967.「お望みの報酬を」
規則的な寝息がいくつも重なり、『聖樹宮』の底をゆるやかに揺さぶっている。
広場の中心に聳える大樹を仰ぎ、ヨハンが唇をひと舐めした。
「貴方は王都を追放された元騎士です。具体的に言うと、不死の研究が魔具制御局――つまりオブライエンの目に留まり、排除された」
グレガーにまつわる昔話をヨハンにした覚えはない。にもかかわらず知っているのはなぜか。……わたしの耳を通して認知したと考えるのが妥当だろう。こっちの感覚のいくつかを彼が掌握していて、ゆえに情報も筒抜けというわけだ。以前からたびたび、ヨハンはそんなことを口にしていたっけ。
要するにわたしの身体には、病巣のごとくヨハンが巣食っているのだろう。
ヨハンは抑揚たっぷりの演技じみた口調で続けた。
「グレガーさん。貴方はせっせと王都で築き上げたものを、オブライエンにすべて奪われたのです。当然、憎悪の感情はあるでしょうなぁ。しかし、同時に恐怖も感じておられる。だからこそ膨大な魔力を割いてまでロジェールさんたちをこの地に縛り付けている……そうでしょう? 対オブライエン用の私兵として使う予定だったことは、すでに貴方自身が説明した通りです」
ヨハンは腕を垂直に伸ばし、『聖樹宮』を埋め尽くす人々をぐるりと示した。そんな彼を、グレガーはただ黙って睨んでいる。
ゾラの語ったところによると、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していたらしい。だが、そんな情報は王立図書館のどこにも残っていなかった。追放処分となった、騎士団の元ナンバー2と記録されているばかりである。
意図的に修正されたと考えるべきだろう。おそらくはオブライエンによって。
ただ、グレガーの存在そのものを記録から抹消しなかった点は疑問が残る。
……想像の域を出ないが、思うに、オブライエンはグレガーの追放にさして力を注いでいなかったのではないか。不死魔術を研究している男がいて、その研究内容を鼻で笑う様子は容易に想像出来る。オブライエンにとって不死は、大昔に実現済みの魔術だ。他人の魔力を用いて生命維持を行うというグレガーの方法論を、児戯だと捉えたかもしれない。とはいえ、オブライエンの身はグレガーの研究の延長線上にある。ゆえに放置するのではなく、排除したという顛末だろう。殺害ではなく追放を選んだあたりに、オブライエンの嘲笑が透けて見える。
第三者であるわたしが簡単に導き出せてしまう推論など、とうの昔にグレガーも到達しているはずだ。辱められた自尊心は、しばしば憎悪を膨張させる。今もグレガーの心に憎しみがあるのかは定かではないが、ヨハンへと向けられた鋭い眼差しには、時間を経ても消えることのなかった黒い感情がちらついているように見えた。
「我々はオブライエンを叩き潰す方策を持っています。奴を殺す最初で最後のチャンスが、この戦争なのですよ。これは決して過剰な表現ではありません。グレキランスが国家として成立して以来、はじめて訪れた最大の好機と言ってもいい」
「……成立以来?」
グレガーの声はかすれていたが、言葉は明瞭だった。
ヨハンは皮肉っぽく口を歪め、頷く。「ええ。過言ではありませんよ。事実ありのままです。オブライエンはグレキランス成立以前から生きる不死者ですから」
わざわざ説明するのか、と率直に思った。オブライエンの情報を出すとなると、どうしたって話は長くなる。その分だけここにいる人々の解放が遅れ、したがって王都で彼らが打ち合わせに割ける時間も減ってしまう。
が、わたしの懸念は杞憂だったらしい。
グレガーは「知っている」とひと言呟いて、あとはそれまで通り黙ってヨハンを睨みつけた。
……知ってる?
グレガーは自力でオブライエンの秘密を手に入れたのだろうか。
どこまで?
どうやって?
