958.「白と黒」
『岩蜘蛛の巣』への入り口は、わたしの知る限り一か所だけ。峻厳な岩山を危険を冒して越えるという手段を取らない限りは、森から洞窟へと入らねばならない。前者は、複数人で決行するにはあまりにリスクが大きい。ゆえに後者が自然な道のりになるのだが、洞窟の入り口にそれらしい靴跡はなかった。
つまり、ロジェールたちは依然として『鏡の森』の内部にいる。
「迷ってるんでしょうかねぇ」とヨハンがわざとらしくのんびりした口調で言う。
「多分、そうね」
そうじゃないことは、きっとヨハンも承知していることだろう。
大人数が森に分け入り、何日もうろつく。そんな状況を無視するだろうか、この森の主は。全員でなくとも、そのうちの何人かはきっと招くに違いない。居城である『聖樹宮』へと。そして事の次第をたずねる。お前たちはどうして集団で森をさまよっているのだ。返る言葉は王都の危機だ。戦争だ。助力を要請した者――つまりわたしの名前も出るだろう。
「こんな森なら迷うのも当たり前っすね。俺、ひとりきりにされたら飢え死にする自信あるっす」でも、とスピネルは続けた。「迷ってるだけなら見つけてあげれば済むっすね。姉さんも兄さんも森の正しい道を知ってるんすよね?」
「ええ、もちろん」
「なら安心っす。早いとこ見つけてやりましょう!」
スピネルの言葉が耳元を滑っていく。
当初、彼は『岩蜘蛛の巣』の入り口付近に置いていく予定だった。森の中で竜人の巨体は役に立たないどころか機動力の面で妨げになる。
わたしが置き去りを命じると、スピネルは露骨に怯えた。見知らぬ土地でひとりぼっちにしないでくれと涙ながらに訴えたのである。邪魔はしないとも約束した。
わたしとしては彼の哀訴を受け入れるつもりなど微塵もなかったのだが――。
「いやぁ、スピネルさんのおかげで助かります。歩かなくて済みますから」
「そう言ってもらえて嬉しいっす」
振り返ると、四つ這いになって進むスピネルの背で、ヨハンが胡坐をかいていた。
スピネルを同行させると言い出したのはヨハンで、歩く体力が勿体ないとの理由である。どうせ嘘だ。彼はスピネルに同情して、一緒に連れていけるよう無理に理屈を作り上げただけだろう。連れていくだの連れていかないだの、押し問答をすること自体に大いなる無駄を感じたわたしは、『好きになさい』という結論を投げたのである。
てっきり数歩で森の主――グレガーからのコンタクトがあると思ったのだが……かれこれ十数分歩いているがなにもない。まさか、わたしたちの侵入に気付いていないことはないだろう。
「なんすか、このキノコ」
「ああ、それは『爆弾胞子』ですね。危ないので触ら――」
ボン、と後ろで音がする。やや遅れてスピネルの笑い交じりの悲鳴も聞こえた。
「マジ、ビビった。うわぁ、変な植物があるんすね!」
「大丈夫ですか、スピネルさん」
「平気っす。そんなヤワな肌してないっすから。いや、でも、ちょっと面白いっすねこのキノコ」
またぞろ破裂音がする。スピネルがはしゃぐ。
「こらこら、あまり遊ばないでくださいよ」
「この衝撃具合が、なんつーか、痛気持ちいいんすよ」
永遠にそうやって遊んでいればいいと思う。出し抜けに走ったら、後ろの迂闊な連中を振り切れることだろう。まあ、しないけど。
この小規模な騒ぎも、グレガーは認知しているはずだ。なのに一向に変化がない。風に吹かれて木々が頭上でざわついたり、夜行性の動物たちが藪に分け入る乾いた音がしている。地虫の鳴き声も。それら全部、森の常態だ。どこにも異常はない。
「そこの蔦なんですが、踏まな――」
「うへっ! めちゃ引っ張られるっす! なんすかコレ!」
「『足取り蔦』と言って、近くにある本体に獲物を引きずり込んで養分にするんですよ。地面に蔦を垂らしているのはそのためです」
「あ、ちぎれた。俺のほうが強いっすね!」
「まあ、竜人ほどの獲物は想定してないでしょうからね……」
好きにすればいいと伝えた以上、彼らがなにをしてもどんな目に遭っても知ったことではない。いちいち振り返ったり、足を止めたりすることはしなかった。
やがて、ピン、と肌を刺すような感覚を得た。
二百メートル以上先だが、魔物の気配がする。おそらくはグールだ。
時間を経るごとに魔物は増えていくだろう。そうなれば森のなかを進むのも多少は面倒になる。とりわけ後ろの足手まといを連れたままでは。
「グレガー!」
わたしの声が、森の静寂に吸い込まれていく。
「え、なんすか姉さん。いきなり。なんかの合図っすか?」
「スピネルさん、少し黙っていてください。クロエお嬢さんは虫の居所が悪いようです。あまり邪魔すると見放されますよ?」
別に不機嫌ではない。というか、今のわたしに不機嫌など感じようがない。そしてスピネルを見放すということもない。ただ、ヨハンが彼を黙らせなければわたしから脅しをかけていたのは事実だ。
息を吸い、先ほどよりも大きく呼びかける。
