966.「涙とポカポカ」
「「そう驚かないでください」」
同時に発せられた声が、遠近の違いからズレて聴こえた。片やわたしのすぐそばで。片や巨樹の根本で肩を竦める、まったく同じ顔をした男――ヨハンの本体から。
わたしに対して投げかけたようにも、後ろの双子に対して言ったようにも聞こえる。なんにせよ、今のわたしには驚きを覚えるだけの心の動きは生じない。なにがあろうと、常に凪ぎのような静寂があるだけなのだ。
それから立て続けに、いくつかの動きがあった。
まず、グレガーである。彼は顔を上げると、わたしのほうを恨めしそうに見つめた。角度の関係で右手しか見えなかったけれど、ちょうど小指を覆うようにして、手の甲をぐるりと緑色の葉っぱが貼り付いている。おおかた竜人がよく使っている薬草だろう。つまり、彼の指は現実に失われたということだ。
次に、スピネルの声が響いた。
「姉さん! ああ、良かった! 無事だったんすね! 痛っ!」
上半身だけの女の子に取り囲まれ、ポコポコと殴られ続けながら、スピネルが歓喜の声を放ったのである。
彼の反応につられるようにして、バンシーたちがわたしに気付き、あっ、と驚きの声を上げた。
「オネーサン」
「なんでいるの?」
「どういうこと?」
彼女たちはスピネルをいじめるのをやめて、ふわふわとわたしの頭上を旋回した。口々に交わされる疑問の言葉から察するに、彼女たちはわたしが『鏡の森』に足を踏み入れたことや、つい先ほどまでグレガーの幻によって死を経験させられたことも知らない様子だった。
「あのねオネーサン」
「あのデッカイ生き物がね」
「王様をいじめたの!」
「指をガブッてしちゃったの!」
だから、精一杯スピネルを叩いていたのだろう。よく見ると彼の口元には、赤い色味が斑にこびりついている。
「全部指示しておいたのですよ。私の本体が意識を失う前にね。お嬢さんが度重なる死を味わっている間に『聖樹宮』の真の位置を割り出して、スピネルさんと一緒に向かったわけです」ぼそぼそと、わたしの耳元で偽物のヨハンが囁く。「途中で雲行きが怪しくなりましたので――つまりグレガーさんに一杯食わされる気配を感じましたので、あとのことをスピネルさんにお願いしたんですよ。『聖樹宮』に侵入して、意識を失っているグレガーさんの指を順番に噛み千切るように。ですから、スピネルさんはなんの罪もないわけです。私の指示に従っただけですからね」
「そう」
わたしの返事を聞いたヨハンが、両方とも肩を竦める。
「今のお嬢さんは理解が早くて助かります」
理解力は現在と以前とで変わりないはずだが、他人の評価や感覚のことはどうだっていい。
彼と話をしているうちに、バンシーたちはスピネルのほうへと戻っていき、またぞろ彼をポカポカやっている。
ヨハンのことだから、スピネルが袋叩きにあっているのもわざとだろう。自分に矛先が向かないようにバンシーへの説明を省いたに違いない。なんにせよ、彼女らの脆弱な拳がスピネルに有効なダメージを与えるとは思えなかった。それなのに泣いているのは疑問だが、涙の理由を確認したところで得るものはないだろう。
ゆえに、スピネルは放置に限る。
「姉さん! 助けてください!」
『聖樹宮』の隅っこで叫ぶ彼を無視して、巨樹の根元へと進む。
「ヨハン。話はどれだけ進んでるの?」
彼は苦笑して、バンシーたちのほうを見やった。「お嬢さんがた。あんまり彼をいじめないでください。多分、それなりに繊細でしょうから」
どの口が言ってるんだろう。
疑問を顔に浮かべたつもりはないのに、ヨハンは取り繕うように言った。「グレガーさんにかかりきりでしたので、スピネルさんをかまっている余裕がなかったのですよ。あんなに泣いてるとは、ちっとも気が付きませんでした。いや、実際何度かこうやって注意したのですが、見ての通り、彼女たちは攻撃の手を緩めないんでさあ」
ヨハンの言葉が耳に入っていないかのごとく、バンシーたちは手を止めない。
甚だどうでもいいのだけど、そんな説明だから駄目なのではなかろうか。
「悪いのは全部この男よ。そこの竜人は命令されてやっただけ。わたしの仲間だから、そのへんで許してあげて」
本物のヨハンを指さしてそう言うと、ようやく彼女たちは殴打をやめた。そして不満げに顔を見合わせている。まったく納得のいっていない様子だが、収まったのでいいだろう。そもそもわたしの関心事は別にある。
「それで、解放してくれるって?」
「ええ。先ほど約束してくれました」
グレガーを見下ろして、本物のヨハンが言う。
解放してくれるなら、それで充分だ。
『聖樹宮』をぐるりと見回す。どこもかしこも寝入った人々だらけだ。戦場へと赴こうとする人間がこうして森の一角に閉じ込められてしまっている状況に、さして憂いはない。これだけの人数がいて誰もグレガーを出し抜けなかったことは、別段失望すべき事実ではないからだ。
「なら、早く起こして。出発するわよ」
一刻も早く進まなければならない。『岩蜘蛛の巣』をスムーズに通過しても一日か二日。出口である窪地の町イフェイオンから王都まで二日か三日。すべて徒歩で換算しなければならないうえに、この人数だ。何日か余計に見積もる必要があるだろう。
それに、敵の侵攻までに到着出来ればいいという話でもない。今、王都でせっせと部隊編成が行われているのは、『共益紙』を通じて把握している。敵がどのような方法で攻めてくるかは未知だが、それぞれの町に小規模の部隊と交信魔術に長けた者を配備し、戦力を逐次投入するという方針が今のところ有力らしい。なんにせよ、有効な戦力配備には事前準備が必要である。王都に着くのが早ければ早いほど、今後の動きも密に打ち合わせ出来るだろう。
「まだ話はついてないですよ。これから本題に入るところです」
ヨハンはへらへらとそんなことを言う。
するとグレガーが怪訝そうに顔を上げ、口を開いた。
「どういうことだ……? 解放すればいいだけだろう?」
「解放はしていただきますが、それだけで済むと思っちゃあ、いけませんよ」
解放以外にグレガーに求めていることはない。しかし、ヨハンとしてはそうではないようだった。
わたしがとっくに諦めた要求を、彼はまだ見据えていたらしい。もしかすると、そればかりを狙っていたのではないかとさえ思ってしまう。
「ようやく落ち着いて話が出来るようになったんです。とことんまでお互いの利害を突き詰めましょう。そもそも、貴方との対話は中途で終わってしまっている。グレガーさんが幻覚の世界に我々を放り込んでしまったせいで、有益な話も中断されてしまったわけです」
グレガーは答えない。座り込んだまま、じっとヨハンを見上げていた。ほとんど睨むような目つきで。
そんな森の王様へと、ヨハンが顔を寄せる。
「貴方が憎んで憎んで憎んで憎んで仕方ないオブライエン……彼を死滅させる最初で最後のチャンスについて、話しましょう」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『聖樹宮』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。実は最果てと王都近辺を繋いでいる。中には小人の住処も存在する。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




