957.「森を目指して」
目を凝らせば、雲の隙間から地上の様子が見えた。街道を行く馬車が豆粒よりも小さい。
茜色に染まりゆく地上を見下ろしながら、今日が晴れでよかったと思った。曇りや雨なら、もっと高度を下げて飛ばなければならない。そうなると、上空のわたしたちが発見される可能性は必然的に高くなる。
「方角はこっちでいいんすか?」
「ええ。真っ直ぐ飛んで頂戴。修正が必要なら声をかけるわ」
「うっす」
「夜通し飛ぶことになるけど、疲れたら言ってね」
「あざっす」
スピネルは弾けるような笑顔だった。わたしが心配してやると、彼は決まってこの表情になる。そして速度も少しばかり上がる。こんなにも扱いやすい竜人がいてくれて助かった。
「順調ですな。日暮れ前には王都を過ぎて、魔物が出現する前には『鏡の森』です」
わたしと同じく、スピネルの片腕に抱えられたヨハンが言った。
竜人という絶好の移動手段を得たわたしは、今しもヨハンが口にした森へと向かっている。すべては戦力拡充のためだ。
血族が『毒色原野』を越えてグレキランス地方へと侵入するまで、もうあまり時間は残されていない。得るべきは即戦力で、わたしが直接説得すべき相手は少ない。その両方を満たす相手が、『鏡の森』の主だ。
が、森を目指す理由はそれだけではない。空の旅へと繰り出す前のヨハンの言葉が、耳の奥に蘇る。
『ロジェールさんから最後に進捗報告があったのは、一昨日の朝です』
ヨハンは『漆黒の小箱』でロジェールとコンタクトを試みたらしい。
気球職人ロジェールによる『最果て』――ハルキゲニア地方での戦力拡充は順調に進んでいるらしい。かなり早い段階で動いていたようで、『最果て』の町々から人員を集め、いよいよグレキランスへ向かっているところなのだそうだ。気球で運べる人数を遥かに超えているため、地道に移動した末に、『鏡の森』までは到達したらしい。そこから『岩蜘蛛の巣』を越えるべく、『共益紙』経由で小人たちに案内を依頼していたヨハンは手回しがいい。
が、まだ『岩蜘蛛の巣』にロジェールたちは姿を見せていないとの話だ。それを信じるなら、二日以上経過しているというのにまだ森をうろついていることになる。大人数での行軍であっても、さすがに二日はかからないはずだ。さらに、一昨日の朝を最後に、ロジェールと連絡を取ろうとしても通じないとのことである。つまりなにかしらのトラブルが生じていると考えるのが妥当だ。
「カエルくんが集めた戦力を使えればいいのですが」
ヨハンの呟きが風に紛れる。
ハルキゲニアに到着したロジェールは、おおむね好意的に迎えられたらしい。わたしの名前を出したらすんなりいったと、ヨハンはニヤニヤ笑いを浮かべていたっけ。戦力集めに要する時間は、ケロくんの交信魔術で大幅に節約出来たらしい。『最果て』全土に今回の戦争の話を伝達し、期限を定めてハルキゲニアへと収集したわけだ。攻撃能力はさっぱりだが、こと交信魔術においては優秀な魔術師だと思う。
王都への協力を申し出てくれた人々のなかには、ケロくんのほかにも、わたしと面識のある者もいるらしい。今みたいに何事も無駄かどうかで判断するようになる前だったら、ヨハンに根ほり葉ほり聞いたことだろう。そしてやたらと昔懐かしい気分に浸ったに違いない。
「皆さんが無事ならいいのですが」
「ええ、そうね。心配」
死んでいようと生きていようとそれは結果でしかない。何十キロも離れた場所で起こった悲劇に共感して嘆いたり、あるいは無暗に悔しがったり、そういうのはまったく空疎だ。ポーズだ。感情の愛撫だ。
わたしは、以前のわたし自身の行いや思考を、冷ややかに見つめている。いつまでもテレジアを殺害した事実に拘泥し、そこに重大な意味があるとまで考えていた自分。事実は事実でしかなく、一切は完了している。そこになんらかの意味を付け加えるのは常に第三者だ。よしんば当事者であっても、追憶のなかで新たな意義を得た気になってしまえば、それはもう記憶の濫用だ。
乾いた笑いが後方に流れていく。ヨハンは、わたしがいかなる物事をも『心配』していないことを知っている。
『岩蜘蛛の巣』を眼下に見送ったのは、夜が更けてからである。魔物の時間に入る寸前といったところだろう。馬での移動でも数日を要する道のりを半日で済ませたのだから、竜人がいてくれてよかったと思う。
「あれが『鏡の森』っすね?」
「ええ。岩山沿いに降下して」
「了解っす」
「ここまでご苦労様。疲れたわよね?」
スピネルの首筋を撫でてやる。なにが気持ちいいのか知らないが、彼は身体をさすられるのが好きらしい。特に首筋は反応が顕著だった。
「まあ、そっすね。でも全然平気っす。竜人っすから」
「立派な従者ね。誇らしいわ」
へへへ、と照れ臭そうな笑いが聞こえた。
サフィーロはじめ多くの竜人と違って、彼は尊敬されることよりも、こうして目上の存在から労われるほうが嬉しいらしい。竜人にも色々いるということだ。考えてみれば、もともとは人間なのだから自然なことである。
「相変わらずロジェールさんはだんまりです」
『漆黒の小箱』を握ったまま、ヨハンは首を横に振った。
『共益紙』にも、『最果て』の勢力が『岩蜘蛛の巣』に到達した旨の報告はない。つまり、トラブルは依然として引き続いている。
「少し揺れますんで、しっかりしがみついてくださいっす」
重たい衝撃が全身に伝播する。彼が降り立った場所は、岩山に空いた洞窟――『岩蜘蛛の巣』の入り口だった。
「ありがとう。ここからは徒歩だから、楽に歩いて頂戴」
「うっす」
岩山の反対側には、一本の獣道が続いていた。その左右には鬱蒼とした木々。空中から見た印象通り、『鏡の森』はほとんど隙間なく樹木の緑に埋め尽くされている。
森へと歩き出したわたしを、ヨハンの声が追いかける。
「お嬢さん、アタリはついてるんですか?」
「必要ないわ。森を歩いていればあっちから仕掛けてくる」
何体ものバンシーに囲まれた、疑似的な不死者の顔を想う。そして彼の居城――『聖樹宮』の様相も、脳裏に浮かべた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『ロジェール』→キュラス付近の山岳地帯にひとりで住む青年。空を飛ぶことに憧れを抱き、気球を完成させた。テレジアの幼馴染であり、元々はキュラスの住民。『救世隊』の一員だった。詳しくは『298.「夢の浮力で」』『347.「収穫時」』『349.「生まれたての太陽の下に」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。魔王の血を受けており、死後、『黒の血族』として第二の生命を得たが、クロエに討伐された。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『漆黒の小箱』→ヨハンの所有物。交信用の魔道具。箱同士がペアになっており、握ることで交信が可能。初出『69.「漆黒の小箱と手紙」』
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『魔樹』→魔力の宿った樹。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『小人』→人間とは別の存在。背が低く、ずんぐりとした体形が特徴。その性質は謎に包まれているものの、独自の文化を持つと語られている。特に小人の綴った『小人文字』はその筆頭。『岩蜘蛛の巣』の小人たちは、人間を嫌っている様子を見せた。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『聖樹宮』→『鏡の森』の中心にある領域。詳しくは『202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」』にて
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。実は最果てと王都近辺を繋いでいる。中には小人の住処も存在する。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『グレキランス』→通称『王都』。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて