Side Sinclair.「血は、舌で」
※シンクレール視点の三人称です。
荒れた岩場に立つ長身の女――シャンティを睨み、シンクレールは手元に転がり込んだ好機に武者震いを覚えた。
負ける予感も死の覚悟も、充分に感じている。しかしそれでも、目の前の女が漂わせている油断を突けば、勝利の可能性もあるのではないか。そんな希望もまた、彼の内側で強く鼓動していた。
不穏な前情報を持っていても、蓋を開けてみるまで結果は分からない。無暗に恐れてチャンスを失うような愚を演じてはいけない。彼は自分にそう言い聞かせた。
「ひとつ確認なんだが、お前がここにいる全軍の指揮権を持ってるんだな?」
軽やかにたずねるつもりでいたのだが、身体も口調も硬く強張ってしまった。
一方、シャンティはあくまでも嘲笑の体を崩さなかった。一笑し、取り巻きに目配せをする。と、側近らしき長髪の男を除き、追従の笑いが広がった。
「シンクレールくん、普段からそんな喋り方なの? 緊張しないで、もっとリラックスしなよ」
「戯言に付き合うつもりはない。答えろ」
彼女は滑らかに肩を竦めて返す。「その通りだよ。私が指揮官。だから、シンクレールくんが勝てば全部自由に出来る」
言って、彼女は山岳地帯に蠢く血族たちを手で示した。
嫌われ者の血族。ヨハンから聞いたシャンティの情報が、シンクレールの頭をよぎった。
闇のなかに広がる膨大な勢力は、彼女の私兵だけだとは思えない。そこには、ほかの貴族の部隊も含まれているのではないか。もし自分が勝利したとしても、彼女に従う者はひと握りなのではないか。そんな疑念が、シンクレールの口を伝って漏れ出ようとしていた。
「……ほかの貴族はそれで納得するのか?」
「うん? ほかの貴族?」
首を傾げる彼女の仕草は、シンクレールの目にはわざとらしいものとしか映らなかった。
「全部がお前の部下ってわけじゃないだろ」
「うん、確かに。魔物はイブちゃんから借りてる。けど、私の指示には従うようになってるよ。その意味では、ここにいる全部が私のしもべ」
「え……」
急激に弛緩した口から、間の抜けた声が流れ出た。
千や二千ではきかない数が一帯に広がっている。魔物を含めれば倍以上に膨れ上がる勢力が、彼女の部隊だけだとは想定していなかったのだ。ほかの貴族との連合だとばかり思っていた。
冷たい汗が、シンクレールの背筋を這い降りていく。なんとか身震いを堪えたが、彼のショックはシャンティにしっかりと伝わっていたらしい。彼女は愉しげに目を細めた。
「すんごい顔色悪くなっちゃったんだけど」
取り巻きたちの笑いが、風音を押しのけて弾ける。
が、彼らの嘲笑はシンクレールの意識に届いていなかった。まったく別の考えに心を囚われていたのである。
ここにいるのはシャンティの部隊のみ。ということはつまり、彼女以外の有力者はすべて別のルートを進んでいるということになる。夜会卿も、それ以外も。
交信魔術を会得していないことを、これほど苦しく感じたことはなかった。
敵の大部分は王都への直進を選ばず、迂路をたどっている。それが人間側の戦略上、極めて重要な情報なのは間違いない。
「シャンティ」
「なぁに、シンクレールくん」
「なんでお前たちだけで直進したんだ?」
「決まってるでしょ」彼女は王都の方面を指さして、ふたつに裂けた舌で唇を舐めた。「私たちが一番早くグレキランスを落とすんだよ。美味しいところは、ぜぇんぶ、私のもの」
「……なら、ほかの貴族はお前と違って、一致団結して進んでるんだな」
「ううん、そうでもないよ。もちろん一部の奴らは徒党組んでるけどさぁ、私、そういうの好きじゃないんだよね。潔くなくない?」
どうしてエイミーをこの場に引っ張ってこなかったのか、シンクレールは悔やんだ。ここに彼女がいれば、即座に情報を別拠点に流すことが出来たのだから、当然の後悔である。しかしながら、彼女の意思を無視して危険地帯に引っ張っていくことなど彼には出来なかったのも事実だった。
そして『共益紙』のことも悔やんでいる。シンクレールはクロエと再会した際に、彼女にその魔道具を渡したのである。今後、前線基地は敵に蹂躙されることになる。いかに努力しようと、そうなるであろう未来は変えられない。だからこそ、内密に情報をやり取り出来るその道具が敵の手に渡ってしまう可能性を憂いたのだ。
ここにエイミーがいなくとも、そして『共益紙』がなくとも、多くの情報を得るのは無駄ではない。伝える機会が永遠に失われたわけではないのだから。――そう自身を鼓舞するしかなかった。
「失礼ながら」長髪の男が、咳払いをして口を挟んだ。「喋りすぎてはいませんか、シャンティ様」
側近らしき男の指摘は真っ当である。自軍の情報をべらべらと敵に与えるなど、誰が見ても愚行だろう。
数秒の沈黙ののち、シャンティは立ち上がって男へと歩み寄った。
シンクレールは彼女の姿を目で追いながら、そっと両手をローブのポケットに突っ込む。
「おい」
シャンティが男の髪を掴んだとき、シンクレールはほとんど反射的に身を硬くしてしまった。彼女の声色や表情に貼り付いた暴力の気配が、不快な記憶とリンクしたからである。
破裂音としか言いようのないほど強烈な音が、高らかに響き渡った。
「私はシンクレールくんとお喋りしてたんだけど」
またぞろ、破裂音が鳴る。男の頬を打つシャンティの手は、かろうじて残像が見えるほどの速度だった。
「なあ、おい、リク。聴いてんのかよ!!」
音が弾ける。
「楽しくお喋りしてんだろうがよ!!」
また、弾ける。
「なんで邪魔すんだよ!!」
ひときわ強い音が鳴り、長髪の男――リクは地に倒れた。
彼女が、まるで薄汚いものを捨て去るように手を払うと、ひと塊のなにかが落ちた。シンクレールの視線が、その物体に引き寄せられる。それが頭皮のついた髪束であることを知って、彼は思わず歯噛みした。
リクは横たわったまま動かない。垂れた鼻血が地面に染みを作っている。
そんな彼の顔面を、シャンティはボールでも扱うように爪先で蹴り飛ばした。
噴き出した鼻血が彼の顔に従って放物線を描く。
「あーあ……ブーツに血がついたぁ……リク、拭けよ」
彼女はわざわざリクの倒れた地点まで歩き、爪先を彼の顔に押し付けた。
今、一方的に虐げられているリクは、紛れもなく強者である。刃の軌道は流麗で無駄がなく、放っておいたらきっと何人もの人間の命を奪うに違いない。
シンクレールは全身に力が入るのをはっきりと感じながら、頭で唱えた。
――せいぜい仲間割れをすればいい。殺し合いに発展すれば、もっといい。
リクが跪き、ハンカチを取り出した。刹那、シャンティが顔面を蹴り上げる。
彼はまたしても弧を描き、後頭部を岩に打ち付けて悶絶した。
「ハンカチなんか使ってんじゃねーよ! 舌でしょ、舌! 自分の出した血ぐらい自分で舐めるのが当たり前!! みんなもそう思うよねぇ!?」
水を向けられた取り巻きが、脊髄反射的に首を縦に振った。
四つ這いで進んだリクが、彼女のブーツに口を寄せる。目も表情も、死者のそれと似ていた。
「もうやめろ」
自分自身の口から漏れた呟きを、シンクレールは確かに聞き取った。
「勘弁してやってくれ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『イブ』→魔王の名。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。水に浸すと文字が消える。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて




