971.「窪地の卵」
またしてもわたしたちは空を駆けていた。薄い雲の隙間から見える岩山が、荒れ放題の平原になり、いくつかの道が現れる。『岩蜘蛛の巣』から王都までの道は、いくつかの村や町へと分岐しながら伸びていた。馬車や人の往来によって自然に出来上がった細い道もあれば、人の手によって整えられた街道もある。空から眺めるそれらの筋は、濃淡の違い程度しか差がなかった。
今、わたしたちはスピネルに抱えられて曲線的なルートをたどっている。『鏡の森』から目的地までを直線で進むとなると、王都に接近している時間が長くなる。その分だけオブライエンに発見されるリスクもあるということだ。
「空の旅は実に心地良いです。ですよね、お嬢さん」
「ええ、本当に」
スピネルが頭上で照れ臭そうに笑う。
こうしてスピネルを肯定してやるのは、もはやルーティーンでしかなかった。それでも最初に褒められたときと同じくらいの笑顔を見せるスピネルの精神構造が分からない。分からなくて全然かまわない類のものだけど。
「お嬢さん」
ヨハンのほうを見ると、彼は紙片を軽く振ってみせた。風に嬲られてバタバタと忙しなく揺れる、薄茶色の紙。『共益紙』である。
「兵士の訓練も配備も、順調に進んでいるようです。アリスさんをはじめ、歓楽街の人々は『煙宿』を拠点にするらしいですね。シンクレールさんは北東の山の麓に配備される、と」
現時点で王都防衛の要衝と位置付けられているのは、ヨハンの言った二点だった。血族たちがグレキランスに攻め入るとなれば、単純に考えて『毒色原野』を越え、北東の山から真っ直ぐ王都へと進むことだろう。そのため、山の麓に前線基地を整えている話はすでに知っていた。血族の世界ともっとも近い土地――フロントラインと呼ばれて久しい山頂の町キュラスを拠点にする案もあったようだが、絶壁に隔離されていることから不適格と判断された。血族たちに簡単に包囲されてしまうだろうし、なにより、連中がキュラスにかかる橋の破壊だけをして、あとは真っ直ぐ王都に進行されるリスクもある。そうなればキュラスに割いた人員は完全に分断されるわけだ。山中に拠点を作るというのも現実的ではない。場所の見極めから拠点の作成、物資や食糧の持ち込みに要する時間を鑑みると絶望的との見解だ。ゆえに、麓が選ばれたらしい。
もうひとつの要衝である『煙宿』は、北東の山中から迂回して王都を目指す勢力に対応するための拠点である。北東の山から王都の西側まで回り込むにあたって、常時靄に隠された湿原は絶好のルートだ。血族たちの頭にどれほどグレキランス地方の知識が詰まっているのかは未知数だが、ニコルが背後にいる以上、そうした有効な道のりは把握していると考えてよい。つまり、迂回する血族を効果的に叩くための拠点が『煙宿』となる。
基本的にその二箇所に多くの人員が割かれるようだが、王都にも同じだけの戦力を残しておくとのプランらしい。転移魔術を恐れての判断だ。血族のなかにどの程度その魔術を扱える人材がいるか分からない以上、肝心の王都を無防備にしてしまうわけにはいかない。そして同じ理由で、それぞれの村や町にも百から二百ほどの兵士を配置する予定で動いているそうだ。
「シンクレールさんには生き残っていただきたいものですね」
そう呟くヨハンの心情は、わたしに類推出来るものではなかった。知人だから死なないでほしいというだけのことだろうか。
でも、それは無理な願いだ。
麓の拠点は全滅するだろう。問題は時間だけだ。長く耐えるか、一夜のうちに崩壊するか。血族がどれだけ戦力を分散して侵攻するかによって結果は異なるだろうが、全勢力で直線的に王都を目指した場合、麓には命の欠片も残らないはずだ。蹂躙の約束された戦場において、どれだけ敵の息の根を止められるか。それが彼らの役割だ。生き残るという役割は、ない。
「三日後に麓へ着くそうです」
「誰が?」
「シンクレールさんですよ」
ヨハンの乾いた笑いが、風に揉まれて消え去る。
黙っているとヨハンが咳払いをした。
「どうぞ」
そう言って、彼は腕を突き出す。畳まれた『共益紙』を受け取り、目を落とした。最後のメッセージはシンクレールのもので、現在の状況を知らせる文面が端的に記されている。が、末尾には個人的な文章が刻まれていた。
『三日後、麓の拠点に到着予定。
以降は私信になるので共益紙を持つ他のメンバーはどうか読み飛ばしてほしい。
クロエへ。もし叶うなら、君に会っておきたい。麓で待ってる。』
「紙数が許されるなら、きっと情感たっぷりな言葉をつらつらと書き綴ったことでしょうな、彼は」
ヨハンの呟きに、普段のへらついた笑いはなかった。
『共益紙』を畳んでヨハンに返す。彼の顔には、どこか落胆の印象が窺えた。
「これから用事を済ませたあとは、特にタスクはありません。血族の侵攻を待つだけです。数日くらいシンクレールさんに割いたところで影響はありませんよ」
「でも、会う理由がない」
「相手が会いたいと言ってるんだから、応じればいいんですよ。喫緊の問題があれば別ですが」
眼鏡の青年魔術師の顔を思い浮かべる。彼がわたしに特別な感情を抱いていることは知っていた。そしてわたし自身、彼という存在によって助けられた場面がいくつもある。トリクシィとの戦闘で彼の助力がなければ、わたしの歩みはそこで止まっていた。『魔女っ娘ルゥ』の世界から脱出できたのも彼のおかげだ。でも、恩情がなにかの行動理由になるのだろうか。少なくとも今のわたしには到底理解出来ない。
現状、彼に会う理由がない。それがすべてではないだろうか。
「そろそろ目的地ですね。スピネルさん、高度を落としてください」
「了解っす。しっかり掴まってるんすよ。落ちたらマジで洒落にならないっすから」
ぐん、と内臓が上へ上へと引っ張られる感覚になった。雲を突き抜け、地上へと降下している。やがて雲を抜けたとき、眼下に巨大なクレーターが見えた。
イフェイオン。その地に用事がある。『最果て』の人々の先回りをするわけではなく、別の理由が。
「おや……? あれはなんでしょうか」
地上へと目を凝らすヨハンの視線を追った。
クレーターからやや離れた地点に――現実の縮尺で換算するとおよそ二百メートル程度先に――なにかがある。銀色の物体だ。しかも、魔力を放っている。
「魔道具かもしれない」
それ以外に考えられない。
イフェイオン付近の草原に降り立ったわたしたちの五百メートルほど先に、銀色の物体が屹立している。滑らかに陽を跳ね返すその物体は、さながら巨大な卵だった。
「近付いてみますか?」
ヨハンも判断がつかないようで、そんなことを口走った。
「無視しましょう。あれに用事があるわけじゃないから」
銀の卵を無視して魔女の邸へと足を向けた瞬間――。
「うわ、なんなんすかアレ! 動いてる!?」
スピネルが悲鳴じみた声を上げる。
銀の卵は動いていない。溶けているのだ。外殻部分がトロトロ溶け出して、なかからずんぐりした人形が現れる。それは予備動作なく跳躍し、わたしたちの目の前に地響きとともに着地した。
「下がって」
二人に向けて言う。聴こえているかどうかは知らない。
人形が現れた瞬間に、その正体はなんとなく推察出来た。だから、奴が跳ぶよりも早くサーベルを抜き去っていた。
背丈は二メートルほどで、全身白色。目の位置にガラス玉が埋まっており、肉体には継ぎ目ひとつない。足は末広がりに太くなっていて、両腕の先は筒状になっている。
目の前の物体は、以前アリスから聞いた兵器とそっくりだった。
白銀猟兵。そんな名前だったと記憶している。
白銀猟兵らしき物体がわたしへと腕を振り下ろす。その動作には明らかな敵意があった。なぜ襲われるのか――という疑問は特にない。なにせ、白銀猟兵はオブライエンの作り出したものなのだから。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。王都の歓楽街取締役のルカーニアに永続的な雇用関係を結んだ。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。王都を裏切ったクロエとシンクレールを討ち取ったことになっている。大量の魔物による王都襲撃以降、生死不明。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『白銀猟兵』→人を模した、ずんぐりとした物体。オブライエンの量産している兵器。指令を送ればその通りに行動をすることが出来る。動きは機敏で、硬度は高い。詳細は『幕間.「白銀空間~潜入~」』『幕間.「白銀空間~白銀猟兵と一問一答~」』『幕間.「白銀空間~魔具制御局~」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。実は最果てと王都近辺を繋いでいる。中には小人の住処も存在する。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『煙宿』→王都の北に広がる湿原の一角に存在する宿場町。ならず者の理想郷とされ、出自を問わず暮らすことが出来る。要人や富裕層の住む『不夜城』と、一般的なならず者の住む『ほろ酔い桟橋』に区分されている
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。一度魔物に滅ぼされている
・『魔女っ娘ルゥ』→ローレンスとルイーザの魔術によって作り出された仮想世界。崩壊したはずのペルシカムをベースとしており、そこで生きる人々は崩壊の日を繰り返している。詳しくは『第二章 第六話「魔女の館~①流星の夜に~」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




