Side Sinclair.「朝の届かぬ地」
※シンクレール視点の三人称です。
魔物たちは夜明けとともに霧散する。稀に姿が残り続けるものもいるが、弱体化は免れない。今日まで蓄積された魔物関連の知見から、これらは原則とされている。血族たちが使役する魔物においても例外ではない。したがってグレキランス領に入り込んだ血族の行軍はもっぱら夜間に限定されるとの見解が、末端の兵士にまで共有されていた。もちろん、日中に血族のみでの侵攻が行われる可能性はあったが、重点的に警戒すべきは夜間であるのは間違いない。
だからこそ、深夜になって東の山の頂付近に発見した影が、その後数時間まったく動きがなかったことから、敵の進軍は翌日になるだろうと推測し、シンクレールは胸を撫で下ろした。襲撃に対する気構えを充分にしていても、安堵してしまうものである。目と鼻の先に敵が存在するのは落ち着かないものだが、こちらから仕掛けるのは論外だった。前線基地は地の利を活かした『待ちの姿勢』を貫いてこそ最大の効力を発揮する。
日が昇った段階で、各部隊長を前線基地内の穴倉に集めて再度作戦の擦り合わせをしよう。白みつつある空の下、シンクレールはそのようなことをぼんやり考えた。東の空が薄らいでいくにしたがって、山影は暗さを増していく。山中でなにやら蠢いている様子は見えるのだが、それらが風に煽られた木々の震えなのか、それとも血族の一団なのかは定かではなかった。
シンクレールの隣で、心底安心したようにエイミーが呟く。「もうじき朝ですね」
「そうですね。攻めてくるのが今日の晩か明日の晩かは分かりませんが、しっかり備えましょう」
気を引き締める意図でそのように返したのだが、シンクレールの声には隠し切れない安堵が表れていた。情けなさを自覚するよりも、仕方のないことなのだと自分を慰める想いのほうが強い。
視線を山へと固定したまま、何度も繰り返し思い描いた姿を、彼は改めて脳内でなぞった。総隊長として指揮を取る自分自身の姿である。
――血族が山岳地帯に突入した時点で、エイミーの交信魔術を経由して待機の指示を送る。白銀猟兵と奴らとの戦闘は傍観することになるが、それでいい。前線基地の兵が白銀猟兵だけだと思い込ませられれば充分。
――連中が白銀猟兵を突破して直進した場合、必ず谷あいを通過することになる。そこで待ち受けることも出来るけど、一旦はそのまま通過させる。
――敵の部隊が谷のなかほどまで来たところで、挟み撃ちにする。そう、重要なのは谷の中央部分だ。いくつもかかった天然の橋があるし、崖に空いた横穴もたくさんある。投石と弓矢で、どれだけ敵を弱体化させられるか……。
――敵の前後に配置した歩兵が、いつ破られるかがポイントになる。乱戦になったら、中型以上の魔物が侵入出来ない洞窟に逃げ込んで、ひたすら消耗戦を続けよう。
シンクレールは、自分が監視台から指示を送る様子をイメージする。何度も、何度も。
失敗は許されない。前線基地の命を預かる責任者として、また、王都を守るという大義のため。
シンクレールの直属の部隊は、谷や洞窟ではなく地上に潜伏している。もっぱら弓矢や投石による攻撃を実行する手はずになっていた。戦況が煮詰まれば剣を手に戦うことになるが、敵方の前後を塞ぐ部隊の者に比べると、危険に晒されるタイミングは遅くなる。そのことに対する不平不満の声が、このとき、シンクレールの頭に幻聴として駆け巡った。作戦内容を確認するなかで、兵士たちから漏れ聞こえる卑屈な声が耳の奥を刺激する。戦場のイメージに、彼らの歪んだ表情が重なる。
――アンタはいいよな。死ぬのが最後なんだから。
――あんな痩せっぽちの若造に顎で使われて死んでいくのかよ、俺たちは。
気がつくとシンクレールは、自分の耳を塞いでいた。手のひらを、側頭に強く強く押し付けている。血液の流れる音が、重く暗く、耳で鳴っていた。
不意に腕を掴まれて、彼はびくりと身体を震わせた。隣を見ると、エイミーが凝然と目を見開いて、東の山を見つめている。思わず彼は、塞いでいた耳を開放した。
「シンクレールさん、あれ……」
エイミーの囁きは、不安定に震えていた。
シンクレールはずっと山に視線を置いていたが、このときまで、その異変には気付かなかった。彼女に呼びかけられてようやく、意識がはっきりと現実の景色に注がれたのである。
「え……」
山の麓で、なにやら蠢いている。山稜は朝陽に照らされて金色の輪郭を帯び、そのぶん、山中はおぼろな黒に染まっているのだが、麓の黒さとは質が違っていた。じっと見なければ分からない違いなのだが、麓は墨をこぼしたような暗さなのである。なにかが蠢いているということは分かるのだが、麓の空間一帯が不自然な暗さを湛えていた。あたかもそこだけ夜が続いているかのように。
麓の様子を見つめているうちに、シンクレールの鼓動は加速していった。痛いほど心臓が打っている。
麓の影が、段々と山岳地帯に接近しているのである。判然としない闇の集合が、先ほどまで朝の光を受け入れていた領域をみるみる黒く塗り潰していく。遠目からはそれは緩慢な変化でしかなかったのだが、闇は馬車ほどの速度で進行していた。
やがてシンクレールは、山の稜線に朝陽が顔を覗かせるのを確認した。しかし光は、進行する闇になんら影響を与えない。黒は黒のまま、影の蠢きを伴って猛然と進んでくる。
「エイミー。各部隊に伝えてください」
シンクレールは、胃の底が急速に冷えていく感覚を覚えた。背がじっとりと汗ばんでいる。
「――敵襲。総員配置につけ。谷あいまで引き付ける。挟み撃ちまで、合図を待つように」
闇はすでに、前線基地の目と鼻の先にあった。
シンクレールが指示を送ってから間もなく、前線基地は闇に呑まれた。誰もがその瞬間、息を止め、何事かの襲来に耐えた。正体不明の黒い靄は山岳地帯全体を包み込んだが、兵士の多くが内心で危惧していたような不安――たとえば黒々としたものの正体が毒霧であるとか――は的中しなかった。ただただ、付近が闇に包まれたのである。さながら夜が延長されたかのようだった。
今、シンクレールとエイミーは監視台と名付けられた切り立つ岩に身を伏せ、闇に目を凝らしていた。明け行く空の下では明確に確認出来なかった影の蠢きが、今やその正体を露わにしている。数えきれないほどの魔物に囲まれ、血族の一団が進行しているのである。それも、ごく当たり前の行進ではない。彼らは一歩も足を動かしていなかった。一団の足元に広がった赤黒いなにかが、彼らを乗せて猛スピードで進んでいるのである。赤黒い物体は山岳地帯の起伏に合わせてかたちを変えながら、滑らかな直進を続けていた。
シンクレールは、知らず知らずのうちに頬の肉を強く噛んでいた。そして、必死で頭を回転させる。
あれに挟み撃ちは通用するだろうか?
まずどこかで足止めしないと話にならないが、谷あいで投石をしたところで果たして止まるだろうか?
進行方向を塞ごうにも、兵士はあれに轢かれるだけなのではないか?
そもそも、あんな異様な行進を見て、足が竦んでない奴なんていないんじゃないか?
なら早く、早く、早く――指示を送らないと。
「エイミー。連中が谷の中心に来たら投石と弓矢で足止めするよう、指示を送ってください。それと――」
敵の先頭がなだらかな坂を進み、谷へと降りていくのが見えた。敵を感知した白銀猟兵が、勢いよく躍動する。
その直後である。
角笛が響き渡り、鬨の声が弾けた。
果敢な声の噴出した先は、ちょうど敵の先陣が食い入った谷の入り口付近である。前線基地の先端と言っていい位置。挟み撃ちのために控えていた部隊がそこにいるはずで、鬨の声は、紛れもなく彼らのものだった。
「僕はまだ、なにも指示を送ってないぞ……」
呆然と呟くシンクレールの視界に、次々と敵へ向かっていく人々の姿が散見された。そのなかには投石部隊も含まれている。
「待て!! 行くな!」
監視台のそばを通り抜ける兵士へと、シンクレールは叫んでいた。彼らは誰ひとり振り返ることなく猛進していく。
総隊長の声など、耳に入っていない様子だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




