979.「毒色に蠢く」
――クロエ。ずっと君のことが好きだったんだ。
――今の君にこんなことを言うのは卑怯かもしれないけど、でも、どうしても伝えずにはいられなかったんだ。だって、もう二度と会えないかもしれないから。
――うん、そうだろうね。さっきからずっと表情を変えないんだもの、分かってるさ。今の君は本当に、心が動かなくなってしまったんだね。
――もし僕と君が生き残って、そうして君の心がまた前みたいに動いてくれる日が来たら、そのときはもう一度、告白させてくれないかい? だって、これじゃ言いっぱなしになってしまうから。
――ありがとう。君と一緒に過ごした日々は、僕にとってかけがえのない宝物だ。騎士見習いのときから、こうして共に旅するようになってからも、ずっと。
「いやはや、まさか愛の告白とは」
冷え冷えとした谷間を歩きながら、ヨハンはそんな感想未満の感嘆を口にした。道の左右には切り立つ岩肌。周囲は夜さながらの暗さだが、頭上を仰ぐと遥か先に青空が覗いている。
昨晩シンクレールとなにを話したのか尋ねられ、隠す理由がなかったので全部説明したのだ。
彼がわたしの出自について知ったこと。
彼自身、今回の戦争で命を落とすと予期していること。
そして、わたしのことをずっと好きだったこと。
「それで、返事はしてあげたんですか? あるいは熱い抱擁でも?」
「なにもしてない」
シンクレールはわたしに対して、なにひとつ要求しなかった。告白の返事すら必要としていなかった。ただ自分の想いを伝えたかっただけらしい。
「彼も純情ですねぇ」と、言葉とは裏腹に平坦な口調で、ヨハンが言う。
もしシンクレールがわたしになにかを求めたなら、その通りにしただろう。なんであれ断る理由はないし、それで未練なく戦闘に集中出来るというのなら、むしろすすんでなにかしてやりたいくらいだった。しかしながら、結局のところなにも求められはしなかったのである。夜更けまで切れ切れな会話を続け、魔物の時間に入ってからはお互い無言で戦い続けた。途中で前線基地の人々が加勢に来たが、ほとんど不要だった。
――じゃあね、クロエ。ついでにヨハンも。
別れ際の彼を、ふと思い出した。記憶のなかのその顔は、目尻が腫れている。今になってようやくそのことに気が付いた。魔物と戦いながら、わたしに見られないよう、少し泣いたのかもしれない。だとしても、涙の理由はまったく分からなかった。
「姉さん、兄さん! 遅いっすよマジで!」
渓谷にぽっかりと空いた横穴。そこから這い出たスピネルは、わたしたちを見るや否やそう言った。随分と鼻息が荒い。
特に到着が遅れたわけではなかった。昨日別れたときに、丸一日くらいは戻れないと伝えておいたはずだ。そして約束通り戻ってきたのだから、文句はないはずである。
「すみませんねぇ、スピネルさん。不安だったでしょう」
「心細いってモンじゃないっすよ、マジで……。いや、まあ、オレも立派な雄だし、ひとりぼっちだったことは全然いいんすよ。ただ、状況が状況っすから……」
「置いていかれると思ったんですね?」
ヨハンの問いかけに、スピネルは消え入りそうな声で「……っす」とだけ発して頷いた。
「置いていったりなんかしませんよ。貴方には期待しているんですから。ねぇ、お嬢さん」
水を向けられたので、「ええ」と返す。実際、スピネルという存在が持つ意味は小さくない。それを何度か言い聞かせてきたつもりだったが、どうやら伝わっていなかったようである。
いざ戦争がはじまったとき、わたしの翼となること。スピネル自身も承知してくれた重要な役割だ。
「期待……っすか? マジすか?」
スピネルの瞳が分かりやすく輝き出した。谷底のほの暗さのなかで、彼の顔の周囲だけがパッと明るくなったように錯覚するくらいに。
「役に立ってくれるって、期待してるわ」
『想定』の語を『期待』に置き換えて口にしただけ。それなのにスピネルは満面の笑みで、両の拳を天高く突き出した。
「ご期待に沿えるよう頑張るっす!! 絶対に失望させたりしないっす!」
想定通りの役割を演じてくれれば、物事が円滑に運ぶ。そうでなければ、また別の方法を選び取ればいいだけ。そこには失望など介在しないのだけれど、どうやら彼はそのあたりのことを理解していないらしかった。
いくらでも誤解すればいいと思う。
「さて、それでは行きましょうか」
ヨハンが言うと、スピネルは上体を下げた。「爆速で進むんで、期待ヨロシクっす!」
苦笑したヨハンが、わたしに顔を向ける。すると、ゆるんだ苦笑いが瞬時に無表情に変わった。
彼の呆れに付き合えないことを、申し訳ないとは思わない。思えない。
翼の躍動と合わせて上昇していく視界を、ただただ眺め続けた。
北東に広がる山脈。グレキランスの反対側――血族の地に面した、切り立つ岩山。遥か下方に広がる荒野には、薄っすらと霧がかかっている。
「なんか嫌な感じっすね、あの荒野。雰囲気悪いっす」
「慧眼ですね、スピネルさん。あの場所は年中毒霧が発生してるのです」
「うぇ!? マジすか! じゃあオレたちも危ないんじゃ……」
スピネルが慌てて口を覆うのが、見ずとも分かった。ヨハンの軽い笑いが耳を微かに揺らす。
「平気です。ここまでは流れてきませんし、なにより今は例外的な期間なんですよ。毒霧が晴れる特別な時期があるんです」
「へぇ……兄さん博識っすね」
「底の浅い知識ですよ。実際、遠くでわだかまっているモヤモヤが毒霧なのかただの霧なのか分かりません。一定周期で毒霧が晴れるという知識があっても、荒野を突破する手立てにはなりませんからね。長期間の観測と、有意なデータがあってはじめて毒を凌駕出来るわけです」
目を細め、遠くの影を見据える。黒い靄のようにしか見えないそれらは、微かに蠢いていた。見通せるギリギリの遠さで、霧のフィルターの先、地平を動く闇がある。
「つまるところ――連中は本物の知識を有しているわけです。少なくとも、この『毒色原野』に関しては」
蠢く影のひとつひとつが、血族だと分かった。顔かたちまでは見えずとも、それらの動きには生体としての秩序と無秩序が同居している。あのなかにはベアトリスと竜人も含まれているのだろうか。
「あの調子なら、この山脈にたどり着くまで一日か二日はかかるでしょう。その後はルート次第でしょうが、真っ直ぐ進み続けるのなら、さらに二日か三日で前線基地に到達するでしょうなぁ」
他人事のように言うヨハンは、じっと地平を見つめながら手元でペンを動かしている。今視認している事実を『共益紙』に書きつけているのだ。
長くて五日。短くて三日。シンクレールたち前線基地の人員が敵とぶつかるまで、その程度の猶予しかない。
赤い目尻の青年が、微かに笑って手を振る。脳裏をそんな記憶がよぎった。つい半日前のことでも、過ぎてしまえばほかの記憶と同程度に遠く、同程度に淡泊で――。
「さて。連中の位置も把握出来たことですし、動きましょう。いつまでもここにいたら、目の良い奴に見つかりかねませんから」
返事はせず、踵を返した。
グレキランス。
ラガニア。
人間。
血族。
他種族。
魔物。
オブライエン。
最後に笑うのは誰だろう。
ふとそんなことを思っている自分に気が付いて、思考を閉ざした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ベアトリス』→ヘイズの長であり、バーンズの子孫。血族。誠実な男。祖先の恨みを晴らすべく、夜会卿への宣戦布告を目論んでいる。鎧をかたどった貴品『虚喰』により、無形の靄を自在に操ることが可能。ただし、力を使えば使うほど鎧の内部は空洞化する。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より




