945.「疾風迅雷」
何人の部下がわたしに打ち倒されようと、アダマスは前線に出ることはなかった。あくまでも指揮官としての態度を貫く意味合いもあったのだろうけど、今となってはそれ以上に、彼自身の戦闘方法こそがもっとも大きな理由だったのではないかと思える。
彼の攻撃は、味方にも被害を及ぼしかねない代物なのだ。
アダマスの突進は異常な速度でわたしを襲った。視認出来る速さではない。彼の接近速度を肌で感じ、その動きに合わせ、刃で受け止めるようにして弾丸じみた突進をなんとか逸らしたのである。右腕に走った痛みは、突進の威力を鮮明に伝えていた。数十メートル離れていたにもかかわらず――そして初動を読み切ったにもかかわらず、回避が可能な速度ではなかった。
振り返ると、顔を歪めたサフィーロと息を呑む側近たちの間に、砂の轍が出来上がっていた。それは、客席と闘技場を隔てる垂直な壁に着地したアダマスへと続いている。
空中で身体の向きを変え、速度を制御し、足で壁を捉えたのだろう。
頭に浮かんだのは、子供の球遊びだった。王都の路地裏で、ゴム玉を壁にぶつけて遊んでいる男の子。ボールは壁にぶつかり、跳ね返って反対の壁にぶつかっていく。
わたしが最初の突進を弾いてから、まだ一秒も経っていない。けれど、この次になにが展開されるのか容易に理解出来た。
腰を落とし、切っ先をアダマスのほうへ向ける。それと同時に、二発目の突進が放たれた。
両手に持ち替えたサーベルで、再びアダマスの攻撃を逸らす。残像の方角に身体を向け、次の突進にも同じ対処を行う。その繰り返しのなかで、場内に溢れる様々な音が聴こえた。その多くは息を呑む微音や、鱗の擦れ合う音だった。なかには「う」とか「あ」とか、言葉としてかたちを結ばない嘆息の断片も含まれていた。
もしアダマスの突進が直撃したら、さすがにわたしも気絶するかもしれない。絶命する可能性だって充分にある。なんにせよ肉体は衝撃を吸収しきれず、内臓のいくつかはあえなく破裂するだろう。恢復可能な器官であればいいのだが、心臓が破裂すればわたしも死ぬはずだ。おそらく。
致命的な攻撃の繰り返しのなか、痛みが波のように寄せては引いていく。
現状、アダマスに有効なダメージを与えることは出来ていない。あくまでも対処だけだ。刃で受け止める鱗は硬く、まともに攻撃を仕掛けても傷ひとつつかないだろう。連撃による疲労蓄積を待つのも手段ではあるものの、わたしの腕がそれまでもってくれる保証はない。今のところ、肉体の恢復速度と衝撃とでは、わずかではあるが後者のほうが大きい。それに、少しでも刃の制御を間違えば腕にかかる負担は上昇し、そのぶんだけこちらが不利になる。
鱗の硬さなど無関係にダメージを与える手段はもっているけれど、それを使うわけにはいかない。サーベルに『痛みだけを与える炎』を付与した時点で、敵の攻撃を受け止めることは不可能になる。
だから刃を保ったまま、敵に対して有効な対抗措置を講じなければならない。答えはすでに――二撃目の時点で出ている。
「おい、なんか寒くねえか……?」
「ああ、そういえば……」
どこかで、そんな会話が聴こえた。
八度目の突進を逸らした際に、結晶が中空で煌めくのが見えた。一瞬のプリズムを裂いて、七色の鱗が闘技場の壁へと逸れていく。自分自身の吐く息が、白く視界を曇らせた。
「ぐっ!」
壁に着地したアダマスが、呻き声と同時に九度目の突進を仕掛けるのが見えた。その速度は、これまでの何倍も遅い。それでも常人の目から見れば、『目にも止まらぬ高速の突進』でしかなかっただろう。
サーベルを天へ掲げる。そして、わたしへと直進するアダマスの脳天に打ち下ろした。
自分自身の身体が跳ね上がり、凍結した砂が破片となって視界を舞う。
サーベルが記憶している魔術はオッフェンバックの炎ばかりではない。シンクレールの氷はずっと刃の奥底に眠っていて、意識すればいつでも展開出来る。突進を繰り返すアダマスの身体を徐々に凍結させていく程度のこと、造作もなかった。生物である以上は竜人も体内に相応の温度を有している。いかに雪山で生活をしようとも、だ。体温が極端に下がれば行動力は落ちる。道理だ。
脳天への一撃でアダマスが気絶してくれれば、ベストだった。しかし、そう簡単にはいかないらしい。
攻撃の反動で否応なく宙に投げ出されたわたしへ、竜人の手が伸びる。その鱗は冷えた空気のなか、七色の虹彩を放っていた。
サーベルに纏わせた氷を解除し、『痛みだけを与える炎』へとシフトさせる。そして、迫りくるアダマスの手を斬りつけた。
二十三回。一瞬でそれだけの斬撃を放った。つまりアダマスは二十三回ほど、指が、手の甲が、手首が、水かきが、切断される痛みを味わったわけだ。それでもわたしの踵を掴みおおせたのは、執念なのかなんなのか。わたしには分からない。
「小蠅め……捕まえたぞ」
視界が逆さになり、砂煙のなかに巨体が立ち上がった。
足首を持って、わたしを逆さ吊りにするアダマス。その手を斬りつける。が、離す気配はない。まるでわたしの足を掴んだかたちのまま凝固したかのようだった。
炎を解除し、純粋に、サーベルの持つ硬度で斬りつける。なかば予期していたが、金属質な音が響いたのみで、指先さえ切断することは出来なかった。
「鬱陶しい!!」
ぐん、と身体が上に引っ張られ、それから、急激に下降する。足首を中心に、わたしは布切れのように振り上げられ、そして地へ叩きつけられようとしているのだろう。耳元で唸る風や遠ざかる天井を見るまでもなく、自分の『今』は明確である。
後頭部と背中を主として、破壊的な痛みが体内を駆けた。視界に赤の飛沫が散る。わたしは我ながら異常な恢復力を持っているけれど、血を失ってもそれは健在なのだろうか。血の喪失を埋めるために通常必要となる休息や補給――すなわち睡眠や食事を必要としない身体において、失血はどの程度の影響をおよぼすのか。我が事ながら不透明だ。まだわたしは自分の肉体について知らない部分が多い。試せる範囲の物事さえ試していないツケを想い、決闘が終わったら可能な範囲で自分に出来ることと出来ないこと、肉体がカバー出来ることと出来ないことを試してみようと、そう思った。
『お嬢さん、死ぬ前に白旗を――』
ヨハンの声が耳元でしている。終わりまで響くことなく、音たちは肉体の二度目の上昇によって千切れていく。
彼の言葉は、不思議なほどわたしになにも齎さなかった。言っても言わなくてもいい、物事を一ミリも動かさない、『慰め』や『励まし』といった中身のない空虚なものだ。それでなんらかの結果が変わると――変わったと――思い込むような人間は、なにひとつ真実を見通せていない。あってもなくても変わらない言葉に、思考を費やす必要などこれっぽっちもないのだ。
再び後頭部と背中で痛みが破裂する。視界に白の光が爆ぜた。
その直後、耳にしたのは懐かしい笑い声である。
わたし自身の笑い声だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『オッフェンバック』→純白の毛を持つタテガミ族の獣人。『緋色の月』に所属。自称音楽家の芸術至上主義者で、刺激を得るという動機でハックの和平交渉を台無しにした。クロエとの戦闘に敗北し、あわや絶命というところを彼女に救われた。それがきっかけとなって『灰銀の太陽』への協力を申し出ている。詳細は『774.「芸術はワンダー哉!」』『780.「君が守ったのは」』にて
・『アダマス』→竜人の族長。透明度の高い鱗を持つ。厳格な性格。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて