972.「白の狩猟者」
白銀猟兵の放った拳を、後ろに跳躍して回避した。鼻の頭に鋭い痛みが走り、皮膚が浅く抉れたのを自覚する。
振り抜かれた拳が大地に直撃し、鳴動する。その瞬間、それまで穏やかに揺れていた付近の下草が、一斉にピンと直立するのが見えた。舞い上がった土塊のなかには、哀れに千切れた草も混じっている。それら茶と緑の飛沫の先で、白銀猟兵の眼球――否、赤く灯ったガラス玉が着地前のわたしを捉えていた。
足裏が地面にたどり着いたときには、左の拳を引いた白銀猟兵がすでに距離を詰めていた。
腹部を狙った突き上げを避ける。今度も紙一重の回避になることは分かっていたから、敵の攻撃が服を裂き、わき腹の皮が削がれたことは想定内だった。敵の右拳が瞬間的に引かれるのが見えたけど、問題ない。先ほど回避行動を取ったときにはすでに、反撃準備を整えていたから。
足を踏み込む動作に、突きの動きを繋げる。力は淀みなくサーベルに集中し、一気に突き出した刃の先端が白銀猟兵の腹部に直撃した。
――腕が、砕ける。
痛みの比喩ではなく、本当にわたしの右腕の骨に微細なヒビが入ったことだろう。グレガーのおかげで、痛みの強弱による肉体の損壊具合の判断精度は上がっている。
ふわり、と白の巨躯が宙に弾き出された。吹き飛んだと言うにはあまりにささやかな放物線。渾身の突きで得たのはせいぜい三メートルの距離といったところである。腕の痛みと比較するとあまりに過小な報酬だった。しかも、敵は怯んでさえいない。刺突の瞬間でさえ、白銀猟兵は攻撃を仕掛けていたのだ。弾き飛ばされたことによって空振りに終わったが、三度目の拳は確かに放たれたのである。そして今まさに空中で放物線を描く敵は、おそらく四度目の攻撃を準備している。筒状の腕がわたしに照準を定めていた。
爆裂音が、耳を暴力的に刺激する。筒の内側に紫の光が灯った直後、そこからなにかが放たれて、わたしから一メートルも離れていない地面に直撃して爆発したのである。
「クロエ! 手を挙げろ!」
爆音のせいだろう、ヨハンの声はとても小さく聴こえた。でも実際は大声で叫んだに違いない。その口調には一切の余裕がなかった。珍しく敬語も使ってない。
挙げた左腕にまとまった衝撃が伝わり、それからわたしの身体はぐんと真横に引っ張られた。足が地面を離れ、ぐんぐん高度が上がっていく。
見上げると、スピネルに抱き締められたヨハンが、貧相な両手でなんとかわたしの腕を掴んでいた。
彼の目はこちらを見ていない。地上の一点へと向けられている。
「スピネルさん! 死ぬ気で飛んでください! 航路は任せます! ジグザグに飛びながら空の高みへ!」
スピネルの返事はない。彼も相当混乱しているのだろう。わけの分からない存在が突如として攻撃を仕掛けてきて、しかも飛び道具まで持っているというのだから。
地面に視線を落とす。白色の巨体とは横に二十メートル程度しか離れていない。そして思ったよりも高度は低かった。少しずつ上昇してはいるものの、せいぜい五、六メートルの高さ。
砲口がこちらに向いている。サーベルを掴んだ右腕に力を籠めると、細かな痛みが肌の内側を駆けた。
紫の光が灯る。そして――。
「うわぁあ!!」
ぐらりと全身が揺れた。敵の腕から放たれた爆発物が、鼻先を高速で過ぎていく。
「ひいぃ!!」
二撃目も、スピネルは上手く方向転換して回避した。彼の悲鳴は怯え一色に染まっている。
蛇行しながら、ほとんど直線的に進んでいる。方角は湿原のほうだろう。王都側に直進していないことは幸いだった。
砲撃は止まない。精度もほとんど落ちておらず、命中こそしていないものの、すべてわたしたちの三メートル圏内である。スピネルが上手く蛇行していなければ今頃直撃していたことだろう。
「スピネル。前進より上昇を優先して」
さっきからずっと地面を見つめていたけど、敵は猛スピードでわたしたちを追ってきている。たぶん、スピネルの飛行速度と変わらない。ガシャガシャとぎこちない走りかたなのに速度は異常で、しかも射撃精度も抜群。遅かれ早かれ敵の攻撃はわたしたちに命中するだろう。
内臓が下へ引っ張られる感覚が強くなった。どうやらスピネルはわたしの命令をちゃんと聴いていたらしい。
みるみる地面が遠くなっていく――。
「回避してください!」
ヨハンが叫ぶ。スピネルが右に身体を振った直後、しゅん、と風を切って高速で砲弾が過ぎていった。ヨハンも砲撃の予備動作を把握したらしい。しかし、そうやって声で命じるのにも限界があるだろう。いつか弾丸はわたしたちを捉える。
息を吸う音が、上から降ってきた。指示を送ろうとしているに違いないけど、遅い。
紫の光が、放たれた弾丸に重なる。その物体はまばたきする間もなくこちらに接近して――。
「お嬢さ――」
ヨハンの声は爆発音に塗り潰された。膝を畳み、叩きつける要領で振るったサーベルの先端が、敵の弾丸に直撃したのである。
爆裂の衝撃は瞬時にわたしの全身を駆けた。否応なく真上に吹き飛ばされた身体がヨハンに激突し、スピネルにも衝撃を与えていく。
一メートルか二メートル――爆発の衝撃でそれだけ余分に上昇したはずだ。
頭は常に冷静で、必要な行動を判断している。衝撃も痛みも思考の妨げにはならない。今のわたしにはそれが当たり前の状態だけれど、ヨハンも一瞬の機会を逃さないだけの冷静さを持っていたようだ。彼はわたしの腹部に腕を回し、がっしりと掴んだ。
「上昇して。翼の動きを止めないで」
言葉の直後、スピネルは猛烈に翼を動かしたようだった。おかげで地面との距離がぐんぐん広がっていく。もう五十メートル以上離れていた。
その後も砲撃は断続的に放たれたが、サーベルを使ったリスキーな対処はあの一度きりだった。紫の光を認識するのがほとんど不可能になっても、射出時の爆音を頼りに回避指示を送ったのである。
ようやく攻撃が止んだのは、ほとんど雲と同じ高さまで離れてからだった。今や白銀猟兵は、豆粒ほどの小ささである。草原に混じったひと粒の白は、じっとその場に屹立しているようだった。
「お嬢さん」
「なに?」
「そろそろ腕が限界です」
はじめはプルプルと小刻みに震えていたヨハンの腕が、今や狂気的な痙攣に発展していることには気付いていた。
スピネルの腕によじ登り、抱えてもらう。
ヨハンが深く息を吐き、ぶらぶらと腕を振るのが見えた。
「お手柄です、スピネルさん」
「マジで、死ぬかと、思った、っす……」
スピネルは過呼吸気味に答える。相当神経を張っていたらしい。攻撃がやんでも上昇し続けていることからも、怯えの深さは容易に察することが出来た。
「もう上昇しなくていいわ。少し観察しましょう」
「マジすか、姉さん」
「本気よ」
あの生白い物体は自ら作戦を立てて行動したり、ブラフを使うような手合いではないはずだ。しかも攻撃対象を認識可能な範囲は決まっているらしい。範囲内に標的がいなければ動作を停止する。――そう解釈するのが今のところ妥当だった。
「あれはなんですか、いったい」
ヨハンはぜえぜえと喘ぐように言う。
「知ってるんじゃないの?」
彼はわたしの目と耳、その他こちらの知らないあらゆる感覚を特殊な方法でジャックしているはずで、わたしが知りうる範囲のことはすべて彼も把握済みだと思っていた。だからこのときのヨハンの疑問も、とぼけているようにしか聞こえなかったのである。
「知りませんよ」
「アリスが言っていた兵器よ。あなたはわたしの知ってる情報を全部把握してるんじゃないの?」
「ストーカーじゃないんですから……。まあ一部は把握してますが、さすがに四六時中お嬢さんを監視し続けているわけじゃないですよ」
まったく信を置けない言葉だが、疑いを差し挟むことにも意味はない。あいつの正体を知らないなら教えてやればいいだけだ。
「オブライエンの作った兵器。白銀猟兵。アリスから聞いた情報と一致するわ」
深く長いため息ののち、ヨハンは「どうりで」と嫌悪感たっぷりに呟いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。王都の歓楽街取締役のルカーニアに永続的な雇用関係を結んだ。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




