幕間.「兵士のための贈り物」
『毒色原野に血族らしき大軍を目視。山脈到達までおよそ二日前後と思われる。各員準備されたし。』
古びた紙片に刻まれた文字を目で追い、騎士団長のゼールは背筋を伸ばした。一連の文章の末尾には『ヨハン』と署名されている。
つくづく便利で、そして奇妙な紙だと、これまで何度も繰り返した感嘆がまたぞろ彼の胸に去来する。『共益紙』はもともと他種族たちが連携するために用いていたと聞いているが、開発者もまた他種族なのだろうか。だとすれば、彼らの魔術的進歩は軽視出来ない。讃えるべきものだ。
ゼールが『共益紙』を受け取ったのは、騎士であるシンクレールからだ。近衛兵の取りまとめ役のジェインにも、同じ物が手渡される場面を目にしている。
『共益紙』が全部で何枚存在し、誰が所有しているのかは定かではない。否、シンクレールから所有者の内訳を聞いてはいる。それをそのまま真実として捉えるほど愚直ではないというだけだ。
ゼールは団長室の執務机に置かれた水盆に視線を落とした。平たく浅い盆に張られた水が、窓から差し込む夕日を煌びやかに反射している。『共益紙』を盆に滑り入れると、文字がふわりと水に浮き出し、みるみるうちに溶けて消えた。
しばし水に泳がせてから、ゼールは『共益紙』を盆から取り出した。乾いた感触が指先に伝わる。『共益紙』は決して濡れない。水に沈めると、刻まれた文字だけが剥離して消える。
よく出来た魔道具だと、彼はいつも感心してしまう。決して大きくない紙面だが、再利用が可能であるために、無限回の情報をやり取り出来る。水に流れた文字を取り戻す方法がないという機密性も、彼は気に入っていた。
「いよいよか」
当初、血族の軍勢と王都の戦力とでは大幅な差があった。王都は一度東西南北の門を破壊され、何人もの人々を喪ったのである。一般的な民はもちろん、騎士や近衛兵といった戦力をも。前回の比ではない数の勢力が王都を襲撃するとなれば、絶望的という言葉がよく似合う。
しかし、今はどうだろうか。
グレキランス中の村や町を回り、戦力を搔き集めた。それによって手薄にならざるを得ない土地の人々は、王都への一時避難者として積極的に受け入れた。ほとんどの地では戦争への協力を我が事として受け入れてくれたが、すべてではない。特にマグオートは強硬に拒絶した。人間という種の危機であることを説明しても、彼らは決して首を縦に振らなかったのである。ゼールにとってマグオートでの交渉は苦い思い出のひとつだった。
ほかにも思いがけない加勢があった。つい数日前に王都を訪れた、およそ千の人々。戦争の報せを耳に入れ、ハルキゲニアから遥々足を運んでくれたらしい。感謝に堪えなかった。彼らの半数を王都の守護に、もう半分を『煙宿』に振り分けたことで、両拠点はより強固になった。海峡を渡ってまで加勢に来てくれた人々が、必ずやグレキランスを――人間を救いうるだろうとゼールは信じている。
そしてなにより大きな戦力は、各地に点在する『冬の卵』である。あれが血族と魔物を標的に戦う『白銀猟兵』という名の兵器であることは、やはり『共益紙』越しに共有された貴重な情報だった。オブライエン個人に対しては信頼を置けないものの、血族を退けるという目的が一致しているのは確かである。その意味では、『冬の卵』が人間に利する兵器であることは信ずるに足るものだった。
多くの戦力が、それぞれの思惑のもとにこの地に結集してくれた。その事実は無論ありがたく感じているが、勝てるかどうかという点において、ゼールは自信が持てなかった。頭のなかでさえ、口を濁してしまう問題である。客観的に見れば、まだ及ばないだろう。
人と血族とではそもそも肉体的な強度に差がある。それは、彼らが使役する魔物に対しても同様だった。魔物の牙は、爪は、人の命を簡単に奪ってしまう。魔物に対抗するために組織され、日常的に訓練を実施している騎士団でさえ、夜間防衛において死者が出る。あと二日でグレキランス地方に到達する血族たちが、果たしてどれほどの数の魔物を従えているかは未知だったが、前回王都を襲撃した大群は軽々と超えてくるだろう。あのときは絶望的な数の魔物に、防戦一方だった。襲撃の元凶となっていた王子が討たれなければ、あのままじりじりと追い詰められ、王都は亡骸の都と化していたことだろう。
運がよかった。王都襲撃という悲劇をそのように振り返ることに、ゼールは抵抗を覚えたことがない。何事も運のせいにして胸を撫でおろすことをよしとしない人格ではあったが、これに関してはそう結論付けるほかなかったのだ。あの場に血族の軍勢がいたなら、王都は陥落したに違いない。そう断言出来てしまう状況だった。
ナーバスになりかけた思考が、ノックの音に遮られる。ゼールは素早い動きで『共益紙』を机の引き出しに仕舞った。
「どうぞ」
そう呼びかけた直後、両開きの扉が押し開かれた。
「ごきげんよう、団長殿」
悠然とした足取りで室内に踏み入った女性は、つい先日ゼールが会ったばかりの人物だった。こちらを見下すような気配を備えた、凍てつく無表情。銀縁眼鏡の奥の瞳が、素早く室内を見渡した。
「制御局の方が何用でしょうか」
今しも執務机の前に歩みを進めた女性は、オブライエンの秘書をしているジュリアだった。『冬の卵』を前にして交わした会話を思い出し、ゼールは苦々しい気分を覚えたが、表情には出さなかった。
服装も髪型も前回会ったときと変わらないが、一点だけ違う部分がある。彼女が手にした剣を、ゼールは注視した。
「局長からの贈り物です」
そう言って彼女は、剣を机の上に置いた。装飾のない、一般的な剣である。
