961.「解放要求」
死に際の痛みを何度も何度も味わわせた張本人に、ようやく会うことが出来た。
黄金色の冠を戴いたローブ姿の男へと、一歩ずつ、地面の感触を確かめながら歩んでいく。
わたしを散々傷つけたというのに、グレガーはむしろ狼狽していた。しきりに目を泳がせ、わたしを見ようとしない。
『聖樹宮』にいるのは、見る限りわたしとグレガーだけ。バンシーたち――上半身だけで浮遊する女の子をかたどった魔物――の姿はない。
枝の隙間から垂れ下がる球状の明かりや、踏めば発光する苔。あるいは微光を放って空中で遊ぶ小さな虫たち。それら天然の光が、『聖樹宮』を妖しく照らし出している。苔の間を川が流れていて、涼しげな水音が空間を満たしていた。
「戻れば死の痛みから逃れられると何度も忠告したのだが……よほどの理由があってここまで来たのだな」
何度も、という言葉に引っかかりを覚えた。記憶にある限り、彼が『引き返せ』と言ったのは一度きりだ。そもそもグレガーの声を聴いたのはその一回だけ。
けれど。
頂点に達した痛みから解放され、次の致死的苦痛に突き落とされるまでの空隙は、意識そのものがぼんやりとした雲に包まれているようだった。きっとわたしは、彼の警告さえ認識出来ないほどの状態だったのだろう。思うにそれは、肉体の防御機構かもしれない。極限状態にある精神と肉体――その核の部分を守るために、無意識という保護膜がわたしを覆っていたのだろう。ぎりぎりのところでなんとか踏みとどまっていたのだと考えても、なんら不思議ではない。
こうして振り返ってみても危機感なんて湧いてこない。一切がすでに過ぎ去っていて、まるで他人事だ。もしわたしが以前のように、感情の針を忙しなく揺らしていたなら、とっくに気が触れていたことだろう。
巨樹の根本まできても、グレガーは目を合わせようとしなかった。距離にして二メートル弱。腰にはちゃんとサーベルがある。その気になれば、まばたきの間に切りつけることだって可能だ。
「ロジェールたちはどこ?」
我ながら冷淡な声だと思う。調整することなく放った声の温度は、わたしの場合どうやら低いらしい。
「彼らは」目を伏せたまま、グレガーは慎重な速度で口にする。「私が匿っている」
「解放しなさい」
グレガーの行為の理由はどうでもいい。今のわたしは必要なことを必要な分だけ把握し、必要なだけの行動をとるつもりだ。ヨハンが要求した『無駄なコミュニケーション』は、逼迫した時間のなかで繰り出すものではない。
グレガーは動かなかった。ただじっと、視線をわたしの足元に固定したまま、首をほんの少しだけ傾けた姿勢を保っている。
サーベルの凍てついた金属音が、森の中心に解き放たれた。
「無謀な戦いに赴く者を、黙って通すわけにはいかない」
そう言って、グレガーは顔を上げた。先ほどまでとは瞳の印象が変わっている。なよやかな森の王様といった気配は消えて、冷厳な鋭さがあった。かつて王都の夜を守護していた戦士の眼差しに相応しい。
「あなたの意志は関係ない。解放しなさい」
「無理な話だ。彼らはハルキゲニアの者たちで、王都を守る責任はない。それに……敵は血族だけだとでも思っているのか? 背後に刃を突き立てられているというのに……」
背後の刃は、わたしも把握している。
「オブライエンのことなら、分かってる」
そう返すと、グレガーは俄かに眉根を寄せた。
「知っているなら、とるべき道は決まっているだろう。血族に王都を明け渡せばいい。連中とオブライエンをぶつけ、残ったほうを叩くのが賢明だ。あるいは、彼らから遠く離れた地で、戦火と無関係の平穏を享受すればいい」
グレガーは不死魔術の研究によって王都を追われた過去がある。以前、本人の口から直接聞いた内容だ。犯罪者の処遇を決めるのは表向き王城だが、魔術に関してはおそらく別だろう。魔具制御局の意向が反映されると考えるのが自然だ。つまりグレガーは、オブライエンによって追放の憂き目にあったともいえよう。そして今の口振りから察するに、彼はオブライエン本人と接触したこともあるに違いない。奴の危険性を察知する程度には、近い場所まで接近したとみていい。
それにしても、グレガーの言う『とるべき道』とやらは随分とまあ日和見だ。
勝って人間を永らえさせるか、負けてすべてを失うか。戦況がどう転ぼうとも、そのふたつのグラデーション上に人間の未来が配置されている。潜伏、隷属、逃避。いずれも選択肢としては落第だ。
「議論するつもりはないわ。ロジェールたちを解放しなさい。これは交渉じゃなくて要求よ。拒否するならここであなたを斬る」
本当にそうするつもりだ。脅しなんかじゃない。あらかじめ自分の行動を伝えているだけだ。
対話なんて必要ない。しかしながら、彼は違ったらしい。
「まあまあ、落ち着いて話をしましょう。ごきげんよう森の王様。私、お嬢さんのお守りをしておりますヨハンと申します。以後、お見知りおきを」
わたしの影から飛び出した貧相な男は、口調とは裏腹にフランクな仕草だった。わたしの肩に腕を回し、ニヤニヤと不潔な笑みを浮かべてグレガーへと手を突き出したのである。グレガーが顔をしかめるのも当然だった。握手するにはタイミングも作法も最悪だろう。
「……二重歩行者か」
「お察しの通りです」ヨハンは握手を得られなかった手をひらひらと空中で遊ばせる。「お嬢さんの影に隠れて、失礼ながらずっと様子を窺っていました」
自分の分身を作り出す魔術――二重歩行者。ヨハンはその使い手だ。いつそれをわたしの影に混入させたのか知らないけど、こっちが死の苦痛を味わっている間も、彼は平然と潜伏を続けたのだろう。
「話は聞かせていただきましたよ」
ヨハンが背後に回る。両肩を掴み、わたしの頭上からぬっと顔を突き出した。以前のわたしなら迷わず裏拳をかましていたであろう無遠慮さだったが、今は極めてどうでもよかった。後ろからハグされようが頬にキスされようがなにも感じないことは分かりきっている。
「グレガーさんのお考えはもっともなものだと思いますがね、我々の計画を知ってから結論を出しても遅くはないですよ」
「計画?」
グレガーが怪訝そうに腕組みをした。微光を放つ虫たちが、彼の周囲をゆるやかに飛び遊んでいる。
「そう、計画です。たったひとつの冴えた計画。犠牲たっぷりのスプラッタですが、やる価値は充分にあるでしょうなあ。ところで、先ほどあなたが口にしたアイデア――オブライエンと血族を直接ぶつける方法ですが、どちらに軍配が上がるとお考えで?」
「むろんオブライエンだ」
随分と買い被っている。血族が大軍を率いてもたったひとりの天才には勝てない、と考えているのだろう。
どうやらヨハンも同じ見解らしい。
「そうでしょうなあ。私もそう思います。夜会卿含め、諸侯の全勢力をひとつに集めてもオブライエンを捉えることなど不可能」
しかし、とヨハンは続ける。どうしてか、わたしの頭をぐしゃぐしゃと雑に撫でながら。
「我々の持つ戦力なら、オブライエンを消し炭に出来ますよ。きっとね」
直接見なくとも、ヨハンが悪党そのものの表情をしていることが分かった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。不死の力を持つ。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』『927.「死に嫌われている」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身の魔術。影に入り込んで移動することが可能。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『魔具制御局』→魔具を統括する機関。拠点は不明。オブライエンが局長を務めている。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『196.「魔具制御局」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『聖樹宮』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




