943.「シンプル・イズ・ベスト」
『霊山』に入る前は、いくつかのプランを頭に描いていた。竜人のなかでも比較的人望の厚いアレクやサフィーロに話を通し、外堀りを埋めつつ最終的には現族長のアダマスの首を縦に振らせるとか。あるいはこちらへの協力を賭けて再びサフィーロに決闘を挑むとか。しかしながら冷静に考えて、いずれの方法も成功率は極めて低く思われた。わたしたちが提示出来る報酬は、王都との関連性のなかにしかない。人間との接触を拒絶する彼らにとってはなんの魅力もない代物だ。
だからこそ、アレクの口から次期族長を決める戦いの話が出たとき、これを使おうと決めたのだ。
わたしが族長になればいい。彼らの意思決定権を握ってしまえば、報酬はもちろん、交渉の必要性すら消えてなくなる。
闘技場を覆っていた静寂が破裂した。一斉に放たれた怒号が場内を埋め尽くす。
「何者だ貴様!」
「人間だ! 人間がいるぞ!」
「侵入者め!」
「神聖な決闘をよくも穢したな!」
脊髄反射的な罵倒がほとんどだったが、それらに埋もれるように「あいつ、サフィーロ様を破った人間だ……」という困惑混じりの声も耳に入った。周囲を見回すと、すぐそばの竜人たちはわたしの正体に気付いているらしく、顔を見合わせて囁き合う者が多い。怒号を飛ばしているのはもっぱら砂地の後方や観客席の竜人のようだった。
不意に、わたしを取り囲む竜人たちが道を開いた。右と左、それぞれの方角に。
二本の道から竜人が一体ずつ歩み出るのが見える。アダマスとサフィーロだった。二体は、わたしを挟んでちょうど対面するかたちで歩みを止める。
場内は水を打ったように静まり返った。
「サフィーロよ。これはどういうことだ?」
アダマスの声はこんな状況にあっても厳粛そのもので、焦りや混乱は見えない。表情も落ち着いてはいるものの、目付きだけは獰猛だった。
一方でサフィーロは全身に怒気を漲らせている。顔面は強張り、ちらとわたしを見下ろした視線は明らかに殺気立っていた。
「私はなにも知りません。この女がなぜ今ここにいるのか、どうしてこのような馬鹿げた真似をしているのか、一向に不明です」
噛み締めた奥歯から漏れてくるような、くぐもった声である。これまで何度か彼の激怒する様子を目にしたことはあるが、抑えきれない感情をギリギリで制御している姿を見たのはこれが最初かもしれない。即刻縊り殺してやりたいという想いが伝わってくる。
「お前が扇動したのではないのか」
「違います。あらぬ疑いをかけないでいただきたい」
「では何者が、こやつの侵入を許したというのだ」
「おおかた門番が仕事を放棄したのでしょう……極刑に処さねばなりません」
この静けさのなかなら、場内のどこにいても二体の声は届いているだろう。当然、スピネルも聞いているはずだ。闘技場から逃げ出してなければ。
スピネルがどうなろうと知ったことではない。が、竜人の総数を減らすのはこちらとしても望ましくなかった。戦争への協力者の頭数は多いに越したことはないのだから。
「侵入経路なんてどうでもいいわ」
口を挟むなと言わんばかりに、アダマスとサフィーロが同時にこちらを見下ろす。威嚇めいた視線だけれど、生憎なにも感じない。
「頼みがあってここまで来たの」
「黙れ小娘!!」
空気の震えが肌を伝う。サフィーロの唾が顔に飛び散った。
感情的になっているサフィーロを無視して、アダマスに顔を向ける。「保留になってた戦争参加の話、経過はどうなってるの?」
ルドベキアからの去り際、サフィーロを筆頭とする竜人たちは戦争参加を保留したのだ。『共益紙』に報告がない以上、結論は出ていないはずである。
「目下審議中だ」
「結論は次の族長に出してもらうってことね?」
サフィーロたちがルドベキアを去ってから、もう一週間以上経過している。とっくに結論が出ていてもおかしくない。にもかかわらず保留の態度を継続しているのは、次期族長決定後の最初の議題として扱おうという魂胆が見え透いている。
