Side Sinclair.「無敗の女子爵」
※シンクレール視点の三人称です。
『どういう奴なんだ、シャンティってのは』
『色々な噂を耳にしましたが、共通しているのはサディストである点だけですね。なにぶん直接会ったことがありませんので、確かなことは言えませんなぁ』
『性格はどうでもいいさ。それより、そいつの攻撃手段は知らないのか?』
『……出会ったら逃げろと言いましたよね? もしかしてシンクレールさんも強者と戦いたいという性癖をお持ちで?』
『まさか。情報として押さえておきたいだけさ』
『そうでしたか……まあ、攻撃手段なんて知らないんですけどね』
『魔術を使うかどうかすら分からないのか?』
『さあ』
『なんだよ、なにも知らないじゃないか』
『まあまあ、そう責めないでください。彼女にまつわる噂話にも、そのあたりの情報は一切欠けているんですよ。これまで誰の侵略も許さなかった無敗の女子爵……しかし、その迎撃方法を知る者は皆無。かなりの秘密主義者か、あるいは――』
『忘却魔術?』
『それも可能性としてはありますが、もっと簡単な方法があります。手の内を知る外部の者を、ひとり残らず消せばいいんですよ。彼女の土地に侵略を仕掛けた者のうち、生き残るのは決まって後方の血族だけでした』
『……つまり、前線でシャンティの攻撃を目にした奴は例外なく――』
『ええ、お察しの通りです。この世から消される』
ヨハンが『出会ったら逃げろ』と繰り返していた相手が、目の前にいる。自分のずば抜けた運の悪さに、シンクレールは苦々しい思いを抱いた。
「シンクレールくんさぁ」今しもシャンティと名乗った女が、背後を振り仰ぐ。彼女の視線の先には谷間が位置していた。「誰かの上に立った経験、ないでしょ」
彼女の指摘は、まったくその通りであった。騎士団ナンバー4の序列を得てからもトリクシィの指示のもとで夜間戦闘を行っていたし、クロエと一緒に旅をすることになってからも同じだった。もちろん、騎士として戦うなかで小さな部隊のリーダーを任されることはあったものの、幸か不幸か、責任を問われるような重大事は起こらなかった。
「図星……。いいよ、別に恥ずかしがらなくって」
シンクレールは顔色ひとつ変えていないつもりでいたが、彼女から見れば、どこかに狼狽の気配が滲んでいたのかもしれない。いずれにせよシンクレールとしては、接触してはならないレベルの強者とどう戦うか、どこまで情報を引き出せるのか――そのことばかりに意識を集中しているつもりだった。
不意に、彼女の背後で淡い青の液体が沸き立った。それは一本の線となって上へと昇り、枝分かれしていく。分かれた先の液体はさらに分岐を繰り返しながら、水平に、上方に、あるいは下へと流れていく。青の液体がシンクレールも見慣れた物体をかたどるのに、そう時間はかからなかった。一瞬と言ってもいいかもしれない。
半透明な、一脚の椅子。それがシャンティの後ろに出来上がっていた。
彼女は悠然と腰を下ろす。
「シンクレールくんも座るといいよ。立ったままだと疲れるでしょ」
そう言われて振り返ったシンクレールの目に、彼女のそれとほとんど変わらない造りの椅子が映る。自分の背後でも同じように椅子の構築が行われていたことに、彼はまったく気付いていなかった。
どちらの椅子も、ゆるやかに魔力が渦巻いている。氷の魔術か、水の魔術か、それとももっと別のなにかか。シンクレールには判断がつかなかったが、勧められるがままに腰を下ろす気にはなれなかった。
「悪いけど、遠慮しておく」
「なんの仕掛けもない椅子なのに」
彼女は笑い、取り巻きに視線を送った。それを合図に、血族たちが不揃いな笑いを返す。椅子が無害であることも見抜けないなんて、という嘲りがそこに籠められていた。
せいぜい嗤っていればいいさ、と彼は内心で呟いた。そのうち必ず、嗤えない瞬間が訪れる。その馬鹿げた余裕全部が剥がされて、丸腰の心で危機に対面することになる。きっとその相手は僕じゃないだろうが、そんなことは全然問題じゃない。そのときまで、せいぜい嗤っていろ。
「このまま戦い続けたら」ひらり、と彼女の右手が谷間の方面に向けられた。「シンクレールくんたちは全滅する。もちろん、こっちの犠牲はとっても少ない。分かるよね?」
谷の入り口では、依然として喧騒が渦巻いている。魔物の唸り。鎧と剣の金属音。咆哮。兵士たちの勇ましい声が、今この瞬間にも数を減らしていることはシンクレールも把握していた。このまま無策な突進を続けていたら、半日と経たず人間の血と死体で前線基地が彩られることも。だからこそ撤退指示を送り続けているのだが、彼らは聞く耳を持たない様子だった。雄叫びが次々と谷の入り口に押し寄せては、散っていく。その奔流は止めどない。
想定以上の幸運があるとすれば、血族や魔物に取り囲まれても、まだ白銀猟兵が戦闘を続けていることだった。五体の生白い巨体は、黒々と蠢く敵のなかで、ひたすらに戦果を上げ続けている。
シンクレールが黙っていると、シャンティが続けた。
「そこで、私から提案。今すぐ戦闘を止めて私たちを素通りさせてくれれば、シンクレールくんたちは殺さない。どう? 悪くないでしょ?」
不敵に笑むシャンティを見下ろして、シンクレールはぎゅっと拳を握る。ほんの一瞬、悪くない、と思ってしまった。生き残る道がそこに開いているように見えてしまった。しかし、現実問題としてそれは不可能である。なにしろ兵士は、彼の指示通りに動いていない。シャンティの提案を呑んだところで、素通りさせるには意思を統一する必要があった。
ああ、なにを馬鹿なことを考えてるんだ、僕は――シンクレールは空を仰ぎ、額を拭った。今、本当なら朝陽を浴びて煌めく雲や、雄大な青を背景に飛ぶ鳥が見えることだろう。現実のシンクレールの目に映る空は、星のない夜の黒に覆い尽くされていた。
「提案を呑んでもいい。でも、そのままの条件じゃ駄目だ」
「ふぅん。じゃあ、どんな条件ならいいの?」
シャンティが余裕の態度を変えないことを、シンクレールは幸いに思った。これで激昂するような相手でも別段かまいはしないのだが、侮りを抱えたままでいてくれる手合いのほうがやりやすいものである。自分よりも格上であるのなら、なおさら。
ごめん。
シンクレールの心のなかに言葉が浮かぶ。
ごめん、クロエ。やっぱり僕はここで終わりだ。あれが最期のお別れになるんだ。残念ではあるけれど、僕は、後悔しない。一瞬でも生き残るほうに魅力を感じた自分が、心底恥ずかしいくらいなんだ。
「シャンティ。僕と決闘しろ。勝ったほうは、敗者の軍を好きにしていい。君が素通りしたいのなら、その通りにする」
――間違っても、戦おうだなんて思わないでください。
記憶に残るヨハンの声に、シンクレールは『黙れ』と返す。どんなやり方を選んだとしても、戦うことは避けられないんだ、と。
こちらが勝利すれば、この膨大な数の敵を一気にラガニアまで撤退させることだって出来るかもしれない。むろん、彼女が約束を守る保証などどこにもないのだが、それはシンクレールも同じだった。決闘に負けたとしても、兵士は耳を貸さないだろう。戦闘は継続される。
東の山から前線基地まで、血族たちはとんでもない速度で移動してきた。もし彼らを素通りさせてしまえば、王都は想定よりもずっと早く敵の襲撃を迎えねばならない。そうなれば、『煙宿』が全軍を王都の援護に向かわせたとしても、間に合わない可能性のほうが高いだろう。
なるべく長い時間、血族をここにとどめ、より多くの情報をほかの拠点に連携すること。シンクレールにとって、今回の戦いにはそのような意義しかなかった。
しばしの沈黙ののち、シャンティが「じゃ、やろうか」と立ち上がったとき、シンクレールは自分でも知らないうちに笑みを浮かべていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