頭に浮かんだ疑問の粒は、簡単に霧散した。どうでもいいと思ったのだ。グレガーはオブライエンが不死者であると知っている。事実はそれだけだ。情報の出どころや過程を追求する意味は大きくない。
「なら、話は早い」ヨハンはしゃがみ込み、グレガーと視線の高さを合わせた。「我々はオブライエンの居城への侵入方法と、彼を包囲するだけの人員を持っています。ですが、オブライエンにかまけていられるほど血族の勢力は貧弱ではない……。そこで貴方の助力も願いたいわけですよ。グレガーさんの幻覚の力があれば、人間の勝率は格段に上がります。貴方が参戦するか否かで、我々の命運は大きく変わることでしょう」
安い勧誘文句だと思った。美辞麗句で奮起するような男ではないだろう、グレガーは。
「……報酬は?」
ほら。然るべきリターンなしで動く人間は少ない。もちろん、ここで眠る多くの人々を否定しているわけではない。彼らは使命感で王都を目指してくれたわけだが、それはつまり、使命感それ自体が行為の報酬となっているだけの話だ。そしてグレガーは、使命感を重視していない。
ヨハンは右の人さし指で、ピンと天を指す。
「もちろん、お望みの報酬を用意しましょう。ね、お嬢さん」
不健康な顔が、わたしを見上げる。
どうやら返事をしなければならないようなので、「可能な限り交渉する」とだけ答えた。それ以上、言えることなんてない。具合のいい嘘も思いつかなかった。
けれど、それで充分だったようだ。
グレガーは俯き、ぼそりと呟いた。
「永住権を」
「はい?」とヨハンが聞き返す。
するとグレガーは顔を上げ、はっきりと繰り返した。
「永住権を要求する」
「……王都に戻りたい、というわけですね。その程度のことなら、なんとでもなります。我々はグレキランスの王様にちょっとしたコネがありますので」
そう言って、ヨハンはこちらにウインクを送った。これほど爽やかでないウインクを見たのははじめてである。
ヨハンの言葉自体に誤りはない。グレガーを王都に移住させることくらい容易だ。戦争後に王都がそのままのかたちで残っているかは疑わしいが。
「……王様、森を捨てちゃうの?」
頭上から、ぽそ、と雨垂れのように言葉が落ちる。見上げると、今にも泣き出しそうな表情をしたバンシーが一体、不安定に漂っていた。
「そんなの、やだ」
「寂しいよ」
「つらい」
次々とバンシーが集まってくる。袖を引く言葉を口にしながら。
ここにいるバンシーたちは、通常の魔物ではない。グレガーの不死魔術の副産物であり、ラガニアでの『気化アルテゴ』とは別の方法で魔物化した、元人間である。成り立ちの時点からずっとグレガーのそばにいるわけで、精神的に依存しているのは自然なことだろう。
一体のバンシーが、グレガーの肩をぎゅっと掴んだ。それが契機となって、ほかのバンシーたちも彼の身体のあちこちに縋りつく。
森の王様は、愛おしそうな微笑を浮かべた。「大丈夫。いなくなったりはしない」
それから彼は、またぞろ鋭い目付きでヨハンを見やった。
「私個人の永住権など、欲していない」
「ほう。すると、そこのチビッ子たちを含めた永住権ですかね?」
バンシーたちはグレガーの服を掴んだまま、口を尖らせてヨハンを睨む。チビッ子と呼ばれたのが不快だったのかもしれない。あるいはそもそも彼女たちの目には、ヨハンは王様をいじめる悪党に映っているのだろうか。どうも、後者らしく思える。
「それも違う」とグレガーは首を横に振った。
「なら、誰の永住権を?」
ヨハンの問いかけののち、沈黙が流れた。人々の寝息と地虫の声が、静けさを強調するように鳴っている。
数秒後、グレガーは朗々と静寂を破った。
「グレキランス領での、他種族の永住権を要求する」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した『気化アルテゴ』によって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔具制御局』→魔具を統括する機関。拠点は不明。オブライエンが局長を務めている。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『196.「魔具制御局」』にて
・『気化アルテゴ』→オブライエンの発明した兵器。『液化アルテゴ』が気化したもの。膨張を繰り返し、急速に広がる。吸引した人間は多くが魔物となり、一部が他種族に、ごくごく一部が『黒の血族』へと変異する。オブライエンは双子の兄であるスタインの体内に『液化アルテゴ』を設置し、生命活動の停止に伴って外気に触れるよう仕組んだ。スタインが処刑されたことにより、ラガニアは滅亡することとなった。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『聖樹宮』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『王立図書館』→王都グレキランスにある図書館。クロエが好んで通っていた場所
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より




