950.「失意の証明」
『霊山』内の医務室は、さして大きくない。巨大なハスの葉そっくりのベッドが八基あって、半透明の薄い布で診察室と区切られている。診察室の外は待合室を兼ねた広場になっていて、各区画へと繋がる通路がいくつか空いていた。
記憶を頼りにたどり着いた医務室は、以前となにひとつ変わっていない。
診察室のドアを開けると――。
「怪我してないなら帰っとくれ。何度も言っとるがお前さんがたの身体はどこも悪くない。そのうち痛みも引く。お大事に」
と早口の声が飛んできた。
背もたれのない椅子に腰かけた、茶色の鱗の竜人。彼は、こちらを一瞥もしない。手元の書類になにやら忙しなく書きつけている。
おそらく、広場にいる連中と間違われたのだろう。決闘に参加した多くの竜人は、わたしの『痛みだけを与える刃』に焼かれて倒れた。もう痛みも引いているだろうに、我が身を案じる何人もの竜人たちが医務室を訪ねたに違いない。彼らの対応に追われるうちに、この医師らしき老いた竜人の返事も、決まりきったものへと移っていったのだろう。
「アダマスとサフィーロは居る?」
わたしの声に、彼はぎょっと顔を上げた。眼鏡の位置を直し、目を細め、椅子から身を乗り出す。
「あんた、なにしに来た。今は宴の最中だろうに」
「興味ないから抜け出してきたの。で、アダマスとサフィーロは?」
緑色をした半透明の布を見ながらたずねる。ここからでは奥の部屋に誰がいるのか分からない。けれども、動く影はあった。
「奥におられる。見舞いか?」
「ええ」
「とにかく」
よっこいせ、と医師は棚の隣に置いた椅子を持ち出し、先ほどまで自分の腰かけていた椅子から二メートルほど離して置いた。そうして、こちらを見ながらパンパンと座面を二度叩く。
「座りなさい」
「どうして?」
「いいから、座りなさい」
断ったら押し問答に発展しそうな気配があった。ある種の要求は応じたほうが時短になる。今の医師の言葉は、経験上そのケースに当てはまっていた。
両腕で身体を持ち上げるようにして椅子に腰かけると、足が浮いた。竜人の足は全長との比率で言えば短いが、人間や血族のそれと比較すれば、無論長い。竜人のための椅子は、立っているよりも却って落ち着かなかった。
「どこか痛むところはあるか?」
「いいえ」
「頭痛もないか?」
「ない」
「口を開けて」
「ふん……特に異常なし。前にも増しておかしなことになっとるな、お前さん」
そういえば以前『霊山』でサフィーロと決闘したあと、わたしはハスの葉のベッドで目を覚ましたのだ。気絶していたから分からないが、そのときもこの医者が看てくれたのだろう。サフィーロに比べて、わたしの傷の治りが異様に早かったことも知っているわけだ。
以前よりもずっと自分の治癒力が増加していることは、わざわざ指摘されるまでもなく自覚している。自分の成り立ちを知ったからだろう。おそらく。自分のなかにずっとストッパーのようなものがあって、それが外れたからこそ今の治癒力があるとしか考えられない。
「もういい?」
「しばらく安静にすべき……と言いたいが、快癒しておるようだな。問題なかろう」
「それで、アダマスとサフィーロは?」
医師は顎で半透明の布を示した。そっちの部屋にいるということだろう。
椅子から降りると同時に、医師はわたしの耳元に顔を寄せた。
「アダマス様は全治一ヶ月だ。戦に連れていくのは――」
「それを決めるのはあなたじゃないわ」
さらに何事か言いかけた医師の横を擦り抜けて、奥の部屋へと足を踏み入れた。
待合室に寝転んでいる竜人は多かったのに、室内には三体しかいない。そしてベッドを使っているのは赤い鱗の竜人――最初にわたしが鱗を叩き割ったやつ――と、全身にべたべたと緑の葉っぱを貼られたアダマスだけだった。
身じろぎしないアダマスの横で、サフィーロが顔を上げる。彼の視線には、明確な敵意があった。そこに少しの戸惑いが含まれているように見えたのは錯覚ではない。
