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960.「幻死痛」

 痛みがピークに達した瞬間、ふ、と感覚が消えた。耳に響く異常な破砕音も、口いっぱいの血の味も、赤黒い濁りを映すだけの視覚も、そしてもちろん、押し潰される痛みも。


 一切が消え去り、耳はなんの音も拾わず、口内には唾液の味だけ。視界にはいつの()にか、均一(きんいつ)な白が広がっていた。触覚はなにもない。温度さえ感じることはなかった。


 それでも頭だけは動いている。猛烈な痛みから解放されて緩慢(かんまん)に動きはじめた思考は、これが死なのかもしれない、いや、そうに違いないと、まるっきり他人事のような結論に達していた。


『鏡の森』も、ロジェールも、グレガーのことさえ意識にはなくて、今自分の置かれた無感覚な宇宙の正体を、薄ぼんやりした頭で考えていた。


 訪れたときと同じ唐突(とうとつ)さで、無感覚は終わりを告げた。時間にして十秒……いや、もっと短いかもしれない。


 まず視界に映ったのは、松明の光だった。風もないのに狂ったように揺れていて、幅二メートル程度のまっすぐな洞窟を等間隔に照らしている。天井はわたしの身長より少しだけ高いくらい。そんな圧迫感のある空間で、わたしは棒立ちになっていた。


 振り返っても景色は同じである。松明の火がおよそ十メートルおきに揺れている。


 手のひらを見つめた。さっきまで濃霧のなかにいたというのに、少しも濡れていない。念のため顔をぺたぺた触って確かめてみたけれど、普段通りの感触だった。巨人の足に押し潰されたことなどなかったかのように。


 前へと踏み出しながら、考える。


 先ほどの巨人の足も濃霧の景色も、間違いなく幻覚だ。現実としか思えないほど、生々(なまなま)しい幻覚。


『鏡の森』の主であり、人の魂を使った不死魔術を実現していた魔術師――『幻術のグレガー』。彼が他人の感覚まで掌握(しょうあく)するほど強力な魔術を(あつか)えることは、ゾラの語った昔話にも含まれていた。強靭な体躯と稀有(けう)な戦闘能力を持つ最強の獣人さえも、かつてのグレガーは屈服させたのだ。


 風切り音がして、思わず身構えた。なにかが(せま)ってきている。細長い棒状の――。


 腰に触れたが、そこにサーベルの感覚はなかった。咄嗟(とっさ)にしゃがんだわたしの頭上を、矢が高速で駆け抜けていく。


 なるほど、と思った。巨人の足だけで済ますつもりはないということか。そもそもこの洞窟もグレガーの幻術だということは理解している。


 前方からまっすぐに飛んでくる無数の矢を見据(みす)えて、わたしはただただ納得していた。


 立ち上がる。


 一歩踏み出す。


 ――そして、全身に矢が突き刺さった。


 抵抗が無意味だとしても、両腕で顔を防いでしまったのは本能的なものだろう。


 猛烈な風音の果てに、矢が突き刺さる。いくつもいくつも、連続で。


 たぶんわたしは叫んでいただろうけど、音の感覚よりも痛みのほうがずっと強くて激しくて、意識がぐちゃぐちゃに()き乱される。痛みなんか無視して前に進んでやろうと、走ってやろうと考えていたのに、実際わたしが踏み出せたのはたった一歩だけだった。


 強烈な痛みが積み重なり、やがて無感覚な空間へと放り出された。


 次に視界が戻ったとき、またも風景はがらりと変わっていた。左右を背の高い金網に挟まれた一本道。金網の道は丘の上へと続いていて、夕陽が正面から射している。金網さえなければ、なんとも牧歌的(ぼっかてき)な景色である。


 金網を(へだ)てて、まばらに人が立っていた。彼らは一様(いちよう)に黒衣をまとい、顔を黒いヴェールで隠している。


 本来、わたしの歩んでいる道は『聖樹宮』への一本道だ。そしてこれまで展開されてきた幻覚もまた、進行方向だけはきっちり示している。行くか戻るか。(つね)にその二択である。


 わたしにとっての選択肢はひとつ。前進だけだ。


 歩きながら金網に触れる。等間隔に打ち込まれたポールを支えにしているだけの、一見すると華奢(きゃしゃ)な金属なのだが、指先には冷え冷えとした頑強(がんきょう)さが伝わる。金網を破ることは不可能に思えた。網は頭上高くでアーチとなっており、脱出口は見えない。


 濃霧の巨人も洞窟の矢も、グレガーが頭のなかで()り上げた風景だ。お手製の拷問だ。それにしてはよく出来てると思う。この金網も、現実感だけは一流だ。


 黒衣の人々が、わたしに向かって燃え盛る木切れを投げつけた。罵倒(ばとう)の言葉を吐きながら。


 身をよじりながら早足で歩いているうちに、服に引火した。猛烈な熱が肌を刺激する。


 すぐに揉み消そうとしたけれど、次々に火が投げ込まれた。足を止める余裕はなくて、気付くとわたしは走り出している。喉がからからに(かわ)いて、自分自身の(あえ)ぎが耳にうるさい。身体のあちこちをはたきながら走っているのだけれど、服に燃え移った火は勢いを増していくばかりだ。なのに、誰もが嬉々として火を投げ込む。わたしにぶつけるだけでは飽き足らず、金網の隙間に松明を伸ばし入れたり、進行方向に即席の焚火を作ったりしている。


 皆、(わら)っていた。身悶(みもだ)えしながら、なんとかこの苦痛から解放されようと走るわたしを見て、心の底から愉快だと言わんばかりの狂喜を隠さない。


「グレガー」


 喉が焼ける。わたしの足は、もう止まってしまった。


「こんな無駄なことはやめて、姿を見せなさい」


 耳に届いた自分自身の声は、悲鳴に似た響きをしていた。


 皮膚の焼ける(にお)いがする。臭いには熱が(こも)っていて、鼻腔(びくう)を焼く。もはや全身が火に包まれていて、足の感覚はもうない。痛みだけが延々と続いていた。


 痛苦が絶頂に達すると、今度もまた、無感覚の時間がやってきた。


 が、これまでと違う点がひとつある。声だ。声が、ある。


「引き返すがいい。そして二度と森へ来るな」


 聞き覚えのある声。張りがあって、若者の声のように聴こえるけれど、口調にはどことなく年長者の落ち着きがある。


 グレガーだ。


「こんなことやっても無駄よ。諦めなさい」


 わたしの声が彼に届いたかどうかは分からない。なにせ、なんの返事もなかったのだから。


 次に目の前に広がっていた空間は、また洞窟だった。天井はさっきの洞窟よりもずっと低く、しかも膝から下が水に()かっている。なんとなく意図(いと)が分かったのでそのまま進んでいくと、行き止まりになっていた。しかしながらそれは一見すると行き止まりというだけで、水中に空洞が見える。


 胸いっぱいに空気を吸って、(もぐ)る。細い水路を泳ぎ進んでいく。


 しかしいつまでたっても水面にはたどり着くことなく、わたしは真っ暗な水中で岩肌に爪を立て、声にならない絶叫を上げ、溺れた。


 無感覚の空白を挟んで、次は、周囲を固い(やぶ)に覆われた獣道で、大量の虫に皮下(ひか)を食い破られた。


 次は紫色の湿原で、穴という穴から血を垂れ流した。


 次は後ろ手を縛られた状態で路地裏にいて、横道から現れた男たちに追い立てられ、こん棒で全身を殴打された。


 次は、

 次は、

 次は。


 痛みは常に新鮮だった。慣れるという機能は痛覚においては備わっていないのかもしれない。同じ種類の痛みを連続して受けていれば鈍りはするだろうが、それが別種の痛みに対する耐性にはなってくれないのだと知った。


『黒兎』は正真正銘、本当の警告をしてくれていたというわけだ。


 わたしは幻のなかで、幾度(いくど)となく殺された。痛みのなかで、確実に死を味わった。次の苦痛に(いた)るまでのインターバルである無感覚の空白は、最初にわたしが感じた通り、死の空間なのだろう。痛みが頂点に達し、絶命し、なにもかもリセットされる空白。思うに、グレガーは徹底したリアリストだ。痛みの果ての死さえも、可能な限り再現している。実際の死の正体は彼にも知りえないはずなのだけれど、少なくとも、幾度もの致死的痛苦を経験したわたしにとって、痛みと痛みの(あいだ)に挿入された無の時間は(まぎ)れもなく死だった。終わることなく続く痛みの連続に、いつしかわたしは空白を待ち望んでいたようにも思う。


 痛い。

 痛い。

 痛い!


 早く、あの空白を。

 死を、ください。


 何度かは、実際に口に出しさえした。いかに感情が落剝(らくはく)しようとも、痛みの感覚は所有している。むしろ、それが今のわたしにとってもっとも切実なものなのかもしれない。


 それでも、後退だけはしなかった。戻りさえすれば苦痛から逃れることが出来ると直感していたのに。


 やがて目にした荘厳な空間に、わたしは眩暈(めまい)を覚えた。種々雑多(しゅしゅざった)な小さな光の明滅する空間で、地面は苔に(おお)われている。中央には巨大な樹。森のなかの秘密の広間といった、そんな具合の場所である。わたしはこの空間を知っている。ずっと目指していた場所だ。


『聖樹宮』にたどり着いたのだという実感が、どうにも訪れてくれない。記憶のなかにあるその場所と少しも差異はないというのに、これもまたグレガーの幻術ではないかと疑う自分がいた。


 中央の大樹の前に、中性的な面立ちの男が(たたず)んでいた。


「まさか、本当に後退しないとは」


 男――グレガーは、(あき)れたような感心したような、曖昧な苦笑を浮かべた。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だったとされる男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。ゾラの記憶する限り、グレガーはかつて騎士団の頂点に座していた。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて


・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて


・『黒兎(くろうさぎ)』→ハルキゲニアの元騎士。ナイフを複製する魔具『魔力写刀(スプリッター)』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて


・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて


・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』


・『聖樹宮(せいじゅきゅう)』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて

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