974.「半月の笑い」
魔力の粒が、木々の隙間からときおり光を投げる。それは一直線にこちらを目指して進んでいるようだった。悠々とした速度で。
魔力の進行に注視していたのはわたしばかりではない。どうやらヨハンも気付いたようだった。
「誰か来ますね……隠れましょうか?」
「今さら隠れても意味がないわ」
相手が誰であれ、すでにわたしたちの存在に気付いている。だからこその迷いなき歩みに思えた。枝葉に阻まれて正体こそ見えないものの、漏れた魔力は着実な接近を物語っている。洞窟に逃げ込み、息を殺してやり過ごせるほど鈍い相手ではないだろう。
ゆえに、逃げ隠れはしない。ヨハンも判断に迷って聞いたのではなくて、わたしの考えを確かめる意味でたずねたような口調だった。
しかし、本当に正しい決断だったのだろうか。数百メートル先の林で魔力が消失し、わたしたちの背後へと転移したその人物の姿を目にして、判断の正誤が揺らいだ。
咄嗟に振り向いたわたしたちを見据える双眸。銀縁眼鏡越しに、その瞳が半月を描いた。口元は厳粛に引き結ばれているのに、目だけが別の生き物のように笑っている。
「誰かと思ったら『勇者の花嫁』さんですか。お久しぶりです」
紫の縦縞シャツに、ぴったりした黒のズボン。線の細さを強調するような装いをしたその女性は、魔具制御局長の秘書ジュリアだった。――少なくとも見た目は。
「そちらはお仲間ですか? ここでなにをなさっているのですか?」
突き放すような冷えた声色。瞳の笑みもすっかり消えていて、まったくの無表情である。なにを口にしても詰問のように聞こえてしまう喋り方は、王都の会合で耳にしたジュリアのそれと瓜ふたつだった。
でも、違う。
わたしたちの背後に転移した直後の、あの目元の笑い――関心に満ちた喜びのカーブは、本物のジュリアには作れない表情だろう。
「久しぶりね、オブライエン」
以前の自分の口調を再現するように、言い放つ。
すると彼女は、ほんのわずかに首を傾げた。
「ワタシはジュリアですが」
「小芝居で騙せる相手だと思わないで頂戴、オブライエン」
冷え冷えとした沈黙が流れた。彼女もわたしも、そしてヨハンも、身じろぎひとつしない。彼女の髪が夜風に梳かれて踊っていなければ、時間そのものが停止しているような静寂だった。
やがて彼女は斜に空を見上げ、「ハハ」と錆びた笑いを上げた。そして軽快に指を鳴らす。すると――。
「な、なんですかこれは!? なにが起きてるんです!?」
ヨハンが頓狂な声を出す。横目に見ると、表情も『驚愕』一色に染まっていた。
確かに、目の前で女性がどろどろと銀色の液体に変化し、それが溶け出すと同時に膨張し、上背のある紳士に早変わりする様は驚嘆に値する。もっともそれは、はじめて目にした場合の話だ。
つくづくヨハンは演技の上手い男だと思う。
「おや? おやおやおや? 貴方は確か、キュラスへの道中でご一緒した方ですね」
現れたオブライエンを見て、ヨハンはそう続ける。
そう言えば彼は、魔具制御局長としてのオブライエンは知らないんだっけか。直接会ったのはキュラスが最後だ。
どうやらヨハンは、オブライエンにまつわる一切を知らぬ存ぜぬで通すつもりらしい。ラルフの記憶のことはもちろん、魔具制御局長であることも含めて。
「ごきげんよう、クロエ嬢。そしてヨハン氏。吾輩の正体はクロエ嬢から伺っておりませんか?」
そう言って、オブライエンはクスクスと笑った。ヨハンとわたしを見比べつつ。
「いえ、貴方のことはなにも聞いていませんよ。キュラスで別れてからは、なにも」
「そうですか。まあ、どちらでもよろしい。自己紹介も面倒なので、本当に知らないのであればのちほどクロエ嬢から聞くといいです」
オブライエンはひらひらと、つまらなそうに手を払う。説明を疎んでいるというより、ヨハンそのものを鬱陶しく思っているように見えた。
「ときにクロエ嬢。イフェイオンを訪れましたか?」
いささか興醒めした調子でたずねるオブライエンに、素直に頷きを返す。もはや隠しても仕方のないことだろうし、彼がそれを聞くということは、ここにいるわたしたちとイフェイオンの白銀猟兵とを結びつけて、もはや結論に達しているに違いない。
わたしの反応を見てすぐに、オブライエンは肩を竦めた。
「どうりで。吾輩の可愛い兵隊が攻撃したのは貴女方だったわけですな。びっくりしたでしょう? お怪我はないようでなによりです。ヨハン氏はともかく、貴女になにかあっては大変ですからねぇ。なにせ、例の裏切りの勇者は貴女に随分とこだわっている様子ですから」
オブライエンがニコルのことを重視していたとは、初耳だ。でも考えてみれば不思議ではない。ニコルは魔王――つまり、ラガニア最後の王族と繋がっている。彼女の存在が『黒の血族』たちにとって大なり小なり心の拠り所となっている事実は、ベアトリスの様子からも窺えた。あらゆる血族の殲滅を標榜するオブライエンにとっては、最大の敵である魔王にもっとも近いニコルを重要人物と捉えるのは妥当だろう。彼と幼馴染であるわたしも、同じ意味で大切な存在となる。
思えば、キュラスでわたしのサーベルを修復したのも、ロジェールの気球を強化して航路を整えたのも、ニコルの打倒という点で利害が一致していたからか。こうして振り返ると、多くの物事が必然性のもとに動いていたことが分かってくる。
わたしが無反応を貫いているからか、ヨハンが口を開いた。「ところで、あの白い物体はなんです?」
ヨハンは白銀猟兵についても無知を装うつもりらしい。そうすべきだとは思うけど。
「あれは白銀猟兵と言いましてね、吾輩の発明品です。此度の戦争における最大戦力となるでしょう。認識圏内に入った敵を自動的に排除する優れものです」
「はぁ、そうですか」ヨハンはトーンを落として続ける。「しかし、問題がありますね。近付くだけで攻撃されるとなると、味方にも被害が出ます」
そんなヨハンに対し、オブライエンは冷笑を向けた。
「その点は問題ないことがすでに証明されたのですよ。吾輩も白銀猟兵が真昼に起動したことを知って、まさか誤作動かと思い駆けつけたのですが――正常でした。システムは設計通りに動いている。ヨハン氏、いえ、メフィストと呼んだほうがよろしいかな? 血族である貴方に反応して白銀猟兵が起動しただけのことです」
なんだ、知っていたのか。ヨハンが血族だってことを。
右手に意識を集中する。いつでもサーベルを抜けるように。
「ヨハンも殺すの? 毒食の魔女みたいに」
一挙手一投足を見逃さぬよう、オブライエンを凝視しながら言う。もし彼がこの場でヨハンを襲うのなら、然るべき対処をしなければならない。
「ハハ。今のところは考えておりませんよ。そのつもりなら、キュラスでお会いしたときに息の根を止めています。クロエ嬢のサポート役に徹している限りは手を出しません。物事には優先順位がありますから」
オブライエンの言葉には、少なくとも突発的な敵意は滲んでいなかった。今すぐ危害を加えないというのは本当らしい。わたしとしてもそれでかまわない。ただ、困り事がひとつあった。
「白銀猟兵を壊さない限り、わたしたちはイフェイオンに行けないわけね」
「イフェイオンに限った話ではありません。今やグレキランス各地に白銀猟兵を配備済みですので。特に町や村の周辺には満遍なく置いています。お買い物がしたければ、クロエ嬢おひとりで町に入ればよろしいかと」
「そういうわけにもいかないわ。彼とは一緒に行動することになってるから」
「しかし、彼ひとりを認識しないようにするのは不可能ですな。今さら機構を変えるとなると戦争に間に合いませんので」
「なら、イフェイオンの白銀猟兵は破壊する」
オブライエンは苦笑した。聞き分けのない小娘だと思っているのかもしれない。
なんと思われようと知ったことではないが、行動を阻害する存在は排除しなければならない。わたしは普通のことを口にしただけだ。
しばしの沈黙ののち、彼は「仕方ないですね」と呟いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力していた存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『ベアトリス』→ヘイズの長であり、バーンズの子孫。血族。誠実な男。祖先の恨みを晴らすべく、夜会卿への宣戦布告を目論んでいる。鎧をかたどった貴品『虚喰』により、無形の靄を自在に操ることが可能。ただし、力を使えば使うほど鎧の内部は空洞化する。詳しくは『第四章 第一話「祈りの系譜」』にて
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ジュリア』→魔具制御局のメンバー。オブライエンの部下。オブライエンの実験による最初の不死者。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築されている。詳しくは『第二章 第八話「騒乱の都」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より