「なにをしに来た」
サフィーロが押し殺した声で言った。
アダマスの胸は規則的に上下しており、眠っているか、あるいはまだ意識を取り戻していないのだろう。赤い鱗の竜人は、わたしが姿を見せてすぐに、寝返りを打って背中を向けてしまった。嫌われるのも煙たがられるのも別にかまわない。必要な仕事さえしてくれればそれで満足だ。
「今後の話をしに来たのよ」
「後にしろ。見ての通りアダマス様は意識を取り戻していない。私が看ておく責任がある」
最後の最後、彼を気絶させたのはサフィーロだ。アダマスとわたしの間に割って入り、すべてを終わらせてしまったのである。もちろん、そんなこと今となってはどうでもよかった。
「明日の朝までに、戦争に参加する竜人を選んで、審判の広間に集めて頂戴。とりあえず『霊山』にいる竜人の半数でいいわ。ところで、戦場ではあなたが竜人のリーダーになるのは察してるわよね?」
本来なら竜人の指揮をとるのはアダマスが適任だったが、今は望めない。となるとサフィーロが繰り上げでリーダーとなるべきだ。決闘の場での振る舞いを考えると到底適格とは思えないけど、ほかにマシな人材がいないことも分かっている。
「貴様……自分の発言がいかに滅茶苦茶か理解しているのか? 我々には決闘の疲れを癒やす時間が必要だ。それに全体の半分など、横暴でしかない」
「半数はあくまで目安よ。戦場に立つだけの実力を持ったメンバーを揃えてくれれば、半分より多くても少なくてもかまわない。あと、休息なら出征先でとればいい」
サフィーロは射殺すような目付きを見せた。が、それも一瞬で消え、苦悶の表情を浮かべる。
「メンバーの選定は承知したが、休息については合意できん。士気に影響する」
「士気を上げるのはあなたの役目よ。それに、休息が必要になるような戦い方はしなかったわ。今ベッドに横たわってる二人を除いて、外傷のある竜人は誰もいない」
そのために『痛みだけを与える刃』を選んだのだ。その意味をサフィーロも察していると思ったけど。
それからしばし、彼は黙ってこちらを見つめていた。表情は険しいままだが、苦痛や煩悶は前面に出ていない。
やがて彼は、腰に下げた小さな袋に手を突っ込んだ。
引き抜かれた指先に、深紅の布切れが踊る。
「クロエ」そう言って彼は、手のなかの布切れに視線を落とす。空虚な瞳だった。「私は、他者の人格についてどうこう言うつもりはない。誰がどのような想いを抱えていようと、私の行動には一切無関係だからな。だが、貴様は、今のような性格だったか? 種族の巣に足を踏み入れ、儀式を破壊して平然と我を通すような女だったか?」
言葉を切り、サフィーロは首を横に振った。そして、手にした布切れを爪で裂いていく。深紅の破片の一部がアダマスの身体を覆う薬草に付着したが、気にする素振りは見せなかった。
「なんでもない。忘れてくれ。……貴様の要求は承知した。敗者である私は、任じられた責務をまっとうしよう」
「それじゃ、明日の朝に」
そう言い残して医務室を出た。
通路を歩いている間、不意に、サフィーロの引き裂いた布の正体に気付いたけれど、だからといって足が止まることはなかった。わたしが結んだリボンがゴミになったからといって、それがなんなのだろう。彼の行為が失意の表れだとして、それがどうしたというのだろう。
サフィーロは与えられた任務を遂行する。威信に賭けて。彼はそういう性格だ。もし不充分な仕事しかできないのなら、そのときは別の者をリーダーにすればいいだけの話。
わたしと彼との結びつきに、信頼は必要ない。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アダマス』→竜人の族長。透明度の高い鱗を持つ。厳格な性格。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて




