Side Sinclair.「死に急ぐ者たち」
※シンクレール視点の三人称です。
敵の襲来があった場合、充分な位置まで引き付けてから攻勢に転じること。それは、これまで徹底して打ち合わせてきた初動である。地の利を活かすためには、敵を隘路だらけの谷に誘い込んでから仕掛けるべきだったし、そのために前線基地はこの地に作られたのである。遵守されるまで随分と時間がかかった夜間灯火の禁止令も、この場所に兵士が潜伏している事実を隠すためであった。
最大限効果の高い方法を常に選び取って、ようやく敵を討つことが出来る。最終的に生存者が残らずとも、敵の戦力をより多く減らすためには機を待たなければならなかった。
――それが、どうだ。
シンクレールは歯噛みし、隣のエイミーに視線を向けた。詰問するつもりはなかったが、余裕のなさから、責めるような勢いで言葉が迸る。
「エイミー! 待機の指示は――」
「ちゃんと送りました!!」
遮るように返したエイミーは、ほとんど泣きそうになっていた。私たちはもうおしまいなのだと思っていることが傍目にも分かるような、追い詰められた表情。
このとき、谷に侵入しつつあった敵の勢力は一旦足を止めていた。例の、滑るような奇怪な移動を止め、迫りくる人間と白銀猟兵の対応とに注力していたのである。
結果的に敵の足は止まったことになるが、言うまでもなく悪手であった。谷に兵士が潜伏していると知れた以上、どのような奇襲も効果をなさない。山岳地帯に広がった敵の数は膨大で、複雑な地形を成す前線基地のありとあらゆる隘路や横穴を調べ尽くし、息のある人間たちを蹂躙するのに余りある勢力だった。敵がこの地を『単に複雑な起伏を持つ土地』と認識し、団子状に固まって進んでくれてはじめて有利になるものを――これでは台無しである。
――それでも。
「撤退指示を送ってくれ! すぐに!」
「はい!」
シンクレールの命令は、エイミーの交信魔術によって即座に各部隊長へと滞りなく運ばれた。それは事実である。
しかし、谷を駆ける人々の流れは止まらなかった。誰もが敵に向かって直進を続けている。
シンクレールは立ち上がり、起伏の隙間という隙間に目をやった。そのどこにも、人の頭が見える。皆が谷を押し合いながら、谷の入り口――すなわち敵に向かって我先に進軍していた。
そんな光景を目にしたシンクレールが、平衡感覚を失い、思わず倒れそうになったことは無理もない。誇張ではなく、あらゆる準備が無に帰したのだから。
兵士たちは、多少なりとも敵を討つことだろう。血族の軍はしばしの足止めを食うだろう。だがしかし、そこには当初思い描いていた微かな生存の道さえ見出せない。
死に急いでいる。
シンクレールには、そのようにしか感じ取れなかった。待つことの恐怖から逃れるべく、暴走している。それは愚者の勇猛さだった。
「エイミー」膝を突きたくなる脱力感のなかで、シンクレールは静かに、隣の女性に呼びかけた。「貴女はここで、戦況を最後まで観察してください。そして、状況全部を僕に連携してください。あわせて、他の拠点にも同じ内容を交信するように」
エイミーは上手く口を開くことが出来ず、二度ほどまばたきを返した。彼女の身体は冗談のように震えている。それに気付いたシンクレールは、却って自分は落ち着いていくような感覚になった。
「撤退指示は一定間隔で送り続けてください。聞く耳を持ってくれないかもしれないけど、それでも。僕はこれから――」
「に、ににに、にに、逃げましょ?」
シンクレールのローブを、エイミーの手が掴んだ。震える細い指には、布地を引き裂かんばかりの力が籠められている。
視点の定まらない瞳で自分を見上げる彼女に、シンクレールはほんの少しの共感を覚えた。誰がどう見ても、逃げ出したいような状況だから。
前線基地の人々はきっと、猛烈な速度で命を散らしていくだろう。生き残る可能性なんて万にひとつもありはしない。だったら逃げ出して、どこかの暗がりで目と耳を塞いで戦争の終結を待つほうが賢明なのかもしれない。自分の命を繋ぐという意味では、それが最善に違いない。
袖を掴む彼女の指を、一本一本、包み込むように引き剥がしていく。一本外れるごとに、エイミーの瞳は虚無感を増していった。
「貴女は逃げてもかまいません。今の状況を伝えてくれさえすれば、それで充分だとも思いますから」
そう言ってやると、彼女の瞳に、俄かに輝きが萌した。
「ほ、ほんとに?」
「はい。でも、一緒には行けません」
「逃げたって誰も文句は言いませんよ! だって、こんな状況ですよ!? 誰も言うことを聞いてくれない! みんな好き勝手に死ぬだけでしょ!? 捨て石になりたい人なんて放っておいて――」
最後の指を外して、シンクレールは微笑んだ。
普段以上に穏やかで自然な笑みが、そこにはあった。
「無駄な死なんてありませんよ。誰ひとり、捨て石なんかじゃありません」
有効な戦い方を選ばない突撃に、大きな意味などありはしない。が、それらがまったくの無駄であるというわけでもない。戦う者でありさえすれば、戦場において無駄であるはずがないのだ。
打ち倒した魔物の数。
与えた傷の数。
それらがゼロになることはない。
シンクレールは谷の入り口にあたる方面に目をやった。白銀猟兵が、魔物と血族に揉まれながら躍動している。人間の上げる咆哮も、依然として続いている。彼はエイミーをそれ以上見やることなく、苛烈さを増す戦場へと、疾駆の一歩目を踏み出した。
エイミーが伸ばした手は、シンクレールのローブを掴むことなく、空中に留まった。
山岳地帯は、東に行くにつれ起伏が激しくなっていく。自然、東からの進行ルートは谷へと至るなだらかな坂道に限定される。西から東へと進むにあたっても同様で、間隙の多い地上より、谷に降りたほうがスムーズに進行出来る。谷に降りたとしても幾度も迂路をたどらねばならないのだが、道の途切れる箇所は地上のほうが遥かに多い。兵士たちの多くが谷に降りて進行しているのも、そのあたりの事情からだった。
とはいえそれは、一般的な見地からの話である。シンクレールには当てはまらない。
「氷の大地!」
間隙を氷の魔術で埋め、彼は最短距離を疾駆する。自分自身の作り出した氷であっても滑りかねないのだが、今の彼にそんな油断などなかった。それに、もし滑落しそうになっても、身を支える氷を新たに作り出す程度のことは造作もない。
駆けるシンクレールの頭にあったのは、クロエの姿だった。感情を失ったと告げたときの彼女ではなく、かつて彼とともに過ごした、直情的なクロエの姿である。
――クロエ。僕は生き残れそうにない。
頭のなかで彼女に呼びかける。届くはずのない声で。
――僕はこれから死にに行くんだ。せいぜい、たくさんの敵を巻き添えにしてやる。
――怖いよ、もちろん。怖いに決まってる。僕は臆病者だから、実は、なにがなんでも生きたいとまで思ってる。
――でもね、それじゃ駄目なんだ。逃げて生き延びた僕には、もうかつての君の背中を追う資格なんてない。君を追わずにいる僕の人生のどこに意味があるって言うんだい?
――それならいっそ、無謀の渦中で命を燃やしてやるほうがいい。
シンクレールの鼓動は普段通りの間隔で打っていた。
頭で描いた覚悟が肉体にまで浸透してくれるように。そう信じて、彼は駆けた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『氷の大地』→大地を凍結させる魔術。詳しくは『269.「後悔よりも強く」』にて