「そうだ」鬱陶しそうに呟いてから、アダマスは声を張り上げた。「誰かこの者を捕らえろ! 族長決定後に審判を執り行う!」
直後、真っ赤な鱗を持つ竜人がわたしへと飛びかかってきた。
呆れは、ない。竜人に限らず軽率な行動をする者はどこにだっているものだから。
「ぐぇっ!!」
短い悲鳴とともに、赤い鱗の竜人は観客席へと放物線を描いて吹き飛んだ。砕かれた鱗がキラキラと宙を彩る。
胸元をサーベルの柄で突いただけだ。死にはしないだろうけど、しばらく胸の痛みが抜けないかもしれない。いずれにせよ、彼は族長候補から脱落だ。そもそもアダマスに尻尾を振っている時点で頂点に立つ器じゃないけど。
「鐘はもう鳴ったでしょ。大人しく話をしてるけど、もう決闘ははじまってる。そういうルールじゃなかった? それとも、自分たちの決めた規則を破るの?」
ぎょっと目を見開いて赤い竜人の飛んだ方角に顔を向けたアダマスへと言い放つ。でも、彼だけを対象にした言葉ではない。闘技場のすべての竜人に対する宣言でもある。
「いい加減にしろ」サフィーロが覆いかぶさるように、わたしの前に立ちはだかった。「この場の規則は竜人のための規則だ。人間である貴様に適用されるはずがなかろう」
「さっきわたしの参戦を認めたのはあなたよ」
「それは貴様が正体を隠していたからだ!!」
サフィーロが拳を振り上げ、勢いよく振り下ろした。わたしの数センチ横の地面へと。直撃させるつもりがないと分かっていたので、避ける必要はなかった。そういうのは筋肉の動きで分かる。
「見抜けなかったのも、正体を確かめる前に決闘開始を促したのも、あなたの落ち度よ」
「小娘……貴様、どれだけこの決闘を侮辱すれば気が済むのだ……!」
場内の怒りは膨れ上がっている。意図したわけではないけど、わたしの言葉は随分と反感を買ったようだ。
そういうのは、本当にどうでもいい。こうして押し問答をするためにわざわざ決闘の場に立ったわけではないのだ。
「わたしの言い分が気に食わないなら、力で捻じ伏せればいいじゃない。全員でかかってくればいいわ。ただし、最後まで立っていた者が次の族長ってことは忘れないでおいて」
「貴様、まさか」
ようやくサフィーロはわたしの意図に気が付いたらしい。怒気溢れる表情のなかに一瞬、呆れと驚愕が広がった。
「そうよ」アダマスを一瞥する。彼は周囲の竜人になにやら耳打ちしていた。サフィーロと違って、彼は冷静に状況を見ているらしい。なんとしてでもわたしを勝たせまいと画策している様子だった。「わたしが族長になって、あなたたち竜人に戦争参加を命令するわ」
どこまでもシンプルな話だ。
わたしが勝てば戦争参加。倒せれば竜人は竜人たちの意思をまっとう出来る。わたしを処刑するのも自由。
またしても、すぐそばに拳が打ち込まれた。先ほどよりも深く。膝を落とし、項垂れるようにして。サフィーロの頭がわたしの耳のすぐそばにあった。
「死ぬぞ、クロエ。全員を相手にするなどやめておけ」
彼の囁きには、先ほどの燃え上がるような怒りは少しも含まれていないようだった。こちらの身を案じている雰囲気さえある。それが彼の計算なのかは知らないし、だとしても、どうでもいい。
無言で刃をかまえると、サフィーロがサッと身を引いた。その顔には最前の怒りが蘇っていた。
「サフィーロよ、分かっているな。全員で協調してあの者を始末するぞ」
アダマスの言葉に、蒼の鱗が短く頷くのが見えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アダマス』→竜人の族長。透明度の高い鱗を持つ。厳格な性格。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『アレク』→青みを帯びた緑の鱗を持つ竜人。興奮すると鱗の色が変化する。サフィーロ同様、次期族長候補であり派閥を形成している。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて