968.「いつかの記憶を抱えて」
かつてグレキランスを訪れた獣人は、深い失望を抱えて都を去った。愛した女性を失い、信頼した人間に追い立てられ……。樹海に帰還したその獣人は、やがて獣たちの王となり、今もその地に君臨している。
ヨハンがわたしを見て、軽い笑みを浮かべた。
ルドベキアで耳にしたゾラの昔話を、ヨハンも知っているのだろう。わたしの耳を通じて盗聴したに違いない。
「笑いたければ笑うがいい。他種族を慮るなど正気の沙汰ではないと思っているのだろう?」グレガーは自嘲気味に笑う。けれど、わたしとヨハンを順番に見上げたその目は、敵意を含んだ鋭さを持っていた。「連中は、世間一般の奴らが言うようなケダモノではない。遥か昔、王都は獣人世界からの使者を手酷く排斥したのだ。使者は、純真な男だった。それを私は、我が身可愛さに……」
声が詰まり、グレガーは俯いた。周囲を泳ぐ光の粒が、白銀の髪を鈍く照らしている。
「似た者同士ですな」と、ヨハンは素早くわたしに耳打ちした。
性格は似ていない。けど、両者が長い時間を越えて、それでも互いに同じ記憶を心に抱え続けている点は似ていると言えるかもしれない。二人とも、今も思い出を捨てられないでいる。
「これが私の要求だ。叶えることなど――」
普通は無理だろう。他種族にグレキランスでの居場所を確保するなんて、昔のわたしなら道のりの長さを思って途方に暮れてしまったはずだ。
しかし今となっては――なんて簡単な願いなんだろうと思えてしまう。しかもそれは、すでにほぼ実現の約束された物事なのだ。
「難しいですが、なんとかしましょう」
案の定、ヨハンは獣人たちとの交渉内容を伏せるつもりらしい。妥当な判断だ。
グレガーは顔を上げ、訝しげにヨハンを観察している。言葉の真偽を見極めようとしているに違いない。が、無駄だろう。グレガーにヨハンの心を見抜けるのなら、指を失うようなことにはならなかった。
「我々はグレキランスの現王と昵懇でして、大抵の望みなら叶えられます。貴方が相応のリスクを背負うとなれば、実現の可能性は限りなく100%に近付くでしょうなぁ」
「王と昵懇だと? でまかせを……」
「ま、好きなだけ疑うといいです。我々は貴方に報酬を渡す準備がある。あとはグレガーさんご自身が選ぶだけでさぁ。戦争に協力して他種族のための永住権を確保するか、森に引き籠ってチャンスをフイにするか」
グレガーはわたしたちを信用していない。ヨハンの言葉だって、きっと虚言だと思っているだろう。報酬の実現性を証明しろと言われても方法はない。
グレガーの返答はシンプルで、そして悩んだ素振りもなかった。
「協力しよう」
嘘か誠か分からない話に飛びつく彼を、ただただ不思議に思った。理性的じゃないな、とも。
「よろしい。それでは契約しましょうか。貴方はここにいる人々を速やかに起こし、ご自身も戦争に協力する。厳密には、人間側の戦力として血族と相対するのです。それと引き替えに、我々は他種族の永住権をグレキランス内に確保する。……よろしいですね?」
「ああ」
するとヨハンは素早くグレガーの額を掴んだ。直後、その指先から紫色の光が迸る。
グレガーはもがくことなく、じっと光の洪水に耐えていた。
「契約成立です」
額を掴んでいたのは、ものの五秒程度だった。
「なにをした?」
「契約の力です。私の手のひらが見えますか?」わたしにも見えるように、ヨハンは右手を開く。さっきまでグレガーを掴んでいたほうの手だ。かさかさに枯れた肌に、毛の生えた十字架のような紋様が浮かんでいた。
グレガーの額にも、同じ紋様が徐々に浮き出してくる。
「契約の証が、今貴方の額にも浮かんでおります。私の手と同じ十字架をデコに抱いたわけです」
グレガーの眉間に皺が寄り、十字架が硬く盛り上がった。バンシーたちは次々に彼の顔を覗き込んでは、ハッと口元に手を当てる。
「王様のおでこ、変」
「十字架!」
「不吉!」
口々に言っては、グレガーの影に隠れてヨハンを睨む。ツンと尖った唇は敵意の表明のつもりなのかもしれないが、愛くるしさのほうが勝っているように思う。ヨハンの苦笑がその証明だ。
「不吉と言えば不吉かもしれませんねぇ。なにせ、契約を破った場合には命を奪われるわけですから」
「命か……」
そう呟いたグレガーは、どこかぼんやりした様子だった。ヨハンの言葉を嘘だと決めてかかっているような雰囲気はない。
「ご安心ください。契約を履行すればいいだけですから。もちろん、私も貴方と同じ立場です。報酬の支払いが出来なければ命を失う」
わざわざ血族の力を使ってまでグレガーを縛り付けたヨハンの意図が分からない。気まぐれにしては大胆過ぎる。
「そうか」
立ち上がったグレガーが、どうしてそうも晴れやかな顔をしているのかも、わたしには分からなかった。
「これでしばらくすれば目を覚ます」
グレガーがやったのは、パチン、と指を鳴らしただけだった。魔力を感じ取る力がなければ、気障な演出としか思わなかっただろう。
彼が指を鳴らした瞬間、『聖樹宮』全体の淀みが消えた。空間を覆っていた靄が一気に晴れたような、そんな具合である。視界に入るあらゆるものが先ほどよりも明瞭に見えた。それでようやく、空間全体に魔力が薄くかかっていたことにも気が付いたのだ。
人々は、すぐに起きる気配はなかった。ただ、寝息のリズムがあちこちで乱れているように聞こえる。
グレガーの言った『しばらく』が具体的にどの程度なのかは分からなかったが、さして時間もかからず全員が目覚めるように思えた。地の底を這っていた安眠の吐息はあちこちで崩れている。
「お嬢さん」
踵を返した瞬間、ヨハンに呼び止められた。
声を無視して出口へと歩を進めると、二つの影がわたしの前に立ちはだかって、自然と足が止まる。ハルキゲニアの双子――『白兎』と『黒兎』だった。
なんだか『霊山』の繰り返しみたいだ。
「オネーサン、もう帰っちゃうの?」
『黒兎』はつまらなそうに言う。『白兎』のほうはじっとわたしを見上げているだけだが、なにかしら訴えかけるような視線だった。
「そう。帰るのよ。忙しいから」
いつまでもここに留まる理由はない。再び歩き出そうとした矢先、やんわりと肩を掴まれた。
「お嬢さん。スピネルさんをご覧ください」
仕方なく振り返ると、黄色い鱗の竜人はいつの間にやらうつ伏せになって目を閉じていた。呼吸に合わせて背中が上下している。巨体のくせに、鼾ひとつかいていない。
「スピ――」
起こそうと声を張り上げた瞬間、ヨハンの手で口を塞がれた。
「お静かに。……彼はここまで随分と頑張ってくれたじゃありませんか。ほとんど眠っていないんですよ。ここで休ませてあげましょう」
「これから『最果て』の人たちが起きるんだから、きっと騒がしくなって眠れなくなる」
「だとしても、起こすのは忍びないです。まあまあ、我慢してください。私も眠たいんですよ」
「なら、もっと静かな場所に行って眠れば――」「クロエ!」
わたしの声は、広場に響き渡った甲高い声に遮られた。声の主はもちろんヨハンではないし、双子でもない。バンシーでもない。
声の方角を見やる。そこには、両目を覆うように布を巻いた少年と、メイド姿の無表情な少女が立っていた。
「お久しぶりデス、クロエ」
死霊術師の少年、ネロ。そして彼の召使いであり姉役である死者、ハル。
二人の姿を目にしても懐かしいとさえ感じない自分がいて、その事実に当惑すら覚えることはなかった。
どんな顔をすればよいのかも、やっぱり分からなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ネロ』→クロエの出会った死霊術師。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『ハル』→ネロの死霊術によって蘇った少女。メイド人形を演じている。元々はアカツキ盗賊団に所属。生前の名前はアイシャ。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『白兎』→ハルキゲニアの元騎士。魔術師。本名はルカ。ハルとミイナによって撃破された。現在は『黒兎』とともにハルキゲニアの夜間防衛をしている。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』『164.「ふりふり」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』『幕間.「それからの奇蹟~ある日のハルキゲニア~」』にて
・『黒兎』→ハルキゲニアの元騎士。ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『聖樹宮』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




