977.「前線基地」
かつて魔物の侵攻に対するフロントラインと呼ばれた町、キュラス。王都の遥か北東に位置する山々のなかでも、もっとも標高の高い山――その頂上に存在する町。王都側の麓には凹凸の激しい山岳地帯が広がっている。以前その地を通過したときにはなにも感じなかったが、風雨に削られた岩々が作り出す絶壁や洞窟は、さながら天然の要塞と呼んで差し支えない。切り立つ岩々は監視塔の役目も果たしてくれるだろう。
「いやはや、悪くないですな」
ヨハンは足元を気にしながら、普段よりも一層青褪めた顔で言う。呼吸も荒い。半日ほど歩き詰めだったので、疲れるのも無理はなかった。
北東の山の一角――山岳地帯からはちょうど見通せない谷あい――までスピネルで移動し、そこからはわたしとヨハンの二人で徒歩移動を続けたのだ。日暮れまでには到着したいと言って休憩を避けたのは、当のヨハンである。わたしは別に魔物を倒しながらでも進むだけなのだが、確かにヨハンにとっては夜歩きのほうがきついだろう。無理にでも歩き続けるほうがマシというものだ。
かくしてわたしたちは、山岳地帯のなかでもとりわけ地形の複雑な箇所までやってきた。遠目にはぽつぽつと岩石の塔が建っているように見えたものだが、こうして近づいてみると地面は間隙が多く、うっかり足を滑らせると数メートル下の谷まで真っ逆さまである。そこらじゅうがそんな具合で、ルートによっては谷に降りなければ進めないようなところもあるのだから、なかなかどうして踏破には時間のかかる土地だろうと思う。ヨハンが『悪くない』と言ったのも、そうした環境上の理由からだろう。
先ほどから、あちこちで人の往来がある。誰もがなにかしらの荷物を背負っていたり、簡素な荷車を引いていた。指示を飛ばしているであろう鋭い声もあれば、槌を打ち付ける音もする。当たり障りのない会話もあるにはあるようだが、そうした雑談の声は周囲の人々の数に比べると随分と少ない。動き回る人々の表情には、どこか神妙な様子が滲んでいた。
「あっ……クロエ?」
自分の名前が聞こえたので振り返ると、行き交う人々の間に、呆然と立ち尽くす影があった。ローブ姿で、眼鏡の青年。
「本当に来てくれたんだ……ありがとう。ヨハンも、ありがとう」
そう言って、シンクレールは心底嬉しそうに笑った。
前線基地への来訪に合意したことに、特別深い意味はない。血族の侵攻にはまだ日数的な余裕があったからだ。
『基地の様子を見ておくのも大切ですよ。身も蓋もないことを言ってしまえば、侵攻から何日で落とされるか逆算するのも可能でしょうからね』
こちらへの説得材料としてヨハンが弄した言葉だが、確かに情報は多いほうがいい。そしてより正確な情報を得るには、この目で見る以上の手段はないだろう。
でも、決してそれだけではないのだ。ここに来た理由は。
『わざわざ呼びつけるということは、然るべき背景があると考えるべきです。共益紙に記すのが憚られる重要なメッセージがあるのかもしれませんよ。なんにせよ、シンクレールさんの意思を確かめに行ってみましょう』
共益紙に書けない物事がある、という発想は抜けていた。もしそんな重要かつ秘密裏にしか共有出来ない伝達事項があるならば、足を運ぶ価値はあるだろう。
かくしてわたしは、シンクレールの待つ前線基地にやってきたのである。
「どうかな? 敵を待ち受けるには悪くない場所だと思うんだけど。いざとなったら隠れるにもうってつけだし、奇襲だってかけられる。もちろん相手にも同じことが言えるけど、こっちのほうが地形を把握してるんだから、有利に立ち回れるよ。罠だって作ってあるし」
シンクレールはわたしたちを先導しながら、ぺらぺらと話す。ところどころ声が上擦っていた。
「悪くないと思います。先ほどお嬢さんともそう話したんですよ。ねぇ、お嬢さん?」
ヨハンがわたしに目配せをする。
大丈夫。シンクレールに会うと決めた以上、わたしは抜かりなく発言するつもりだ。かつての自分を装って。
「そうね。悪くないんじゃないかしら。血族が押し寄せてきても、きっとここで撃退出来るわ」
「でも、不安もあるんだ」
シンクレールは急に小声になった。
「不安って?」
「前線基地の兵士はいくつかの部隊に分かれてるんだけど、僕が隊長なんだ」
なんて言えばいいのか分からないまま「出世したわね!」と褒めたら、シンクレールは苦笑した。
「今じゃ騎士団で一番序列が高いのは僕だからね。もう形骸化してるけど」
確か、彼は騎士団のナンバー4だったはずだ。頂点にいたザムザが死亡し、次点のシフォンは敵側にいて、ナンバー3のトリクシィに至っては前回王都が襲撃された際に行方不明となっている。もっとも、王都襲撃の夜に発生した行方不明者は多い。誰のものか分からない腕や足がいくつも見つかったと、話には聞いている。血だまりや肉片だけの者も少なくなかったらしい。身元の特定出来る亡骸が残っていた者はまだ幸い――そんな声が、王都のそこかしこで囁かれていたのである。いずれにせよ命を失っているんだから、大差ないと思うのだが。
あまり意識する必要はないと思っていたので考えなかったが、そういえばシンクレールは現状、騎士団のなかでもっとも高い序列なのである。今回の戦争において重要な役割を与えられるのは至極当然のことだろう。
「昔からチームで戦うのは慣れてるけど、一度もリーダーらしいことはしてないんだ。誰かに指示を出して戦わせるくらいなら、自分が先頭に立って戦うほうが気が楽なんだよ」シンクレールはがっくりと肩を落とした。それからハッとして、首を横に振る。「な、なんでもない。隊長の僕が不安だなんて言ってちゃ駄目だね」
昔からクロエといると正直になり過ぎてしまうんだ、ごめん。
――たぶん、そんな内容を口にしたのだろうけど、岩々の隙間を抜ける風の甲高い悲鳴に掻き消された。
大して意味のない話をぽつぽつしながら歩いていると、シンクレールは不意に立ち止まった。前線基地の中心地点からすっかり離れている。
「ヨハン……悪いけど、席を外してくれるかい?」
「ええ、かまいませんよ。発つのは明日の予定ですから、それまで基地を見学してきます」
起伏を気にしながらひょこひょこと去っていくヨハンの背を眺めていると、「クロエ」と名前で呼ばれた。
ローブのポケットに手を突っ込んだシンクレールが、じっとこちらを見つめている。
「君に言わなくちゃならないことがあるんだ」
でも、と彼は一瞬だけ目を伏せる。
「でも、その前に教えてくれないかな。クロエ。いったいなにがあったの? 隠してるみたいだけど、なんとなく分かるんだ。なんだか君は、その、雰囲気が変わった気がする」
「そんなことないわ。いつも通りよ」
そう言って笑顔を作ったのだけど、違う、と思い直して表情を消した。
シンクレールと相対するにあたって、わたしは過去の自分を模倣することに決めた。
ところで、過去のわたしは自分自身に対し、あまりにも大きな嘘を許しただろうか。それもシンクレール相手に。
わたしは彼に対して、おおむね率直に振舞ってきたように思う。だから今も――本当の意味での自分を再現するならば――率直であらねばならない。
「聞いて、シンクレール。――わたしの身体には血族の血が流れてるの」
彼は少しも表情を変えず、ただ黙って、ぎこちなく頷いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『紫電のザムザ』→騎士団ナンバー1の男。銀の髪を持つ魔術師。幼い頃の記憶がない。ときおり頭のなかに響く『声』に従って行動をする。実はオブライエンによって作られた、魔道具に限りなく近い人間。詳しくは『幕間.「王都グレキランス ~啓示~」』『Side Winston.「紫電の組成」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