武器の数は、重要な問題ではあった。王都中の鍛冶師が昼も夜も製作に打ち込んでいる。今現在はそれぞれの兵士になんとか武器は行き渡っているものの、予備はほとんどない。ゼールは素直に、頭を下げた。
「ありがとうございます。武器は一本でも多いほうがいい」
「それと同じものをエントランスに置いておきましたので、ご自由にお使いください。数にして五千本。住民の皆様方からご厚意でいただいた鉄で作った、特別な武器です」
「特別な武器?」
「魔具ですよ。すべて同じ魔術を展開するよう設定されています」
まじまじと見ると、微かにではあるが刀身に魔力が宿っていることに気が付いた。
「それは助かります。……どのような魔術が籠められているのですか?」
感謝の念は、もちろんゼールにもあった。魔具であれば、通常の剣よりも心強いのは確かである。ただ、それを聞いて素直に喜べない自分もいた。喉の奥に、なにか詰まっているような圧迫を覚える。
「些細な魔術です」ジュリアはくすりともしない。部屋に足を踏み入れてからというもの、なんの表情も浮かべていなかった。「少しばかり、切れ味がよくなる細工をしてあります」
「具体的に教えていただけませんか?」
「切断力を上げる魔術を籠めております」
「……デメリットは、ないのですか?」
「ありません。なにしろ些細な魔術ですから」
ジュリアは淀みなく即答していたが、ゼールの疑念は消えなかった。どうしてこのタイミングで五千本もの魔具を渡してきたのか。間もなく開戦であるのに。まるで詳しく調べられたら困ると言っているようではないか。
彼は立ち上がり、剣に手を伸ばした。騎士団本部の訓練場では、今も兵士たちが汗を流していることだろう。試し斬り用の案山子はまだ残っているだろうか。
剣の柄に指先が触れた瞬間、違和感を覚えた。なにか重要なことを忘れているような、頭に靄がかかったような感覚に陥ったのである。しかしながら、肉体の動きは滑らかだった。迷いなく剣を握り、団長室を出て中庭へと進んでいく。一歩ごとに気が昂っていく自覚があった。
敗北はありえない。
ゼールは頭のなかで何度もそう繰り返した。血族に王都を明け渡してなるものか、と。あるのは勝利か、死か、それだけだ。敗北だけはありえない。
エントランスにはジュリアの言った通り、同型の剣が木箱にぎっしりと収められていた。これだけ密集すると、微弱な魔力が底光りして、玄妙な雰囲気を醸し出している。
「気に入りましたか?」
エントランスを出る間際、後ろからジュリアの声が追いかけてきた。彼女がずっと自分の後ろを歩いていることを知りながら、しかしちっとも気にかけていなかった自分に気付かされた。
足を止め、振り返る。剣を握ったまま。
「気に入るも、気に入らないも、ないです。ただ、必要な武器であるというだけのことです」
自分の疑念が、意図しないかたちで的中していたことを、ゼールはすでに知っていた。血族への憎悪と、勝たねばならぬという意志が、脳内で強烈に前景化している。それを冷静に見据えながらも、抵抗する気にはなれない。むしろ、これこそがあるべき姿だとさえ思ってしまう。
なるほど、確かに切れ味はよくなるだろう。迷いがないのだから。恐れを屈服するほどの意志が漲っているのだから。
「それはなによりです。ぜひ兵士全員にお与えください」
ジュリアが嘲るような笑みを口の端に浮かべているのを知ったが、そんなことはもう関心の埒外だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『騎士団長』→名はゼール。王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『ジェイン』→近衛兵副隊長。騎士の失墜以降、夜間防衛の指揮をとるようになった。尊大な性格。詳しくは『幕間.「王都グレキランス ~曇天の霹靂~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ジュリア』→魔具制御局のメンバー。オブライエンの部下。オブライエンの実験による最初の不死者。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築されている。詳しくは『第二章 第八話「騒乱の都」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ゼフォン』→グレキランスの王子。メフィストに王が射られたことで、王位を継いだ。旧態依然とした価値観を嫌い、真偽師や騎士を信用していない。魔王の血を飲み、『黒の血族』となった。王都を血族の住む地に変えようと画策していたが、クロエたちに討伐された
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『近衛兵』→グレキランスの王城および王を守護する兵隊
・『魔具制御局』→魔具を統括する機関。拠点は不明。オブライエンが局長を務めている。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『196.「魔具制御局」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』。ラガニアの辺境である地下都市ヘイズと、転送の魔道具によって接続されている。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




