109.「人生二度目の失態と進むべき道」
部屋はすっかり闇に包まれていた。昼食の席で深紅の液体を飲み干したところまでは覚えているが、それから先のこととなるとさっぱり思い出せない。口にはアルコールの残り香。頭の中では小人が鐘を打っているような不快な痛みが続いている。
お酒を口にしたのは人生二度目だった。一度目は魔具訓練校卒業の晩。宿舎生活も最後という理由でニコルと一緒に調理場に忍び込んで琥珀色の酒を盗んできたのだった。そのときも、彼と乾杯したところで記憶が途切れている。一方で、翌朝ニコルが苦笑交じりに告げた言葉はよく覚えていた。「クロエはお酒を飲まないほうがいい」
結局なにがあったのかは教えてくれなかったが、騎士となって禁欲を自身に課してから今日に至るまでひと口も飲まなかった。酒には近寄らず、それらしい席にも参加しない。それが徒となったのか、深紅の液体が酒類であることに気付けなかった。
我ながら情けない。
ベッドで頭を抱えていると遠慮がちなノックが響いた。
「うぅ……どうぞ」
なんとか声を搾り出すと、そっと扉が開かれた。そしてわたしの様子を見たのか、トラスが大股で歩み寄ってきた。
「おい、大丈夫か? 水飲むか?」
トラスが差し出した水筒を受け取り、喉を鳴らして飲み干した。
ああ、生き返る。
深呼吸を繰り返すと、いくらか気が晴れた。「ありがとう」
トラスは豪快に笑った。頭に響くからやめてほしい。
「いいってことよ。具合はどうだ?」
「見ての通り、最悪よ」
「まあ、酔うとそうなる。クロエは随分と酒には弱いんだな。……しかし、猫の真似は面白かったぞ!」
猫の真似?
ああ、最悪だ。失った記憶は、わたしの自尊心をぼろぼろにしていく。がっくりと肩を落とした。
「……詳しくは聞きたくないわ。頼むから忘れて頂戴」
「お、おう。……確かに、随分と陽気だったもんなあ。クロエは酒を飲まないほうがいいかもしれねえな。俺は面白かったが」
がはは、とトラスは能天気に笑う。酒に関して注意されたのも、これで二回目になる。いよいよ細心の注意が必要だ。
「それで、あなたは心配して様子を見に来てくれたわけ?」
「おうよ! 喉を詰まらせて死なれたら困るからな」
そんな間抜けなこと……と思ったが自分でも丸っきり説得力を感じない。
少し気を取り直す必要がある。
「ところで、レオネルさんとドレンテさんは寝ているかしら?」
トラスは首を横に振ってニヤリと笑った。「あの人たちは夜更かしなんだ。作戦会議ってやつだろうよ」
「レジスタンスって随分と熱心なのね」
「未来の生活がかかってるからな!」
未来の生活か。今の防御システムが女王たちにしか維持出来ないものであれば、彼らの文化はいくらか後退するのではないだろうか。
「トラスもレジスタンスなんでしょ? どうして革命を起こそうと思ったのかしら?」
「ああ、そりゃあ……」と彼は言い淀んで、言葉を探すように目を泳がせた。「難しいことは分からねえけど、俺はこっちが正しいと思うんだ。それだけだ」
それから暫く話してから彼と別れ、ひとり階下に降りた。
トラスの考えに論理的な道筋はないように思えたが、それを否定する気にはならなかった。単純で能天気な奴のほうが真理に近付く――とまでは思わないが、彼くらい実直な男の直観は案外侮れない。
しかしながら、レジスタンスに協力する気など毛頭なかった。
昼間訪れた部屋の前に立つと、午餐の失態を想って気分が暗くなった。それでも二人に、改めて話すべきことがある。ため息交じりに扉をノックすると「どうぞ」と聞こえた。
室内にはレオネルとドレンテがソファを挟んで座っていた。
「これはこれは、クロエさん。どうぞおかけになってください」そう言ってドレンテは杖を器用に操り、レオネルの隣に席を移った。
やや温まったソファに座り、まず頭を下げた。「昼間は失礼があったように思います。情けないことに覚えていませんが……すみませんでした」
直後、レオネルの間延びした笑いと、ドレンテの柔らかな笑いが部屋に満ちた。
「いやはや愉快でした。張り詰めた空気も一気に和みましたなあ、ドレンテ」と老魔術師は隣にニヤリと笑いかけた。
ドレンテは口元を押さえてくすくす笑いながら「ええ、実に。まるで酒席のような賑わいになりましたよ。いや、失敬失敬」と言う。
耳が熱い。
わたしだけが自分の失態を知らない……なんともアンフェアなことだったが、あえて知りたいとは思わなかった。これ以上自尊心を揺さぶられるのはごめんだ。
こほん、と咳払いひとつ。「愉快な時間をお過ごし頂けたならなによりですが、忘れてほしいところです。……さて、真面目な話をしに来ました」
「……革命に関することですかな?」とレオネルは微笑を湛えて返した。
