976.「愛の模倣」
必要な話を終えて魔女の邸を出る頃には、すっかり空が濃い茜色に染まっていた。今は亡き魔女の、実直な執事――ウィンストンは、わたしたちに泊まっていくよう何度か勧めた。断るたびに、微笑と苦笑の中間みたいな曖昧な笑みを滲ませて首を横に振った姿が印象に残っている。一連の仕草が意味する感情は今のわたしには見通せなかったけれど。
「上手くいってよかったですね」
白銀猟兵を遠巻きに眺めつつ、ヨハンが言う。
ウィンストンはわたしたちの申し出に対し、終始一貫して乗り気な態度だった。それも当然と言えば当然かもしれない。自分の主人である魔女を殺した男――オブライエンの打倒にかかわる機会を得たのだから。
今でこそ復讐心に共感を寄せることは出来ないけど、かつてのわたしもまた、同じような感情に立脚して自己を奮い立たせた時期もあった。裏切り者の勇者を倒すという大義も大きかったが、心を踏みにじった相手への復讐心だって同じくらい強かったんだと思う。目的へと邁進する意志は、たったひとつの理由に基づくわけではないのだ。大小様々な理由が集まって、結果的に前進のための一歩となる。
「お土産ももらいましたし、きっとスピネルさんも喜んでくれるでしょう」
ヨハンはわたしの視界に入るように、自分の手提げ鞄を振って見せた。相変わらず傷と染みに蹂躙された革鞄である。
彼の鞄は今やパンパンに膨らんでいた。先ほどもらったばかりの和音ブドウや干し肉が格納されているのだ。ぜひ持っていってください、と勧められるがまま、素早く土産の品々を鞄に詰め込むヨハンの姿は泥棒にとてもよく似ていた。
「しかし、ワインまでいただけるとは……豪気ですなぁ」
ヨハンはさも重そうに鞄を持ち直す。
そんな具合に重量を増した彼の所持品と比較すると、わたしの背負った布袋はほんの少しだけ軽くなっている。
スピネルの待つ洞窟を目指して歩いているうちに、ふと、イフェイオンの景色が頭で反復された。
伐採途中のブドウの樹木。
練り歩く武装兵士。
家々の庭先に空いた穴。
窪地のそばを通ったときに、ちらと目に入った光景である。絶えず鉄を打つ音が鳴っていたのも記憶に新しい。
今やイフェイオンは住民の大半が王都に避難し、代わりに兵士が滞在しているらしい。戦争に向けて、小拠点としてイフェイオンを整えている最中なのだと、ウィンストンは語った。ぼこぼこと空けられた穴は監視のためのもので、窪地の外の草原に続いているらしい。近日中に穴の入り口を跳ね扉で塞いでから草でコーティングし、それと分からないようにするんだとか。イフェイオンは窪地という環境ゆえ、血族たちの襲撃に対して防戦的とならざるを得ない。包囲されたらじわじわと消耗するほかないだろう。その裏をかく意味でも、監視穴は役に立つらしい。窪地を包囲した敵の背後へと通じる秘密の抜け道というわけだ。逆襲手段としては上々だと思う。
町の現在について話すウィンストンは無表情で、声もひどく抑揚を欠いていた。それなのに、話は止めどなかった。ヨハンが世間話として水を向けてから、堰を切ったように、イフェイオンについて語り続けたのである。
「魔女の愛した土地を、彼もまた大切に想っているのでしょうね」
黙々と歩いていると、不意にヨハンがそんなことを口にした。
魔女が愛したからウィンストンも大切にする、というのはなんとか分かる。そういう心の動きはかつてのわたしも経験したことがあるから。ニコルに関する幼少期の記憶には、そうした、愛情の模倣とでも言うべき迂遠な感情がいくつも存在した。
「そう思うと、残酷ですねぇ。イフェイオンに血族が攻め入れば、まぁ常識的に考えて魔女の邸は真っ先に占拠されるでしょうから」
あの豪壮な邸だけは窪地の外側にある。魔女が大工を呼びつけてせっせと建てたその場所は、どんな運命をたどるだろうか。敵の拠点になるだけならまだしも、破壊されるかもしれない。遊び半分に燃やされる可能性だってある。
今ウィンストンは、そうした悲劇を脳裏に浮かべながら荷造りをしていることだろう。彼はこれから王都に旅立つのだ。
「お嬢さん?」
「なに」
「あまりに返事がないもので、つい呼びかけてしまいました」
ヨハンはへらへらと笑う。
返事をする必要がないんだから、返事をしないのは当然だと思うのだけれど。
もちろん、ウィンストン相手にそんな態度はとらず、それなりにコミュニケーションをしたつもりだ。結果がどうだったかは知らない。ただ、わたしが茶目っ気を演出するたびに、苦笑か絶句のどちらかを受け取ったものだ。
今はヨハンと二人だけ。だから、素のわたしのままでいい。それは彼自身、納得してくれたことでもある。
「そういえば、いましたねぇ。勇者一行にも反応の薄い娘が」
「シフォン」
「そう、そんな名前でしたな」
騎士団ナンバー2。シフォン。彼女が無表情以外の顔をするのを一度も見たことがない。どんな敵を相手にしても顔色は変わらなかった。仲間が目の前で八つ裂きにされても目の色ひとつ変えない。同じチームで夜間戦闘に出た回数は多くないし、ほとんど会話したこともないけど。それでも彼女の印象は常に、沈黙と無表情の同居だった。わたしだけではなく、ほかの騎士たちも同様の認識しか持っていないだろう。
確かに、今のわたしとシフォンとは近しい部分があるだろう。必要と不要を感情を介さずに判断し、忠実に従う。昔のわたしはそんな彼女を冷酷だと内心で非難したこともあった。いかに強くとも、心が通っていなければ正しい行動は出来ない、と。
シフォンがもしわたしと同じであるならば、彼女の強さには納得する。心がなければ後悔は生まれない。哀しみで視界が曇ることはない。躊躇いによって愚かな結末を招き入れることはない。愛情に時間を食い潰されることはない。孤独から痛みを与えられることはない。肉体以外のあらゆる痛みから解放され、目的のために透徹した眼差しを持つ。なにがあろうと刃は乱れない。そうした手合いが強いのは至極当然のことだ。
「似てるようで、全然違いますからね」と、ヨハンは知ったふうなことを言う。
「どう違うの」
「お嬢さんは物事に対して思考を働かせますよね? 鈍くとも」
当然だ。心が動かないだけで、考える力まで失ってはいない。
「シフォンさんは考えないんですよ。答えだけを常に持っている」
答えだけ。
その意味するところが、いまひとつ不透明だった。
黙っていると、ヨハンが続けた。
「たとえばですね、目の前に刃物を持った相手がいるとしましょう。で、いきなり目を突き刺してくる。当然避けますよね? 考えるまでもなく。反射的に。シフォンさんの場合は、すべてがそれなんです。あらゆる物事が肉体の反射と同等なので、ご自身の意思を持っていないとも言えますね」
「意思がないのに、どうして行動出来るの」
なにひとつ意思を持っていないなら、食べて寝るだけの存在にしかならないように思う。戦うことすらないのではないのか。
つまりヨハンのシフォン像は誤りがあると思ったのだが――。
「より強い相手に服従するんですよ、彼女は。命じられたままに行動するんです。命令が原理的に不可能でない限りは。……シフォンさんの過去を全部知っているわけではありませんが、お嬢さんにも心当たりがあるんじゃないですか?」
そう言われて、思い出したのは騎士時代のひと幕である。ある晩、王都の外壁付近にハルピュイアが出現したときのことだ。
たまたまその日、わたしはシフォンと同じチームで行動していた。彼女は迫りくるハルピュイアを撃退していったが、どうやらそれは囮だったらしく、別の方角からハルピュイアの大群が壁内へと雪崩れ込んだのである。もちろん夜間防衛に出ていたのはわたしたちのチームだけではなく、大群の押し寄せたあたりはほかのチームが担当しているエリアだった。おそらくはこちらのチームと同じように囮作戦によって突破を許してしまったのだろう。すぐに壁内に入って、敵を撃破しなければならない状況だった。にもかかわらず、シフォンはなんの行動も起こさなかったのである。食ってかかったわたしに対し、彼女は短く、担当エリア外だと返したのだった。
あのとき、彼女は上からの命令に言葉通り従っていただけだったのだろう。自分よりも強い相手――思うに、騎士団長の言葉に。
「今はニコルに従ってるのね」
「ええ。以前服従していた相手よりも、ニコルさんのほうが強いと判定したのでしょう」
その判定すらも、思考を経由していないのだろう。ヨハンの言葉を信じるなら。
自分よりも強い者の命じるまま、意思なく戦う。一切の思考なく行動する。そう考えると、わたしとシフォンの間には歴然とした差があるように思えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『騎士団長』→名はゼール。王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『279.「物好きな主人」』参照
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『和音ブドウ』→イフェイオンの特産品。皮から果肉を出す際に独特の音が鳴ることから名付けられた。詳しくは『230.「和音ブドウと夜の守護」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ハルピュイア』→半人半鳥の魔物。狡猾。詳しくは『43.「無感情の面影」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




