこそ、彼女の頑強な孤独と静寂の嵐は、以後も塗り替えられることなくシンクレールの記憶に存在し続けている。防水コートを身に着けることはなく、濡れたシャツが肌を透かすことを意に介さず、他人との間に断絶を作り続けるその姿は、彼の心に不思議な想念をもたらした。
シフォンの見ている世界には、シフォン自身さえもいないのではないか。
孤独の極点には、当人すら存在しないのではないか。
勇者ニコルの凱旋パレードで彼女を目にしたとき、シンクレールは自分の考えが間違っていなかったことを知った。旅に出る前と、帰還した後。シフォンの無表情には、なんら変わりがなかったのである。英雄的な微笑を湛えて人々に手を振り返すニコルの真後ろに、凍てついた無が確固たる強度で歩いていた。彼女の世界には彼女すらいないのだと、そう言い聞かされたように感じたものである。
ニコルが王都を裏切ったと知らされたときも、シフォンに対するシンクレールの評価は揺るがなかった。なぜなら彼女の世界は空白であり、思想はない。裏切りも信念も成り立たない。彼女がニコルの味方をしているのは、偶然そのような風向きになっているだけであって、彼女の意志で決めたとは到底思えなかった。
彼女のいない彼女の世界では、いかなる選択も存在せず、ただ風の流れるような、自然現象と変わらない偶発的行動しかないのではないか。
戦場にシフォンがいると告げられて、シンクレールが頭に浮かべたのは別の女性の顔だった。
クロエ。
もしかするとシフォンは、今のクロエが行きつく先なのかもしれない。
そのように考えてしまうことを、シンクレールはやめられなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『キマイラ』→顔は獅子、胴は山羊、尻尾は蛇に似た大型魔物。獰猛で俊敏。詳しくは『100.「吶喊湿原の魔物」』『114.「湿原の主は血を好む」』にて
・『スピナマニス』→アルマジロに似た魔物。家屋ほどの大きさの中型魔物。外殻には鋭いトゲが生えている。標的を見つけると身体を丸めて転がるように突進する。詳しくは『281.「毒食の理由 ~獣の片鱗~」』にて
・『タキシム』→人型の魔物。全身が黒い靄に覆われている。指先から高速の呪力球を放つ。警戒心の強い魔物で、なかなか隙を見せない。詳しくは『341.「忘れる覚悟」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて