970.「森のかくれんぼ」
「オネーサン」
すっかりがらんとした『聖樹宮』でぼんやり宙を眺めていると、一体のバンシーに話しかけられた。ぱっちり開いた目は黒目が大きく、長く見つめていると吸い込まれそうな感覚になる。
「なに」
「オネーサン、心が冷えてるの?」
どうやら彼女は、ヨハンの説明を耳にしていたらしい。そういえば『最果て』の人々が目を覚ましてからは、あまり彼女たちの姿を見なかった。おおかた木々に隠れてこちらの様子を窺っていたのだろう。彼女たちが姿を見せなかったのは、もしかするとグレガーの指示かもしれない。
「冷えてるの?」と彼女は繰り返した。
「心臓は冷えてない」
心臓は鼓動していて、生物的な温度を持っている。自分の出自を知って以来、開き直ったように肌は冷たいのだけれど、体内は相応の温かさを備えているはずだった。グレガーが最後に見せた極寒の幻影で、わたしは確かに凍えていたのである。身体の芯まで冷え切っていれば震えることもないはずなのだ。本来は。
バンシーはわたしの答えに満足していない様子で、「うーん」と唸った。そして視線を左上へと向け、考え込んでいる様子である。
彼女の姿を眺めているうちに、そうか、と悟った。物理的な意味ではないのか。考えてみれば当たり前だ。『心』は心臓を意味しない。なぜ自分が抽象的な意味ではなく具体物として心を解釈したのか、その理由は分からなかった。だが、感情の無暗な躍動がなくなっても誤認が起こりうるのは、ひとつの発見ではある。
「冷たいか温かいかは分からないけど、感情がなくなったの」
そう答えた直後、バンシーの目が潤んだ。
同情だろう。それくらいはまだ、経験で分かる。
「じゃあ、お友達と遊んでて楽しいとか、もうないの?」
「ない」
「嬉しいも、ないの?」
「ない」
痛みと目的意識だけはある。そのふたつは今のわたしにとってなによりも重要だった。
痛みは信号だ。受け取った信号を正しく解釈することで戦える。致命傷を負わない限りは自然治癒する肉体であっても、だ。そして目的がなければ、今のわたしは戦おうとすらしないだろう。
目的意識。それすら、大事な部分を除いて欠落している。わたしが志向しているのはニコルと魔王の討伐で、王都やそこに住む人々、ひいては人間全体を守るという想いはどこにも見当たらない。今度の戦争だって、討伐対象の二人が関連しているから戦おうと思っている。もしこれが二人と無関係の事件であるならば、放っておく。それで王都が夜会卿の別荘に成り果てようとも、わたしはなにも思わないだろう。これが薄情な意思であることだけは、経験と照らし合わせてようやく理解出来た。
「それってなんだか、寂しいね」
「寂しいとも感じない」
今のわたしは感情を失ってから日が浅い。だから、過去の記憶や経験を頼りにそれらしく物事を解釈したり類推することが可能なのだろう。今の状態が続けば続くほど、細かな記憶は摩耗し、思い出すことも出来なくなるはずだ。あらゆる過去は脳に保存されているものの、劣化や剥落を免れない。意識的に過去を振り返ることすらしなくなれば、他人の表情や仕草や口調から、裏面に潜む感情を読み取ることが困難になるかもしれない。誤認は今以上に増えるだろう。ヨハンと約束した『円滑なコミュニケーション』も、今ですら危ういのに今後もっと不安定になっていくに違いない。
それら全部が、どうでもいい。解決手段がない物事を危惧する必要性はないからだ。
「オネーサン。一緒にかくれんぼしない?」
「どうして?」
「一緒に遊びたいから」
目の前のバンシーは手を後ろに組んで、にっこり笑っている。気配を感じて周囲を見渡すと、そこかしこからバンシーが近寄ってくるところだった。
彼女らはふわふわとわたしのそばを飛び回り、「遊ぼ」と言う。そのうちに、どれが最初に対話していたバンシーなのか分からなくなった。よく見れば彼女らの顔の造形は一体一体異なる。それなのに、ふと視線を外すと、先ほどまで見ていたバンシーがどれなのかが分からなかった。
「分かった。かくれんぼしましょう」
そう答えつつ、先ほど会話した『最果て』の人々の顔を思い出そうと努めた。ミイナやハルといった、比較的交流の濃かった相手は覚えている。けれど、ほとんど初対面だった相手の顔や声は、もう記憶に残っていなかった。
かくれんぼは一回目と二回目にわたしが鬼をやったが、すぐに全部のバンシーを見つけた。魔物の気配を感じる力があるのだから当然である。彼女たちにとってはあまり面白くなったようで、鬼をクビになり、今度はわたしも隠れる番となった。
穴を掘って埋まってみようとしたのだけれどほかのバンシーに見咎められ、仕方なく木の根元に隠れることにした。『聖樹宮』は光に満ちているのに、木々の間で蹲っていると、闇のほうがずっと多かった。光を放つ虫も、枝から下がる『森ぼんぼり』も、闇に負けている。
耳を澄ますと、広場のほうから「どこかなー」と弾んだ声が聴こえる。すぐそばの地虫の囁きとほとんど変わらない音量だった。
ふと、思う。
今現在、『聖樹宮』にグレガーはいない。先ほどロジェールたちと一緒に王都へ向かったからだ。彼女らにとってグレガーは、庇護者だろうか。それとも、随分と歳の離れた友人だろうか。彼が去ったあと、彼女らはここで遊び続けるのだろうか。持て余した感情に従って、泣いたり笑ったりして、消えていくのだろうか。そもそも彼女ら魔物に終わりがあるのだろうか。きわめて具体的な意味での死を持っているのだろうか。
「見つけた!」
目の前に生白い少女の顔が現れる。
「見つかっちゃった」
なんとなしに呟いてみると、少女は嬉しそうに「見つかっちゃったねえ」と言ってわたしの手を取った。
「おはようございます、お嬢さん。そんなところでなにをしてるんです?」
スピネルのそばの藪に隠れていると、寝起きのヨハンがそんなことを言ってきた。
「無視しないでください。なにを――」
「オネーサン見つけた!」
ヨハンの声で分かったのだろう、わたしを見つけたバンシーが勢いよく藪に飛び込んできた。
「あなたのせいで見つかったわ」
「ああ、かくれんぼですか。いいですねえ。そういうのはドンドンやるべきです」
ヨハンはちっとも悪びれずに言う。すると、彼のそばで薄黄色の巨体が身じろぎした。
「ふぁぁ……あ、姉さん。おはよっす」
スピネルは眠たげに身体を起こし、ぐしぐしと拳で両目を拭った。
「……オネーサン、出発しちゃう?」
かくれんぼは中止らしく、あちこちからバンシーが飛んできた。一様に不安げな顔をしている。
「出発するわ」
するとバンシーたちは互いに顔を見合わせてから、順番に言葉を紡いだ。
「寂しいけど、我慢する」
「かくれんぼ楽しかった」
「また遊ぼう」
引き止めないのは助かる。『霊山』のときみたいに行動を阻害されるのは時間の無駄だからだ。
ヨハンは地べたに座り込んだまま、わたしとバンシーの両方を見上げていた。だらしなく口を緩めて。
「オネーサン、楽しかった?」
「楽しくなかった」
率直に返すと、彼女らは「うぅぅ」と声を漏らし、いくつかの瞳が潤んだようだった。
乾いた笑いを漏らして、ヨハンが言う。「ご承知でしょうけど、今のお嬢さんには楽しいと感じることが出来ないんですよ。お嬢さんのぶんも貴女がたが楽しんでいただけたなら、それでいいんじゃないでしょうか。それに、一緒に遊んだ時間はなくなったりしませんから」
時間は常に消えるものだと思ったが、それは単に解釈の問題なので、異論を挟む類の誤りではなかった。バンシーたちが楽しかったならそれでいいという理屈も、ヨハンが口にするような言葉ではないような気がするけど、別にかまわない。わたしのぶんまで彼が理屈を捏ね回していればいい。
「次は楽しんでもらうもん」
そうこぼしたバンシーの顔を、まじまじと観察する。彼女こそがわたしをかくれんぼに誘ったバンシーのように見えるし、そうでないようにも見える。
「それじゃ、お元気で」
ヨハンの言葉を合図に、スピネルが立ち上がり、わたしも出口への最初の一歩を踏み出した。
「またね」
「元気でね」
「オネーサン好きだよ」
「バイバイ」
「王様と仲良くしてね」
しばらく追いかけてきていた彼女らの声は、森の大通りを進むうちに聴こえなくなった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『ハル』→ネロの死霊術によって蘇った少女。メイド人形を演じている。元々はアカツキ盗賊団に所属。生前の名前はアイシャ。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『ミイナ』→アカツキ盗賊団のリーダー。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『森ぼんぼり』→樹に寄生する植物。樹上から球状の灯りを垂らす。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『聖樹宮』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




