978.「彼が本当に伝えたかったこと」
血族の村に生まれ、これまでずっと出自を知らないまま生き続けていたこと。
一週間ほど前に、はじめて自分自身のそうした由来を知ったこと。
以来、心が少しも動かなくなったこと。
必要最低限の言葉数で話し終えると、あとにはただ、風の音だけが残った。
シンクレールはわたしが声を発している間、相槌さえ挟まなかった。じっとこちらを見つめているばかり。こうして話し終えても、一向に口を開く気配を見せない。
空を遮るものはひとつもない。西の空には太陽の名残が滲んでいて、東側はもう夜の装いをしている。空の一隅を飛んでいた一羽の鳥が、少し目を離しただけで、夜に紛れて消えてしまった。
「君がどんな存在であっても、僕はかまわないよ」
不意に、シンクレールがそんなことを言った。
「そう」
わたしも、シンクレールがどんな存在だろうとかまわない。彼に限らず、誰がどんな在り方をしていようとも、わたしとは無関係だ。そんなことは当たり前で、かつてのわたしも少なからず自他の究極的な無関係性は理解していたように思う。理解しながらも、目の前の物事にその理屈を当て嵌めずに、猛然と感情的に生きてきただけのことである。分かってはいるけど納得したくなくて、無暗に抵抗していたのが過去の自分だ。
無駄なことばかりしていたな、と思う。嘆きは感じない。ただただそう思うだけ。
「今の君も、ちゃんと受け入れるよ」
受け入れるとは、換言すると、抵抗しないということだろうか。シンクレールの本意は知りようがないし、あえて確かめる動機もない。そもそも、自分の外側にあるすべての物事は納得の有無にかかわらず存在し続ける。そんなもの認めないと叫んだところで、非存在に変わってくれるわけではないのだ。であるなら、受容も抵抗も大した意味を持ち得ない。
分かっていたことだけれど、シンクレールは無駄なことばかり言う人だ。
「ねえ、クロエ。心が動かないってことがあまりイメージ出来ないんだけど……具体的にはどういうこと?」
「怒ったり哀しんだり出来なくなっただけ。行動に感情を必要としなくなったとも言える」
シンクレールは困ったような、曖昧な笑みを作った。
「君の敵……ニコルや魔王を憎んだりしてないの?」
「憎んでない」
「これから王都を滅ぼそうとする奴らのことも……憎くないのかい?」
「ない」
「それじゃ君は、もう戦う理由がないんだね」
なにを言ってるんだろう、シンクレールは。憎しみがなければ戦えないとでも言いたいのだろうか。
「感情がないことは、戦わない理由にはならない。それに、わたしはニコルと魔王を討つことを目的にしてる」
わたしがそう言うと、シンクレールはハッとした表情になった。
「ご、ごめん。君が血族だったってことは、てっきり、もう人間の味方をしないのかと思って……」
「自分が血族だということと、どっちの側で戦うのかは別問題よ」
「気を悪くしたなら、ごめん」
「別に、なんとも思わない」
気分を害すること自体がありえないのだから、シンクレールは謝る必要などない。でも彼は、依然として申し訳なさそうな顔をしている。謝意を示すことが彼にとって必要なのだろう。
それからまた、沈黙が流れた。
いつしかシンクレールは岩に腰かけ、わたしと夜空の両方を眺めていた。
「さっき言いかけたことなんだけど」きっかり五分後、彼はそう切り出した。「君に伝えようとしたのはね、僕になにがあろうと前線基地まで助けに来なくていい、ってことだったんだ。もしかすると、こっちの状況が悪くなったら君が助けに来るかもしれないって思ったから、それで……」
戦況は逐一、グレキランス中に伝達される。各地に配備された交信魔術の使い手によって。
前線基地の危機を知ったなら、以前のわたしはどうするだろうか。分からない。ゆえに、考える意味もない。少なくともシンクレールはわたしという人間を、危機に駆けつける性格だと思っていたらしい。
「でも君はそもそも、前線基地で戦うべきじゃないね。なにせ、アレがあるから」
そう言って、シンクレールは視線を水平に移動させた。彼がなにを見つめているのかは分かっている。
山岳地帯に点々と佇む滑らかな白色――白銀猟兵。
「白銀猟兵は血族に反応するんだろう? だったら君は、ここで戦うべきじゃない」
「なんで白銀猟兵について知ってるの?」
オブライエンがわたしの知らないところで彼に入れ知恵でもしたのだろうかと思ったけど、違った。
シンクレールは怪訝そうな顔をして、わたしを見上げる。
「ヨハンが教えてくれたんだよ。『共益紙』で」
そうなんだ、としか思わない。いつの間にやらヨハンがきっちり仕事をしていたというだけで、別段驚くに足ることではないのだ。そして今のわたしには、そもそも驚くという能力がない。
「アレは君のことも襲うんだろう?」
「ええ、おそらくは」
「……そっか。なら、当初の予定も変更しなきゃならないね。騎士団長に話を通さないと……」
騎士団長直属の部隊に入り、王都の防衛の要としてギリギリまでわたしを温存する。それが当初のプランである。が、シンクレールの言ったように、予定変更が必要な状況ではあった。なにせ王都には白銀猟兵が蔓延っている。わたしが自由に動ける地ではない。
そもそもわたしを温存したいという動機は、王都の壁を突破される可能性を下げるためだ。いよいよ敵の本隊が壁まで迫った際に、少しでも人間側の勝率を上げられるように、との意図である。わたしを他の拠点に置きたくない理由は、要するに、敵の主力へ正確にぶつけるためだ。
今のわたしには馬よりも速く、地形の影響を受けない移動手段がある。王都に腰を据えて、強敵の到来を待ち続ける理由はない。
「『共益紙』を避けてまで話したかった理由は、それだけ?」
人間側の人員配置の話であれば、『共益紙』上で交わしても問題ない。むしろそうすべきだ。
もしかして『共益紙』を持つメンバーのなかに裏切り者がいて、血族に情報が流れているのだろうか。
「それだけだよ。それだけを君に伝えたかった」
「本当に?」
「……」
シンクレールは少しばかり眉尻を下げ、手元に視線を落とす。どう見ても含みのある様子だった。
「誰かが裏切ってるの?」
「え?」パッと顔を上げたシンクレールは、心底驚いているようだった。「まさか。誰も裏切ってなんかいないよ。少なくとも僕の知る限りは」
「じゃあなにを言い淀んでるの」
もし重要な物事なのであれば、追及する必要がある。今後の戦術にもかかわってくる類のことならなおさらだ。敵が攻め入るまでの間にどうにかしなければならないイレギュラーな事件を抱えているのかもしれない。
血族たちは今、『毒色原野』の霧が晴れるのを待っていることだろう。ヨハンからの情報では、ルドベキアを出た時点でおよそ一ヶ月後――現在から換算すると、あと数日で霧が晴れる。前後数日の誤差はあれど、早めに見積もればすでに敵の進軍がはじまっている可能性もあった。人間側になんらかの問題が生じているのであれば、動けるうちになんとかしなければならない。
シンクレールは何度も口を開閉させ、充分に逡巡したのち、ようやく言葉にした。
「ここが僕の墓場になる。だから最後に、君の顔を見ておきたかったんだ」
「そう」
「クロエ。君のことが好きだ。友人としても――」
ひとりの男としても。
彼は真っ直ぐわたしを見上げて、そう言い切った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『騎士団長』→名はゼール。王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




