Side Sinclair.「過去の遺物」
※シンクレール視点の三人称です。
下方に口を開けた谷から、轟きが上昇する。絶叫に似た咆哮には、しかし臆病さなど微塵も含まれていないようだった。現に兵士たちは、殺意だけを心の中心に据えて谷間で吼えている。振るう剣には一切の遠慮がなかった。魔物だろうと血族だろうと、敵である以上、必ずや打ち倒さねばならない。自らの命を憎悪の灼熱で灰塵とすることにこそ、飢えていた。彼らのなかには、自分自身の胸に突如として去来した憎しみの猛りに疑問を抱く者もいたが、とめどない感情の流露の前では冷静さを取り戻すことなど不可能だった。疑いの種から目を逸らし、目前の敵を討つことだけがすべてだった。
つまり。
オブライエンが剣に施した魔術を、誰ひとり打ち破ることが出来なかったのである。いち兵士はもちろんのこと、分隊長を担う実力者でさえ、敵の血で全身を潤すことしか頭にない獣と化していた。そんな彼らの耳に幾度も訪れる撤退命令は、世迷言とすら認識されない。
雄叫び渦巻く戦場と比較して、シンクレールの立つ岩場は沈黙が領していた。今しも彼が放った言葉により、誰もが絶句していたのである。
なかでも誰より戸惑っていたのは、ほかならぬシンクレール自身だった。
――僕はなにを言ってるんだ? 敵同士が争うのは好都合じゃないか。それなのに、勘弁してやってくれ、だなんて。僕は一体、どういうつもりなんだ。
噴出した疑問は渦を巻き、解消されないまま膨れ上がっていく。しかし、後悔はない。戸惑いだけが彼の胸にあった。
「優しいね、シンクレールくん」
シャンティの目尻に柔らかな皺が寄る。穏やかな微笑でさえ、彼女の顔面に施された装身具の数々が、凶悪な内心を却って暴露しているようだった。
「見苦しいんだ、そういうのは」
張り上げるつもりでシンクレールが放った声は、か細く流れただけだった。しかし先ほどのように、なかば無意識に口にしたわけではない。今度の言葉は、彼が自分の心に従って織りなしたものである。
相手がどこの誰であろうと、一方的にいたぶられる姿を目にするのは心苦しい。それは、シンクレールの偽らざる本心である。被虐者の顔に、かつての自分を重ねてもいた。すなわち、虐げられるリクを救うためではなく、その姿に自分の過去を見出してしまうのが苦しくて、言葉を紡いだのだった。
地に伏したリクが、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は束の間シンクレールを捉えたが、すぐにシャンティの足元――ブーツへと移った。
リクの舌先が、ブーツに触れる。彼の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
「シンクレールくん。さっき、ほかの貴族がどうとか言ってたよね」シャンティはリクを見下ろし、愉快そうに言う。「嘘をついたわけじゃないんだけど、厳密には違うの。私の部隊には爵位持ちもいる」
たとえば、と言って、彼女はブーツの爪先で地面を何度か叩いた。新鮮な唾液に濡れた爪先に、土がこびりつく。と、それを再びリクの鼻先に突き付けた。敗残者の赤い舌が、意図的な汚れを舐めとっていく。シンクレールはそれを、ただ怒りを籠めて眺めていた。
「私のブーツを喜んで舐めてるこいつは、伯爵位を持ってるんだよ。家柄って意味なら、子爵の私とは格が違う。けどさ、それってあくまでも過去の遺物なわけ。分かる? ……分かんないか。グレキランス人だもんね」
彼女の言う過去の遺物が、かつてのラガニアを指しているのだとシンクレールには分かった。ラルフの記憶によると、ラガニアでは領地の多寡によって爵位が決められる。オブライエンが掻き回すまでは、ほとんどの家で爵位の変化は生じなかったらしい。彼女ら血族は、例の悲劇ののちも過去のヒエラルキーに一定の価値を置いているのだろう。
それなら、とシンクレールは疑問を抱いた。それなら、どうしてリクは足蹴にされてるんだ。
当然の疑問と心得ていたのか、シャンティは得意げに笑った。
「爵位なんて、今じゃ絶対の価値なんて持たないの。それよりも力がものを言う。それが一番分かりやすいからね」
「……力で捻じ伏せて、全部奪ったのか」
「私はなんにも奪ってないよ。誤解しないで。平和に暮らす私たちの領地を、こいつが奪おうとしたの。だから返り討ちにした。そしたら、こいつが忠誠を誓ったってわけ。私はなにも奪ってない。むしろ、与えたんだよ。私という君主をね」
胸に手を当てながら話すシャンティに、シンクレールは偽りしか感じなかった。かつて自分を意のままに操っていた奴の心性と酷似したものを、シャンティに感じ取ったのである。
善悪について、この女は詭弁しか言わない。シンクレールはそう判断した。一方で、先ほど彼女の漏らした情報――ほかの血族たちが別ルートを歩んでいること――については真実だと直観していた。この手合いは虚栄心が強い。自信過剰で、傲慢。だからこそ、ほかの有力者と組んで戦略を張り巡らすような真似はしない。ゆえに、こちらを嵌めるつもりで偽の情報を撒いた可能性は低い。
「私からも質問。色々教えてあげたんだから、ちゃんと答えてくれるよね?」
シャンティの瞳が、まっすぐにシンクレールを射る。
急激に、彼女の声が低くなった。まるで脅すように。「その首輪、誰につけられたの?」
首輪、と言われて彼はハッとした。閃光のようにルーカスの顔が頭に浮かび、次にクロエの顔へと移り変わっていく。
『灰銀の太陽』の情報と引き換えに、クロエは首輪を――血族たちのオークションの出品物であることを証し立てする首輪を身に着けたのである。彼女だけにリスクを負わせるのが嫌で、シンクレールもルーカスの出品物としての証を装着したのだった。実際に出品されるかどうかはこちらの意思次第であり、その意味では害はない。あくまでも出品権をほかの血族に渡したくないというルーカスの独占欲の象徴だった。
シンクレールは生唾を呑み、ぎこちない微笑を作り上げた。
「洒落てるだろ? 自分でつけたんだ」
瞬間、重たい音が周囲に鳴り響いた。シャンティの蹴り上げた足と、リクの放物線だけが、シンクレールの目に映っている。蹴る瞬間はあまりにも早く、視認出来たのは蹴撃が終わった光景だけだった。
「いつまで舐めてんだよ」と吐き捨てるように言ってから、彼女はシンクレールに笑顔を向けた。「ごめん、聞いてなかったんだけど、結局誰につけられたの? オークションの首輪」
「……ルーカス」
そう答えるほかなかった。答えてから、自分は馬鹿だと、内心で罵った。敵を庇うような真似を続けて、一体なんのつもりなんだ。
「ふーん……知らない名前。ねえ、誰か知ってる?」
取り巻きは一斉に首を横に振る。機械的な動作だった。
「グレキランスに隠居してる血族だ。昔オークションの支配人をしてたとか、そんな話を聞いたことがある」
「ああ、そう。落人ね。まったく、がっかり」彼女はわざとらしく額を押さえて項垂れた。「ま、いいよ。別に。約束なんて関係ない」
彼女の落胆の理由も、約束がなにを指すのかも、シンクレールには分からなかった。戦争で得たあらゆるものをオークションに出す決め事など、彼には知りようがない。
「さて、それじゃ」シャンティは伸びをしてから、コキコキと軽く首を鳴らした。「決闘しよっか。ルールはどうする?」
「勝ったほうが相手の軍勢を好きに――」
「そういうことじゃなくて」
あはは、と彼女は声を出して笑った。
この状況でまだ笑えるその神経に、シンクレールは薄気味の悪さを感じて仕方なかった。さっきまで味方をいたぶり、これから命がけの戦いをするというのに。ましてや今は戦場にいるわけで、彼女の部下だって必死に戦っているのだ。そんな背景全部、意識にすら入っていないような、そんな笑いだった。
「じゃあ、どういうことだよ」
「決闘のルールだってば。……マシモフ!」
直後、「はい、シャンティ様」と取り巻きのひとりが歩み出た。小太りで背が低い。そしてやたらとニヤニヤしている。
マシモフと呼ばれた男は、シンクレールに軽く会釈をした。
「わたくしはマシモフと申します。シンクレール様、どうぞお見知りおきを。僭越ながら、わたくしめがルールの説明をさせていただきたく……。まず、シャンティ様の流儀における決闘とは、一定のルールに基づいて厳格に管理される儀式でございます。報酬の取り決めはもちろんのこと、どのように争うかも合意の上でなされます。たとえば魔術禁止ですとか――」
「駄目だ。魔術は有効にしてもらう」
饒舌に語るマシモフに、思わず口を挟む。魔術が使用出来なければ、シンクレールはただの一般人でしかない。
「左様でございますか。でしたら、案山子はいかがでしょうか」
「案山子?」
「左様」マシモフは短い人差し指を、さも得意気に頭の横で立てた。「先攻と後攻を決めまして、時間を区切って一方的に攻撃するルールでございます。攻撃側は好きに戦ってかまいませんが、案山子側は一切の行動が禁じられます。つまり、その間は攻撃側のやりたい放題というわけです」
なんだそれ、とシンクレールは眉をひそめた。そんなの先に攻撃側になったほうの勝ちじゃないか、と。
そんなシンクレールに対して、シャンティはニコニコと「案山子なら、そっちが先攻でいいよ」と言い放った。なんの淀みもなく。当然の権利だとでも言うように。
「なら、その案山子とかいうルールでかまわない」
勝ちの目が、ほんの少し間近に見えた気がした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ルーカス』→『魔女の湿原』の北に広がる高原に住む『黒の血族』。銀色の梟面を身に着けた小太りの男。父である『巌窟王』と一緒に暮らしている。同じ血族であるマダムに攫った人間を提供していた。血族のみ参加出来るオークションで司会をしていたが、クビになった過去を持つ。クロエをオークションに出品する優先権を持っている。詳しくは『472.「ほんの少し先に」』『609.「垂涎の商品」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『落人』→ラガニアから放逐され、グレキランスへ渡った血族を指す蔑称。
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗すべく結成された。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