「ええ、その通りです。昼間は話が途中になってしまいましたが、わたしはあなたたちに手を貸すことは出来ません」
今度はドレンテが口を開いた。「君の目的のために?」
頷くと、ドレンテはばつの悪そうな顔をした。
「グレキランス方面へ行くには海峡を越える必要があります。無論、ヨハンを助けてくれた礼がありますから我々も協力したい。船着き場には放置された船が何隻かありますから、整備をすれば使えるでしょう。……しかし、その先はどうするのです? 『鏡の森』は踏み入れたら最後、二度と出ることの出来ないと言われる危険な場所です。加えて、森の先では岩山が行く手を阻んでいます。どうしたってグレキランスへは辿り着けませんよ」
ドレンテの言葉に偽りは見出せなかった。危険視される『鏡の森』とやらを越えたとしても、岩山を突破する手段がなければ意味がない。
ただ、ひとつだけアテがあった。それを口にする前に確かめておくべきことがある。
「難しい道のりなのは理解しています。けれど、行くしかないんです。その理由は昼間に説明した通り……とはいえ、ひとつだけ気になっていることがあります。これだけはどうしてもはっきりさせておきたいんです」
「どうぞ、仰ってください」とドレンテは先を促した。
わたしは頷いて、二人を交互に見つめた。「もし革命が成功したとして、『アカデミー』にいる子供たちはどうするつもりですか? それと、『アカデミー』が巻き込まれるような方法を取りはしないでしょうか?」
それだけが引っかかっていた。ノックスと、生贄少女シェリー。彼らの幸せに影を落とすようなら、わたしは逆の立場を表明しなければならない。そして容赦なく革命の火種を消す。
レオネルは長く息を吸って、遠くを見るような眼差しをした。「儂らが子供たちに危害を及ぼすことはありません。ただ……」
「ただ?」
「『アカデミー』は女王の膝元。息がかかった場所ゆえ、『アカデミー』としての在り方は変わるでしょう。しかし、血や涙が流れることはしません。約束しましょう」
在り方が変わるとは、つまり、女王が実施している魔術師養成そのものを破棄するのだろうか。すると、彼らは中途半端に放り出されることになりはしないだろうか。
その旨を言葉にすると、レオネルは確固たる様子で首を横に振った。「必要ならば育成は儂が担いましょう。『アカデミー』には及ばぬかもしれんが……」
「本当ですか?」
「無論です。誓いましょう」
レオネルの言葉に濁りはなかった。本心からそう考えているような率直さが滲み出ている。しかし、魔術師は油断ならない。人の隙に付け込んで騙すような男をひとり知っている。
だとしたら、どうすべきだろう。却って彼らの革命に手を貸して、魔術師育成とやらが正常に動き出すのを確認してから王都へ旅立つべきだろうか。いや、それでは遅過ぎる。
暫し沈黙して考えたが、上手くまとまらない。
トラス――不意に彼の名が閃いた。単純な男だが、彼なら不正の臭いを嗅ぎ取れば黙っていないだろう。それにヨハンもいる。彼がノックスとシェリーの味方をするかは分からなかったが、少なくとも旅路をともに歩んだ間柄だ。悪いようにはしないだろう。
全てが希望的観測でしかないことは理解している。しかしながら、手放さなければならない物事は必ずあるのだ。
「……分かりました、信じます。これでようやく安心してグレキランスへ行けそうです」
ドレンテは遮るように言葉を発した。「しかし、『鏡の森』と岩山をどう抜けるのです? どちらも簡単な道ではありません」
「そうでしょうね。けれど、そこを突破した人間が存在します」
わたしの言葉に、ドレンテは目付きを鋭くした。レオネルも黙してこちらを見つめている。二人とも気付いているのだ。
五年前、『鏡の森』を抜けた先で保護された二人の人間がいる。防御壁を造った青年と、ハルキゲニアの支配者たる女王。
二人は『最果て』側に住んでいた人間ではない、と手記には語られていた。ならば、出自はひとつだ。
王都グレキランス。二人はそこからの追放者である。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『手記』→ハルキゲニアの変遷について書かれたもの。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『アカデミー』→魔術師養成機関。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて
・『生贄少女シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。詳しくは『94.「灰色の片翼」』にて




