Side Sinclair.「前線基地の静かなる夜」
※シンクレール視点の三人称です。
星粒のまたたく夜空の下で、東の山々がべったりと黒い輪郭を東西に伸ばしていた。さながら息を潜めて蹲る怪物の背のようだと、シンクレールは思う。不吉な想像だと自覚しながら、頭に浮かんだイメージを追い払おうとはしなかった。今自分を取り巻いている現実のほうがよほどグロテスクで禍々しい。それと比べれば、夜闇に怪物の影を重ねる程度のことは、なんて微笑ましいのだろうとさえ思ってしまう。
高台から見下ろす前線基地には、ほとんどなんの明かりも灯っていなかった。話し声も滅多に聴こえない。耳を澄ましてようやく、そこここに潜んだ兵士たちの囁きや咳払いが微かに聴こえる程度だった。それらは岩を抜けていく風の声にほとんど塗り潰されている。
数日前――ちょうど王都から特別製の剣が支給された晩から、前線基地の夜は様変わりした。それまでは酩酊した笑い声や、ランプの明かりがあちこちで散見されたのだが、今や静寂と闇が広がっている。
「みんな、すっかり大人しくなりましたね」
シンクレールの隣で呟いたのは、砂色のローブを身にまとった女性――エイミーである。そばかすの目立つ赤毛で、少女のような面立ちだが実年齢は三十手前。彼女は、シンクレールが前線基地の総隊長を任命されて以来、ほとんど彼のそばから離れなかった。昼も夜も。例外は、クロエが来訪した晩だけである。その夜だけは、シンクレールが『放っておいてほしい』と彼女に命じたのだ。
エイミーは個人的な事情からシンクレールに付き従っているのではなく、与えられた役割を遵守しているに過ぎない――とシンクレールは思っている。エイミーは交信魔術に長けており、前線基地内の主要な兵士に言葉を届ける仕事を担っている。シンクレールが基地内の各部隊長に指示を送る際には、彼女を経由することで時間と場所の制約を取り払うことが出来た。また、彼女は他の拠点にいる交信術師との連絡役にもなっている。彼女を常にそばに置いておくことは戦略上必要であり、エイミー自身もそれを心得ているから自分のそばを離れないのだろう、というのがシンクレールの見立てだった。
「ようやく真剣になったんでしょうね。もうじき戦いが始まってしまうから」
そう返したものの、シンクレール自身はその答えに納得していなかった。前線基地にいる兵士は、お世辞にも全員が真面目とは言い難い。夜間の灯火は禁止しているにも関わらず、暗闇を恐れてランプを灯す者が後を絶たなかったし、酒瓶を片手に夜を過ごす者もいた。耐え難い不安からそうした行動に出てしまうことに、シンクレールも一定の理解を示してはいる。だからこそあまり厳しい注意はしてこなかったのだが、血族接近の報せがあり、引き締めねばならない段階に入ったわけだが……年若い彼の言葉に耳を貸さない兵士が多かった。夜間の明かりも、酔い心地の声も、依然として続いたのである。それが、数日前からぱったりと止まった。どうにも釈然としないながらも、望ましい状態ではあったため、シンクレールはさして追及せずにいた。彼らの変化は少なくとも凶兆ではないと判断したからである。
王都から支給された剣のすべてが、オブライエンによる洗脳魔術――血族を憎悪する洗脳――が籠められた魔具であることを、シンクレールは露とも知らない。前線基地において、剣の影響を受けていないのは魔術師のみである。元来、魔術師は魔具を取り扱うことは出来ない。つまり、シンクレールやエイミーをはじめとする数名の魔術師は憎悪の影響から免れていた。
「今日は動きませんね」
ぽつりと零れたエイミーの言葉がなにを指しているのか、シンクレールにはすぐに分かった。
「魔物がいないからですよ」
すでに時刻は魔物の出現時間帯に突入している。普段ならば、闇のなかに魔物の影が見えて然るべきだった。そして、魔物を駆逐すべく躍動する白い影も、あるはずなのである。
シンクレールは、前線基地周辺に屹立する計五体の白銀猟兵を順番に見つめた。月光が照らし出す生白い巨体は、どれも死んだように静止している。
あれが動き出すようになったのは、クロエが去った日だ。シンクレールは内心で呟き、白の兵隊が魔物を蹂躙する様子を思い出す。誰よりも早く魔物の存在を感知し、速やかに排除する彼らは、とても心強い存在だった。反面、恐ろしくもある。あれが自分たちの敵として立ちはだかったとき、果たして太刀打ち出来るのだろうか。
白銀猟兵がオブライエンの作り出した兵器であるという点も、シンクレールの不安を煽っていた。王都に潜んでいる絶対的な敵。あらゆる悲劇の元凶とも言っていい存在。それが持つ力の強大さを、まざまざと見せつけられているような気になる。
シンクレールがふと隣を見やると、エイミーが小刻みに震えていた。両手を組み合わせ、ぎゅっと目を瞑っている。
彼女の気持ちは、シンクレールにも痛いほど分かった。魔物が本来の時間に現れないという事態は、予告に近いものがある。
「エイミーさん」シンクレールが呼びかけると、彼女は恐る恐る目を開いた。「僕らは全力で戦います。だからなにがあろうと、すべてを王都まで伝達してください。起きていること全部です」
エイミーは自分で自分の肩を抱きながら、シンクレール見つめて返す。「シンクレールさんは、怖くないんですか?」
彼女の問いに対し、どう答えたものかと、シンクレールは逡巡した。怖くないわけではない。が、日を追うごとに恐怖心が薄らいでいるのも事実だった。クロエと別れてからは特に、その傾向が強まったことも自覚している。それでもなお、しぶとく心の内奥に根を張っている感情は、恐怖というより不安に近かった。それも、自分や前線基地に対する不安ではない。
言い淀んでいるうちに、エイミーが顔を寄せた。強張った表情が、シンクレールのほんの数センチ先にある。
「だって、私たちは――捨て石なんですよ」
彼女の口から溢れた言葉は、前線基地の全員が理解していながら、決して声には出さずに耐えている事実だった。
王都へと直進する血族を迎え撃ち、少しでも敵の戦力を減らすこと。それが前線基地に期待された役割のすべてである。自分たちの力ですべての血族を討ち果たせるなどという勇猛果敢な夢想は、誰ひとり信じていない。だからこそ、酒に溺れて笑ったり泣いたりする兵士の姿が、禁じられたランプの光に浮かぶのを、シンクレールはただ眺めていたのだ。
「自分の命を燃やしてでも誰かを守ろうとする人たちを、捨て石とは呼びませんよ」
シンクレールは自分でも驚くほど滑らかに微笑みを作った。彼の頭にあったのはたったひとりの女性の姿である。
心残りはいくらでもあった。叶うことなら、自分がクロエのそばにいて、彼女の心をどうにかして取り戻したい。そしてもう一度、ずっと抱えてきた想いを告げたい。それが無理なら、せめて、この命を礎と考えるほかない。シンクレールは本気でそのように思っていた。
エイミーの表情は依然として硬かったが、小さく頷いたようだった。
シンクレールは顔を上げ、東の山脈を見つめる。その瞳は、闇に呑まれた山中に、蠢く影たちを見出した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




