942.「決闘の鐘の音」
「勘弁してくださいよ、マジで。えげつないっすよ、ホント」
なんてことをぶつぶつ言いながら、スピネルは中腰でわたしたちの前を進んでいる。ぐっ、と前方に伸ばした首で通路の先を睨み、分かれ道や十字路に行き当たれば素早く視線を左右に走らせる様子は、わたしたち以上に侵入者然としていた。
「お嬢さん」耳元でヨハンの声がする。おそらくはスピネルにさえ聴こえないほどの声量だった。「本気なんですか、竜姫を説得するというのは」
「ええ、本気よ」
竜姫に掛け合って罪を帳消しにしてもらう。それがスピネルに提案した内容だ。審判を経るよりもずっと時間が節約出来るし、規則に敏感な竜人たちを相手にするよりも説得は容易である。
万が一失敗した場合には、スピネルに限ってはわたしたちに脅迫されて仕方なく従ったのだと主張すればいい。竜人たちにはわたしの実力が知れ渡っているので脅迫に応じるのも不自然ではないし、こちらも口裏を合わせるから、無罪になる可能性はある。どちらにしても大人しく牢屋番をするよりも得る物が大きい。――とまあ、こんな具合の説明でスピネルを説得出来た。挙動不審なまでに動揺していたが、最終的には首を縦に振り、竜姫の居場所まで案内してくれることになったのである。
スピネルによると、竜姫は今も『聖域』と呼ばれる場所で寝起きしているらしい。とはいえ、以前のように監禁状態ではないそうだ。鉄格子は取り払われ、自由な移動を許されている。日中はほかの竜人と同様に『霊山』をうろうろしているという話だった。
たとえ忌わしい空間であっても、慣れ親しんでしまえば、ほかへ移るのがストレスになるのだろう。たぶん。そのあたりの動機はよく分からない。
なんにせよ、今向かっているのは『聖域』――ではない。これもスピネルの言だが、『聖域』の門前には以前と同じように警備の竜人が立っているらしい。半人半蛇の魔物であるラーミアと瓜ふたつの姿であることが露見したわけだが、竜人にとって彼女が要人であることは変わらない。警備の意味が『存在の秘匿』から『守護』に変わっただけのことだ。
警備の者が常駐している以上、『聖域』に足を踏み入れることは出来ない。ゆえに闘技場の影で待ち伏せし、観戦に現れた竜姫にこっそり近付くという手はずになっている。
もちろん、竜姫はほかの竜人たちに囲まれて迂闊に近寄れないだろう。そのことをスピネルに指摘されたが『大丈夫よ。わたしたちには透明化の魔術があるから』と嘘をついておいた。
彼は魔術についての知識をほとんど持ち合わせていないらしく、それで納得してくれた。
「……で、そもそもどうやって竜姫に接近するんですか?」
「これで隠れて近付けばいいわ」
手にした黄土色の布切れを持ち上げてみせる。行き先が地下闘技場に決まってから、スピネルが調達した布だ。闘技場にいる間はこれで身を隠すように、と。ヨハンの手にも同じような品がある。
「竜人と我々では明らかにサイズが違います。隅で待機している間は人目につかないでしょうから大丈夫だとしても、竜姫に近付くとなれば話は別ですよ」
「心配したところで結果は変わらないわ」
ため息が返る。なにを言ったところで行動は変えないだろう、とでも考えているに違いない。その上で、彼なりの行動プランを練っているのかもしれない。なんとかわたしが竜姫に接近出来るように魔術でサポートする、だとか。はたして、それら全部が無駄になることまで想定しているだろうか。
「もうじき闘技場の裏口です」とスピネルが囁く。
数百メートル先で通路が途切れている。わたしとヨハンはほとんど同時に、布きれを頭からかぶった。ちょうど空いていた虫食い穴から、外の様子を確認しながら歩んでいく。
段々と、声や足音、あるいは鱗の擦れ合う独特な微音が前方から流れてきた。前を行くスピネルが深々とローブを被る。わたしたちはもちろんのこと、彼も人目を忍ぶだけの理由がある。もしアレクに発見されたら終わりなのだ。諸々の準備で忙殺されているとしても、彼が闘技場に顔を出さないと決まっているわけではない。
「ふー。すぅー、はぁー」
ほとんど声に出しているような、不安定な呼吸。よほど緊張しているのだろう、スピネルは。一方でわたしの隣を進むヨハンは静かなものだ。
以前なら、こういう場面で多少なりとも焦りや緊張を感じたはずだ。今は、なんとも感じない。トードリリーを出てから鼓動は一定の間隔で打っている。ヨハンがどんな姿を見せようと、どんなことを口にしようと、なんにも感じないのだ。きっとこの先、どれほど危機的状況に直面しても動揺することはないんだろうな、と思う。殊更にありがたがる気持ちさえ抱けないけれど、常に物事を冷静に判断出来るのは良いことだ。結論の変わらない戸惑いや、悪手へと堕ちていく情動に価値はない。
やがて、虫食い穴から見える景色が変わった。限られた視界のなか、階段状の観客席が見える。
「どうしたんだ、あんたたち。布なんか被って」
スピネルのすぐそばで声がした。聞いたことのない声だ。虫食い穴を覗かれないように俯いたので、相手の姿は分からない。
「子らが、どうしても戦士たちを観たいと申しまして」
ガラガラにしゃがれた声に、おや、と思った。スピネルは思ったよりも芸達者らしい。声だけなら老人にそっくりだ。
「しかし、どうしてそんな恰好で?」
「鱗を病んでおりまして、こうして布で覆っておかないと寝込んでしまうのです」
「はぁ。それは気の毒に」
「伝染するやもしれんので、どうぞ、わたしらには近付かんでください」
「あ、ああ。そういうことなら、悪いが隅のほうに行ってくれ」
「はいな……ほら、行くよ」
ゆっくりゆっくりと進み始めたスピネルのあとに続く。どうやら難は逃れたらしい。
闘技場の隅で蹲ったまま身じろぎひとつしないわたしたちは、さながら布に覆われた道具かなにかのように見えているだろう。場内が次第にざわめきに満たされていったが、最初に話しかけてきた竜人を除いて、誰ひとり声をかけてこなかった。
「器用ですね、スピネルさん」
「いや、マジで緊張したっす。死ぬかと思ったぁ……」
二人の囁きが耳に入る。
「ときにスピネルさん。竜人のお偉いさんがたが座るのはどのあたりでしょうか?」
「ちょうどあっちのほうっすね。ほら、背凭れ付きの椅子がそうっす」
「あちらに竜姫さんも座るわけですね?」
「そっすね」
二人の会話には参加せず、闘技場の様子を眺める。楕円形の砂地を、四、五メートルほど高い位置にある観客席が囲んでいる。客席は階段状になだらかに広がっていき、最後部はちょっとした通路になっていた。わたしたちが蹲っているのは通路の柱付近で、砂地までは直線距離でおよそ十五メートル強。幸い直線状に観客は座っておらず、したがって砂地に集いはじめた参加者が遮られることなく見えた。
「お嬢さん、聞いてますか?」
「聞いてない」
興味もない。竜姫がどこに座ろうと。
「あのですね――」
ヨハンがなにか言いかけたようだが、声が途切れた。場内が騒然とし、あちこちから声が上がる。
砂地に登場したサフィーロは、全身に湛えた蒼の鱗を誇るように、堂々と胸を張って歩んだ。それにやや遅れて、七色の鱗も現れる。アダマスだ。
「お、ようやく来ましたね」
「そっすね。姫さん、相変わらず麗しいニョロニョロ具合っす」
どうやら竜姫も姿を見せたらしい。
「お嬢さん」肩がトントンと叩かれた。「試合が盛り上がったときに動き出しま――」
ヨハンの声は、大音量のアナウンスに掻き消された。
「お集まりいただき誠にありがとうございます!!! これより、族長を決する神聖なる決闘を執り行います!!!」
数メートル先で声を張り上げているのは、先ほどスピネルに話しかけた男だった。どうやら彼は進行役だったらしい。
「鐘の音が決闘開始の合図となります!!! それ以降の参加は認められませんので、参加希望者は速やかにアリーナに降りてください!!! 五つ数えたのち鐘を鳴らしますので、それまでに!! ひとーつ!! ふたーつ!! みーっつ!!」
性急な進行だ。アレクが司会ならこうはいかないだろう。長々と前口上を繰り広げたに違いない。
何体かの竜人が、慌てて砂地へと降りるのが見えた。
「よーっつ!!!」
前傾し、右足を踏み出し――。
「「あっ」」という声が後ろで重なるのを聞いた。ヨハンとスピネルのものだ。
「いつーっつ――」
客席の末端から砂地を結ぶ中間地点まで駆け、そこから一気に跳躍したわたしは、最後のカウントが訪れる前に、殺気だった竜人たちの間に降り立った。布を被ったまま。
「あー!! 駄目です駄目です!! そいつ子供だし鱗の病気らしいので参加は認められません!! 摘まみ出してください!!」
司会の声は、砂地の中央まできっちりと届いた。
それに答えたのはサフィーロだ。
「貴様、神聖なる決闘を侮辱するのか!? 子供だろうが病だろうが、自らの意志で降り立ったのだ! 認めねばならん!! さっさと鐘を鳴らせ!!!」
サフィーロ、焦ってるな。アダマスを相手にすることばかり考えているんだろう。余裕がない。まるっきり、なにも見えてない。
サフィーロの怒鳴り声からほどなくして、鐘が鳴り響いた。それと同時に布を取り払う――。
あらゆる視線がわたしへと注がれるのが分かった。息を呑む音が重なり合い、一瞬の静けさを作り出す。今ならわたしの声でも全員に届くだろう。
「開始の鐘は鳴ったわ。最後に立ってた者が竜人の族長になる。そうでしょ?」
今頃ヨハンもスピネルも、蒼褪めていることだろう。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アダマス』→竜人の族長。透明度の高い鱗を持つ。厳格な性格。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『アレク』→青みを帯びた緑の鱗を持つ竜人。興奮すると鱗の色が変化する。サフィーロ同様、次期族長候補であり派閥を形成している。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『竜姫』→竜人たちにとって、族長に次ぐ重要人物。竜人たちの住処である『霊山』一帯の山脈に雪雲を固定し、人間の侵入から守っている。彼女の姿を見た者は目が潰れ、命を失うとされる呪いを持つ。『聖域』と呼ばれる場所に隔離されており、接触が出来るのは盲目の世話人であるパルルか、唯一前述の呪いの対象にならない族長のみ。詳しくは『687.「姫の呪い」』『Side Grimm.「困惑小人の赤面」』にて
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『聖域』→竜人の住処である『霊山』内に存在する、竜姫の監禁場所。族長と侍従以外は立ち入りを禁じられている。内部は二重の鉄格子に阻まれており、通常だと竜姫の脱出および接触は不可能になっている
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて




