Side Sinclair.「がんばれ、がんばれ」
※シンクレール視点の三人称です。
『撤退を、お願いします、撤退を……』
自らの魔術がもたらした傷と痛みのなかで、シンクレールは荒い呼吸をしていた。左肩と右の脇腹が裂けて、血が滲んでいる。深緑色のローブに広がった血液は、暗闇の下で濃い黒の染みとなっていく。
そんな状態にあっても、エイミーの交信魔術は意識の中心に食い入っていた。
「シンクレールくん」
対面のシャンティを、シンクレールは虚ろな瞳で睨んだ。先ほどの魔術に要した繊細な集中から解放され、彼は痛みと倦怠の両方を鮮やかに感じていた。
「残念だったね。私を攻撃するふりをして、みんなを倒そうとしたんでしょ? でも、シンクレールくんの魔術は誰にも命中しなかった。自分が傷つく覚悟で攻撃して、傷ついたのは本当に自分だけだなんて。頑張ったのに報われない、かわいそうな眼鏡男子」
彼女の語尾は喜悦からか、歪に上擦っていた。
二人を取り囲む血族たちがアハアハと笑う。耳に慣れつつあった追従笑いも、今この瞬間においては屈辱を喚起するに余りある。
全員でなくとも、誰かには命中してくれる。シンクレールにそうした算段があったのは事実である。命までは奪えずとも、無数の弾丸のいくつかは致命的なダメージを与えてくれるのではないかと、そんな希望を抱いていた。しかし、氷の弾丸は一発たりとも取り巻きを捉えることはなかったのだ。直撃したはずのシャンティでさえ無傷である。
「残り二分ですよ。めげないで、頑張ってくださいませ」
小太りの男――マシモフが笑いを堪えつつ告げた。
周囲の血族たちが小声で会話をしているのが、シンクレールの耳に入った。残り二分で一発か二発くらいしか魔術を使えないだろうと、そんなことを言っていた。確かに、先ほど放った魔術にはたっぷり二分以上の時間を使っていた。取り巻きたちにとっては軽々と回避出来る程度の魔術であるのに。
彼らがシンクレールを侮るのは至極当然のことではあったが、時間と魔術に対する彼らの評価は誤っている。
「氷墓!!」
シャンティの頭上に巨大な氷の柱が形成され、垂直に落下する。
重たい響きとともに彼女の身体を圧し潰し、土煙が上がった。
冷笑が消える。
囁きが絶える。
周囲は水を打ったように静まり返った。
シンクレールの作り出した魔術によって、彼らの嘲笑や侮りは一瞬にして消え去ったのである。
氷の柱が消えると、砂埃の先で、やけに機敏な動きでシャンティが立ち上がるのがシンクレールの目に映った。再び両腕を開くその動作は、彼女自身が意図して行っているというより、目に見えない力で磔のかたちに戻されているようだった。
「氷の矢!」
周囲に展開された氷柱が、次々に放たれる。
シンクレールの目には、氷柱が彼女の身に激突する様子がはっきりと映っていた。最初に遭遇したときのように、妙な防御で弾かれてはいない。が、冷気と砂埃による斑な靄の隙間から時折見える彼女の表情には、依然として余裕が貼り付いていた。しかも、なんの傷もない。張りのある紫の肌は、どこもつるりとしている。着弾するたびに衝撃でのけぞりはするのだが、それだけだった。
氷の矢を解除し、両手を前に突き出す。魔力はすでに、両手の先に充分なほど満ちていた。
「氷牙!!」
地面から斜めに突き出た氷の柱が、彼女の腹に直撃する。シャンティの長身がくの字に折れ、空中へと放り出された。
「残り一分」と告げるマシモフの声が、シンクレールの耳に届いた。
吹き飛ぶシャンティへと手のひらを向け、照準を合わせる。展開すべき魔術を頭に思い描きながら。
「氷砲!」
一発の氷塊が、猛烈な勢いで放たれた。それは空中のシャンティに見事に命中し、彼女をさらに遠くへと吹き飛ばして――。
わずか二、三秒ののち、シャンティが磔の姿勢のまま、先ほどまで立っていた地面に回帰した。伸ばしたゴムが元の形状に戻るように、いかにも不自然な勢いで。それ自体は彼女の力ではなく、おそらくはマシモフによるものだろうとシンクレールは察した。一方的に攻撃する側と、攻撃を受ける側。そのルールを完全にすべく、マシモフが施した細工に違いない。突き倒そうと、吹き飛ばそうと、次の瞬間には磔のかたちに戻っている。それはシンクレール――攻撃側にとっては、むしろ好都合だった。どれだけ派手な攻撃をしても、次の攻撃に繋げられるのだから。
