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964.「たかが小指」

「苦労をかけますね」


 背中のほうから、かすれた声が届いた。


 別に、これしきのことはなんの問題もない。充分予期していたことだ。


 雪原を歩きはじめて、もう二時間は()っていた。ヨハンが動けなくなったのはつい先ほどのことである。


 背中越しに伝わる鼓動は弱々しい。吐く息が肩口にぶつかって、そこだけ温かかった。


 どうせ殺すなら吹雪でも起こすか、もっと気温を下げればいいのにと思う。こうして歩いている時間が現実の時間とどれだけリンクしているのか分からないが、死への道のりの悠長さはどうしても気がかりだった。焦ることも苛立つこともないのだけれど、無意味な時間のなかにいると、今まさに現実で進行している物事――王都での戦争準備が頭に浮かんでやまない。


 冷えたおでこがズキズキ痛んで、思考も千々(ちぢ)に乱れてしまうのに、脳が活動をやめることはなかった。なにも考えていないつもりでも、幻覚の雪原にふと断片的な情景が重なる。王都を取り囲む魔物の大群だとか、紫に染まった自分自身の肌だとか。あるいは、ニコルの微笑だとか。


「重いでしょう。すみませんね」


「軽いわ」


「嫌になったら、私をそのへんに捨てて、お嬢さんだけで進んでください」


(だん)を取れるから、捨てない」


 実際、背中だけはまだ冷え切っていなかった。身体が接しているだけなのに、少しはマシに思える。


 いっそ身体を投げ出して雪に横たわり、さっさと凍死してしまうのも悪くないだろう。死ぬことが先に進むことなら、その理屈は正しい。しかしながら感情の()せたわたしにも生存本能はあるようで、無根拠な手段を選び取る気にはならなかった。


 足が駄目になるまで歩く。それでいい。


 空はいつの()にか晴れていて、夜だった。雪もやんでいる。天蓋(てんがい)に星粒がまたたいていた。淡い色合いのカーテンが山稜(さんりょう)の上に()れている。


「オーロラなんてはじめて見ましたよ」


 背中から皮肉っぽい声が流れる。吐息と区別するのが難しいくらい、曖昧(あいまい)な笑いが続く。


 オーロラは微細なグラデーションで彩られていた。緑。青。黄。それらが連続的な濃淡で広がり、絶えず変化している。


 宝石に似た透明感。だから、おそらく、綺麗なのだろう。


 踏み出そうと力を入れた瞬間、靴裏の雪が滑り、つんのめるようにして転んだ。気を取られていたというより、限界だったのだろう。これまでも何度か滑りかけたけれど、そのたびになんとか踏ん張れた。もうそれすら覚束(おぼつか)ないということだ。


 うつ伏せになったわたしの上に、ヨハンが(おお)いかぶさっている。歩いているよりもずっと温かく感じた。


 転んだ衝撃のせいなのか、腕が痺れている。膝から下も感覚がない。


「大丈夫……ですか?」


 生きてはいる。ただ、返事をする気になれなかった。なんだか途轍(とてつ)もなく脱力してしまっている。


 この感覚には、覚えがある。


 そうだ。


 眠りだ。


 ようやくわたしは眠れるらしい。周囲の雪が、冷気が、ヨハンの体温が、もう眠ってもいいのだと(ささや)いているように思えた。


 (まぶた)を閉じかけた瞬間、背中で身じろぎする感触があった。


「ようやく……お出ましですか」


 声につられて眼球を動かすと、わたしたちから一メートルも離れていない場所に編み上げのブーツと、深緑色のローブの(すそ)が見えた。


 だるさを押しのけて、なんとか顔を持ち上げる。


 雪原に立つ長髪の男が、苦笑を浮かべていた。


「苦しかろうに。後退すれば楽になるのが分からないのか?」


 そんなことは言われなくとも分かってる。死に向かう途上(とじょう)は、たとえどんなものであれ苦痛だ。本能的に逃げ出したくなるものだ。一方で、なにもかも諦めて森を出ることは、話にならないほど馬鹿な選択だろう。なんのためにここに来たのかを忘れて、ただ目前の苦しみから逃げるために(きびす)を返すようなら――はじめからなにもしない。


「勘違いしてもらっては困るが、私はサディストではない。君たちを何度も何度も殺すことに(よろこ)びを感じようだなんて、そんな意思はないのだよ。分かるだろう? 私はただ備えたいのだ。王都陥落(かんらく)ののち、森に迫る血族どもを駆逐(くちく)するために」


 グレガーの声が、妙な具合に響いた。遠く感じたり、かすれたり、かと思えばやけに鮮明になったりする。意識が()えがちになっているのだろう。彼の声を聴いているうちに、自然と瞼が下りた。


 ヨハンはわたしよりも重症のはずだ。だからもう、途切れがちな意識を(たも)つので精一杯のはず――。


「ハハッ」


 耳元で響いたそれが、最初は笑いだとは分からなかった。吐息の合間に喉が痙攣(けいれん)したと考えるのが自然で、けれど違った。


「「そんな嘘をついたって、駄目ですよ」」


 耳元と、グレガーの立っている場所。その両方からヨハンの声がして、思わず目を開ける。


「な……お前! どういうことだ!」


 グレガーの反射的な叫びは、わたしが(いだ)いた疑問とまったく同じだった。


 どういうことなの。


 わたしの背中には依然(いぜん)として息も絶え絶えなヨハンがいて、しかし、グレガーを羽交(はが)()めにしているヨハンもいる。そっちのほうの彼は、わたしの見慣れた愉快そうな、ありとあらゆる性格の悪さを煮詰めたような邪悪そのものの笑みを浮かべていた。手に持ったナイフをグレガーの首元に押し付けている様子は、どう考えても、殺人鬼と憐れな被害者の構図だった。


「もう一体作ったんですよ」元気なほうのヨハンが言う。「二重歩行者(ドッペルゲンガー)をね」


「ありえない! 分身をひとつ作るだけでどれだけ魔力を消費することか。それが、この極限状態において三体目だと? しかもお前の本体は意識を喪失して――」


「そう。現実の私は意識を失っています」「で、お嬢さんの背中にいる私が」「疑似的な本体になっているわけです。魔力の消費は依然(いぜん)として続いている。が、問題が単に魔力だけ(・・)なら、三体目の二重歩行者(ドッペルゲンガー)も可能でしょう。ところが通常は不可能だ。その理屈がお分かりになりますか?」


 グレガーの顔が蒼褪(あおざ)めた。


「認知の問題か」


「その通りです。分身するだけで情報量が二倍になりますので、それだけでも処理は難しいのですよ。二重歩行者(ドッペルゲンガー)の使い手が少ないのはそれが理由です。(あつか)える人間がいたとして、片方の意識はどうしたって散漫になってしまう。その点私は習熟していますが、それはまあ、別の話です。もうお分かりの通り、グレガーさん、貴方(あなた)が本体の意識を分身の意識とイコールにしてくださったおかげで、三体目の二重歩行者(ドッペルゲンガー)を、二体目を維持(いじ)するのと同じ難易度で作り出せたわけです」


 意識下でコントロールするのは二人分が限界で、この幻覚世界においては実質ひとりだけの意識で過ごしていた。だからもう一体作り出しても脳に展開される意識は二人分で、通常の二重歩行者(ドッペルゲンガー)と変わらない。そんなところだろう。たぶん。


「よく考えたものだとは思うが」グレガーの表情に余裕が戻る。「君が立っているのは私の幻覚でしかない。こうしてナイフを突きつけられているのも、幻なのだよ。せっせと種明(たねあ)かしをしたところで現実の私に指一本触れていな――あぁぁぁああっ!!」


 ぶつ、と音がして、グレガーの右手から真っ赤な血が(ほとばし)った。みるみる雪が赤に染まっていく。目を()らすと、彼の小指が第二関節から先を失っていた。


 ヨハンは小指には一切触れていない。なにが起きているのかは分からなかったが、考えるまでもなく、一切が手のひらの上なのだろう。ヨハンの。


「暴れないでくださいよ、見苦しい」


「な、痛っ、なんだこれは!」


「種を明かすと単純ですよ。今まさに現実の貴方が(おびや)かされているだけのことです」


「げ、現実! 現実に――戻れない!! なぜだ!」


 グレガーの口から、冗談みたいな量の(つば)が飛び散った。相当焦っているんだろう。以前わたしが出し抜いたときよりもひどい(あわ)てかただ。


迂闊(うかつ)ですねぇ、幻覚魔術の使い手のくせに。手のうちを私に披露(ひろう)して、そのくせ無事でいられると思ったのですか? 先ほども申し上げた通り、意識を両立するのは困難です。特殊な訓練が必要。そして貴方は、同時に二箇所で意識を維持するだけの修練はしていない。『聖樹宮』で私の遅延領域(レント・メモリア)を受けたとき、もし貴方が意識を現実世界と幻覚世界とで別々に維持管理していたなら、片方の異常は即座(そくざ)に感知出来たはずです。にもかかわらず、ずいぶん対応が遅れましたねぇ? 幻覚世界から現実世界への意識の移行に手間取ったんでしょう? つまり貴方は片方でしか意識を維持出来ない。貴方の意識は今幻覚世界にあるので、現実は抜け殻のようになっているのでしょうなぇ。指を食い千切られるくらい接近されても一向に気付かないほど。ところで、現実世界に戻れないのはなんでだと思います?」


「なぜだ!? い、痛いっ、血が!」


「他人に死の苦しみを経験させておいて、それはないでしょう。たかが小指ですよ?」


 ケタケタと笑うヨハンは、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても悪魔でしかない。グレガーはぼろぼろと涙をこぼしていた。


「そうそう、現実世界に戻れない理由でしたね。単純な話。貴方が私に仕掛けた魔術と同じですよ。意識を幻覚に閉じ込めた。ロジックは(こと)なりますけどね。なにせ私に幻覚や洗脳は出来ない。単に、幻覚世界にノコノコ現れた貴方を、この世界の魔力と()い合わせた。それだけのことです」


 またしても肉の千切れる音がして、グレガーが絶叫した。今度は左の小指が失われている。


 単なる演出でした、と言わんばかりに呆気(あっけ)なく、ヨハンはグレガーの拘束を()く。


「痛いですか? 苦しいですか?」


 グレガーの耳にヨハンの言葉が届いているのか、(さだ)かではなかった。なぜならグレガーは今、雪の上をのたうち回り、絶えず叫んでいるのだから。


 そんなグレガーを蹴り飛ばし、仰向(あおむ)けに転がすと、ヨハンはその上に腰かけた。


「よく聴いてください。時間が経過するごとに貴方の指はなくなります。で、先ほど説明した通り、貴方の意識は今、幻覚世界と縫合されてしまっている。つまり、助かる方法はただひとつ」


「な、なん――あああああああああああ!!」


 今度は左手の薬指。今後は物を握るのに苦労するだろう。死ぬよりは断然マシだが。


「幻覚をすべて解除すればいいんですよ。馬鹿でも分かる結論です」


 涙に濡れたグレガーが(うなず)くのが見えた。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐


・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて


・『二重歩行者(ドッペルゲンガー)』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて


・『遅延魔術』→ヨハンの使用する魔術。対象の動きをゆるやかにさせる。ヨハン曰く、魔術には有効だが、無機物には使えないらしい。正式名称は遅延領域(レント・メモリア)。詳しくは『69.「漆黒の小箱と手紙」』にて


・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『聖樹宮(せいじゅきゅう)』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて


・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて

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