「グレガー!! さっさと出てきなさい! でないと森を焼く!」
サーベルを抜き、刀身を前方にまっすぐ掲げる。銀色の刃はすぐに、赤々と揺らめく火炎をまとった。
この炎はオッフェンバックの魔術由来のものだ。つまり、物体を燃やす力はない。とはいえ、どこかでわたしの声を聴き姿を見ているのなら、ぎょっとはしてくれるだろう。それでも無反応を貫くのであれば、本当に燃やす。わたしの布袋にもヨハンの鞄にも、マッチくらいはあるのだ。焚火から徐々に炎を広げていけばいい。
「うぇ!?」
スピネルが仰天の声を上げる。
わたしたちの立っている獣道が徐々に様相を変えていったのだ。一陣の風とともに木々が道を開け、地面からもこもこした苔が生える。樹木の質感が滑らかになり、サイズも巨木へと変化していく。そうしてあちこちに光の粒が生まれた。
この道には見覚えがある。以前バンシーに導かれた『聖樹宮』への道だ。しかし、今回は出迎えがない。てっきりバンシーたちがわらわらと寄ってきてあれこれ声をかけてくるかと思っていたのだが。
出来ることならわたしたちを無視しておきたい。そんな意思が感じられる。
巨木の作り出した緑のアーチの下へと、足を踏み出す。三歩ほど進んだ時点で、背後の異変に気が付いた。振り返ると、どこにもヨハンとスピネルの姿がない。行く先と同じく、巨木に挟まれた森の大通りが続いているだけ。
手のひらに、痛みだけを与える刃を突き立てた。
……痛覚は確かに存在している。感覚には異常がない。森に変化が生じる前後で、わたし自身の肉体や精神になにか起こった様子もなかった。前回この場所を訪れたときには、わたしは肉体ではなく精神体にされていた。徐々に、時間をかけて魔術を使われた結果の乖離状態だ。今回はそうではない。つまり、ここにいるわたしは現実の肉体を所持しているはず。
「グレガー。なんの真似? 姿を見せなさい」
わたしだけを分断する意図は、考えるまでもなく、彼の警戒心の表れだ。
不意に、小さな物体が飛んでくるのを耳が捉えた。道の左側の木々――その暗がりからである。
手を伸ばし、指の隙間でそれを捕まえる。
わたしが指でキャッチしたそれは、一本のナイフだった。
「なんの真似かって? こっちの台詞だよ、オネーサン。なんでここに来たのさ?」
そう言って暗がりから現れたのは、黒のズボンに白のシャツ、そして光沢のあるベストを身に着け、襟を大きめのブローチで留めた少年だった。
「……邪魔」
道の右側から、別の声がした。消え入りそうな声量なのに、不思議と耳に残る声。見ると、やたらにフリルのついた純白のドレスを身にまとった少女がいた。
かつてハルキゲニアで敵としてわたしたちの前に立ちはだかった双子――『白兎』と『黒兎』だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『オッフェンバック』→純白の毛を持つタテガミ族の獣人。『緋色の月』に所属。自称音楽家の芸術至上主義者で、刺激を得るという動機でハックの和平交渉を台無しにした。クロエとの戦闘に敗北し、あわや絶命というところを彼女に救われた。それがきっかけとなって『灰銀の太陽』への協力を申し出ている。詳細は『774.「芸術はワンダー哉!」』『780.「君が守ったのは」』にて
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。勇者一行であるゾラとの面識あり。詳しくは『205.「目覚めと不死」』『868.「若年獣人の長き旅⑥ ~奪取~」』にて
・『白兎』→ハルキゲニアの元騎士。魔術師。本名はルカ。ハルとミイナによって撃破された。現在は『黒兎』とともにハルキゲニアの夜間防衛をしている。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』『164.「ふりふり」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』『幕間.「それからの奇蹟~ある日のハルキゲニア~」』にて
・『黒兎』→ハルキゲニアの元騎士。ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『足取り蔦』→肉食の植物。地面に蔦を垂らし、それに触れた動物を絡め取る。本体は壺状になっており、溶解液に満たされている。獲物をそこに放り込んで栄養を得る。『鏡の森』に生息。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『聖樹宮』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。実は最果てと王都近辺を繋いでいる。中には小人の住処も存在する。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて




