Side Sinclair.「案山子遊戯」
※シンクレール視点の三人称です。
ルールは簡単。子供でも分かる。
決められた時間、攻撃側は好き放題。もう片方は、やられ放題。泣き叫ぶのは自由だけれど、逃げ出すなんて出来やしない。
一対一のお遊戯で、ほかの奴らにゃ手出しは出来ない。二人っきりの、案山子ゲーム。
小太りの血族――マシモフは歌うように説明すると、シンクレールに向かって芝居気たっぷりに会釈した。
「言っておきますが、ルールは徹底的に遵守していただきます。お互いの報酬についても、取り決め通りに履行していただきましょう。シャンティ様は、全軍の指揮権をシンクレール様にお譲りになる」
マシモフは、ひょこひょこと陽気なステップを踏みながら言う。自分の滑稽さを充分に心得ているような、そんな剽軽さに見えた。背が低く小太り。燕尾服。ちんまりした帽子とステッキ。目尻にも口の端にも、笑い皺がくっきりと出ている。燕尾服を来た卵――そんなイメージが一瞬シンクレールの頭に浮かび、すぐに消えていった。
「シンクレール様がお譲りになるものは――」
「僕は全軍に戦闘停止の指示を出す。血族にも魔物にも危害を加えないよう、命令するさ。君たちは安全に王都に向かうことが出来る。それでいいだろ?」
しかし、シャンティはゆっくりと首を横に振った。
「シンクレールくん、それはダメ。こっちは全軍の指揮権を渡すんだから、シンクレールくんも全部渡さなきゃ」
「……身柄を渡せばいいのか?」
「そう。戦闘停止の命令と、絶対服従の命令を出すこと。もちろん、シンクレールくんも例外じゃないからね。負けたら私のものになるんだよ?」
シンクレールの視線は、自然と地べたを流れていく。やがて地に伏したままの長髪の血族――リクを捉え、眼球の移動が停止した。
敗北は隷属を意味する。それはきっと、死ぬよりも不愉快なことだろう。つい先ほどシャンティのブーツの汚れを舐め取ったリクの姿が、正真正銘、自分の未来の姿となる。それを思って、シンクレールは奥歯を噛み締めた。
「かまわない」全部失うことは決して望ましくはないが、覚悟の上だった。「……決闘は一対一。つまり、シャンティ以外は僕に危害を加えられないってことでいいんだな?」
マシモフが恭しく一礼して答える。「ええ、その通りでございます」
「僕の魔術の邪魔をすることも禁止でいいんだよな?」
「当然ですとも。我々はお二人に一切、干渉しません」
取り巻きが妨害してくるのではないか?
――シンクレールはそんなことを危惧したのではない。まったく別の事柄を頭に描いていた。
「僕が放った魔術が、お前らに命中しそうになったらどうする?」
「避けますとも。見くびってもらっては困ります」ただし、とマシモフは付け加えた。「わたくしめに対するお二人の攻撃は、例外なく無力化されますのでご注意を。ゲームマスターですからね。多少の特権は許容の範疇……嗚呼、そう不安そうな顔をしないでくださいませ、シンクレール様。特権といっても、わたくしめの安全にまつわることですので、お二人の勝負を不当に妨げる真似は一切しないと誓いましょう」
攻撃が無力化される、という言い回しが引っ掛かったが、要するに身の安全を確保するために釘を刺しただけだろうとシンクレールは解釈した。なんにせよ、こちらの行動を邪魔さえしなければなんだっていいと、そればかり考えていた。
『撤退、してください……お願いします』
か細い女性の声が、シンクレールの耳を震わした。エイミーの交信魔術は一定間隔で続いている。しかし、兵士たちの獣じみた咆哮が収まる気配はない。彼らの頭に撤退の二字はないのだ。不当に高められた憎しみと、それに依拠する闘志だけがある。谷は今や、憎悪の坩堝であった。
「攻撃時間はどういたしましょうか?」
いつの間にやら、マシモフはシンクレールの目の前にいた。人差し指をピンと張って、不敵に笑っている。「チクタク、チクタク、チックタック」という呟きが、シンクレールの耳に入った。
すでにシンクレールが先攻と決まっている。もちろん、初回で完膚なきまでにシャンティを叩き潰すつもりでいた。ゆえに、時間は長ければ長いほどいい。
「私は何時間でもいいんだけどね」と言ったのはシャンティである。「シンクレールくんと遊んでられる時間は長くないの。だから、どんなに長くても五分にしてくれない?」
「じゃあ五分だ」
そう答えた瞬間、周囲でクスクス笑いが漏れた。シャンティも堪え切れずといった様子で、口元に手を当てて笑っている。
なにがおかしいのか、シンクレールにはさっぱり分からなかった。
「シンクレールくんさあ、自分も同じだけの時間、好きにされちゃうんだよ? そのこと、ちゃんと考えてる?」
「余計な心配をするな。僕には僕の考えがある」
「そう。じゃあ、いいよ。五分ね。……マシモフ!」
オホン、と咳払いをして、マシモフは後退した。シンクレールとシャンティとを満遍なく視界に収められる位置まで。
「それでは、準備はよろしいですか?」
シンクレールとシャンティとの距離は十メートルほど開いていた。魔術師にとってはなんの問題にもならない距離である。ゆえに、シンクレールはただただ両手に魔力を集中させた。
意識を研ぎ澄まし、開始の合図とともに放つ魔術のイメージを固めていく。
放つ氷のサイズ。
放物線。
籠める力の塩梅。
それらによって出力が大きく変わってしまうのが、魔術という代物である。精神的な綻びの分だけ練度が下がり、集中と想像が過不足なく合致すれば思い描いた通りのかたちになってくれる。繊細な魔術を放つにあたっては、魔力の籠めすぎや過剰な集中も禁物である。
シンクレールが頭に描く魔術も、その類のものだった。
「それでは、カウントダウン。さん、に、いち――」
顔を上げると、シャンティと目が合った。彼女は踵をぴったりとくっつけ、背筋を伸ばし、両腕を大きく横に広げていた。まさしく、案山子の姿である。そうして、微笑んでいる。笑みに毒々しさを感じるのが装飾のせいなのかどうか、シンクレールには分からなかった。
本当で無抵抗でいるつもりなのだろうか、という疑念がシンクレールの心中に根を張っていた。彼女の態度は、遭遇したときからほとんど余裕そのものである。唯一の変化はリクをいたぶったときの激昂だけ。それも、彼女の傲慢さが持つ別の表情にしか見えなかった。あとは、シンクレールが咄嗟の攻撃を加えたときも、平然と、高所から見下ろすような驕りを崩していない。今こうして腕を広げている姿にも、蹂躙されることへの恐れや不安は皆無だった。
――自信の根拠がどこかにあるんだ。自分が決して痛めつけられたりなんかしないと思っているから、態度が一貫してるんだ。
彼女を見据えたシンクレールのほうが、よほど心を揺らしていた。考えれば考えるほどに、目の前の存在が脅威を増していくように思えてならない。
「どうしたの、シンクレールくん。ほら、おいで~」
シャンティの言葉で、シンクレールは我に返った。思考の大部分が彼女の異常な態度へと吸い込まれていて、耳はほとんどなんの音も拾っていなかったのである。マシモフが『決闘開始!』と叫んだ声すら意識に届いていなかった。
苦笑交じりにマシモフが言う。「もうはじまっておりますよ」
シンクレールの両手に籠った魔力が、不安定に揺れる。
増減する。
拡大と縮小を繰り返す。
『もしシャンティに出くわしたら、逃げることですな』
ヨハンの警告が今頭に浮かんでしまったことに、シンクレールは苛立ちを感じた。自分自身の魔力の揺らぎと重なるように、彼の感情も不安定に起伏する。
単なる攻撃魔術であれば、不安定さを無視してでも彼は放出したことだろう。しかし、今だけは繊細な制御を自分に課していた。
――落ち着け。落ち着いて、魔術を練り上げろ。大丈夫。時間はたっぷりある。
「残り四分!」
「え、もう一分も」
彼は愕然とした。なにか、騙されているような気がした。マシモフが不当に時間を短くしようと小細工をしているんじゃないかと疑ったが、事実、もう一分経過していたのである。時間の流れすら正確に把握出来ないほど彼は動揺していた。
――この一回でいい。この一撃だけ、集中すればいいんだ。一度落ち着けば、あとはきっと大丈夫だから。
動揺の波は、完全には鎮まってくれなかった。小刻みな揺れが、彼の苛立ちを刺激する。周囲を遠巻きに囲む血族たちがクスクスと小声で笑いを交換しているのも、シンクレールの気に障った。
「残り三分!」
時間は着実に流れている。その事実に絶望を感じずにいられるような神経の太さを持っていたならば、そもそもシンクレールが動揺することはなかっただろう。二分間、まったく攻撃することなく集中力を乱され続けていたことに、彼は呼吸を荒くした。そうした息の乱れさえ、今の彼は自覚することなどなかった。ただただ頭のなかで繰り返し、落ち着け、と唱え続けるばかりである。
『お願いします! 撤退……してください』
耳に流れたエイミーの声。絶望に震える声。もう全滅するのだと、悟りきった声。それなのに、指示を伝え続けるその声。
絶えず揺れていた魔力が、さながら水面が凪ぐように、ピンと一定の力で張り詰めた。シンクレールの周囲が、急速に冷えていく。
「轟氷散弾!」
掲げた両手の先に、直径三メートルほどの氷の塊が浮かぶ。ごつごつと歪に隆起したそれが、シンクレールの腕の動きに従って、シャンティへと放たれた。
「いけええええええぇぇぇぇ!!!」
氷塊がシャンティに直撃した瞬間――四方八方へ勢いよく弾け飛んだ。
噴出した冷気の靄に隠れて、鋭利な弾丸と化した氷が放射状に、一気に散っていく。それら氷のいくつかは、術者であるシンクレールの身体に突き刺さり、痛みと出血をもたらした。
氷が弾けたのは、シャンティがなんらかの防御を行ったからではない。シンクレール自身がそのように調整したのだ。
敵の身体に激突した瞬間、無数の銃弾として放たれるように。
何百メートル先にも届きうる推進力と速度を備えるように。
自分自身も傷を負うことは覚悟の上だった。
やがて冷気の靄が晴れ――シンクレールは無傷のシャンティを目にした。一発も、その肌を裂いていない。
――それは、いい。もとより目的はシャンティへの攻撃じゃない。
シンクレールは素早く周囲に目をやり、やがて、脱力感に襲われた。愕然と、口が半開きになる。
「大丈夫? シンクレールくん。自分の攻撃で自分をいじめるなんて、びっくり」
シャンティの声に、笑いが付き従う。
四方八方へと放射した氷の弾丸は、周囲の血族にただの一発さえ直撃していなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