そう。圧倒的に攻撃側が有利なのだ。
問題はすべて、シャンティにある。
「がんばれ~」
彼女は薄笑いを浮かべて、そう言った。肌には傷ひとつない。あれだけ激しい攻撃を加えたというのに、吐血さえしていないようだった。
「みんなも応援してやんなよ、ほら。がんばれ~。シンクレールくん、がんばれ~」
がんばれ、がんばれ、と一定のリズムで声援が湧き起こった。そこに手拍子が加わる。
シンクレールは無意識のうちに目を見開いて、拳を握っていた。こんな種類の侮辱を受けたのは、はじめてのことだった。ただ、悔しさよりも、足元が崩壊していくような絶望感が強い。どうして自分の攻撃は彼女に一切ダメージを与えることが出来ないのか……その理由がまったく分からなかった。
それでも彼は歯を食い縛り、踏み出した。一歩、二歩と。やがてそれが疾駆へと変わる。向かう先は磔のシャンティ。
もう残り時間は一分を切っていて、この状況で出来る攻撃のバリエーションは多くない。
「がんばれ、がんばれ」
シャンティの目の前まで来ると、彼は足を止めた。そして、自分を見下ろす彼女の腹に手のひらを当てる。その瞬間「えっち」と言われて多少たじろいだが、強いて呼吸を一定に押さえつけた。
「氷獄!!!」
シャンティの全身が氷に包まれる。
氷塊の内部にいる彼女と、目が合った。
「氷墓……!」
氷の塊となった彼女の頭上に、これまででもっとも大きい、巨大な氷の柱が出現する。高度も、先ほどの同じ魔術よりずっと高い。
バックステップを踏んで距離を取り、シンクレールは掲げた右手を振り下ろした。それと連動するように柱が落下する。
凍結された彼女まで、二メートル。
一メートル。
三十センチ。
十センチ――。
破砕音が鳴り響き、氷の破片が散った。真っ白な冷気の靄が流れ出し、シンクレールの視界はたちまちに奪われていく。
一方的な攻撃として、自分に出来る最大限のことはしたつもりだった。短時間にいくつもの魔術を連ねたために、過呼吸になりつつある。心臓は不安定なリズムで高鳴っていた。思わず地面に膝を突いて俯くと、急に唾液が舌の根を昇り、口内を満たした。
「五分経過です。シンクレール様の攻撃は終了……」
シンクレールが顔を上げると、靄の先でゆらりと影が揺れた。
視界が徐々に正常に戻っていく。
晴れゆく靄の中心で、シャンティが気持ち良さそうに伸びをしていた。その身体にはどこにも欠損がない。血の一滴さえ流れていない。
「お疲れ様、シンクレールくん。残念だったね。かわいそ~」
接近するシャンティは、まったくの無傷だった。
徒労感がシンクレールの胸中を満たしていく。
『……』
息を呑む音が、耳の奥に届いた。そこには『ぁ』という微かな声が混じっている。
紛れもなく、エイミーの声だった。なにか重要な物事を口にする前の緊張が、そこに窺える。
シンクレールは立ち上がり、シャンティの視線を正面から受け止めた。彼の表情からは、徒労や絶望はすっかり失せていた。
『各拠点に通達します。現在前線基地を襲撃しているのは簒奪卿シャンティの部隊のみ。血族二千、魔物は八千。ほかの貴族は東の山脈から別のルートを辿っている模様。繰り返します――』
エイミーへの感謝だけが、シンクレールの胸を覆っていた。
――前線基地に残り続けてくれて、ありがとう。
――僕のメッセージを受け取ってくれて、ありがとう。
最初に放った氷の弾丸。
そのひとつに混入させた走り書きのメモが、シンクレールの計算した通りの軌道でエイミーの待機する岩場に届いたのである。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『氷の矢』→氷柱を放つ魔術。初出は『269.「後悔よりも強く」』
・『氷牙』→大地から氷のトゲを展開する魔術。初出は『Side Sinclair.「憧憬演戯」』
・『氷墓』→空中から氷の柱を降らす魔術。初出は『Side Sinclair.「裏切りの日の思い出」』
・『氷獄』→対象を氷の箱に閉じ込める魔術。閉じ込められた相手は仮死状態になるが、魔術が解ければそれまで通り意識を取り戻す。相手によっては意識を保ったままの場合もある。詳しくは『270.「契約」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて




