940.「霊山再訪」
「あんたは確か、『灰銀の太陽』の――」
『霊山』中腹に取り付けられた巨大な鉄扉の前で、門番はわたしを見るなりそう言った。困ったように顔を掻いて。
「まいったなぁ。今は誰が来ても通しちゃいけないことになってて、すんません」
門番は彼ひとりだけで、お世辞にも守護者向きの体躯ではない。言うまでもなく人間よりは逞しく見えるものの、一般的な竜人からすると痩せすぎているし手足も細い。
「なにかあったんですか?」
門番へと踏み出したヨハンがたずねる。彼の身体は小刻みに震えていて、肌は蝋細工じみた不自然な白に染まっていた。普段は脂ぎった不潔な長髪も死んだように凍っている。
『霊山』にたどり着くまで、丸三日かかっていた。夜は洞窟で薪を燃やして暖を取り、朝には吹雪のなかを黙々と歩くという工程。わたしとしては手足が凍り付かないようにさえしていれば問題なかったが、ヨハンはそうではないらしく、『雪山がこんなに過酷だとは思いませんでしたよ。いやはや』と毎晩のようにこぼしていた。ようやく『霊山』が見えたときには『嗚呼!』と歓喜の声を上げていたのを覚えている。
ようやく目的地にたどり着いたのに門前払いとなれば、ヨハンはそのまま卒倒し、凍り付き、雪山の構成物と成り下がるかもしれない。
「いやぁ、部外者にはちょっと言えないっすね。すんません」
門番は緊張しているのか、しきりに顔を擦りながら言う。彼の鱗は、雪が染み込んだような白濁した黄色だった。
「いいですか。見てください私のこの顔色を。今すぐ死にそうだとは思いませんか!?」
「そっすね。でも人間のことは、オレ、分かんないんで。すんません」
ヨハンは呆れたのか困り果てたのか、こちらを振り返った。肩を竦めようとしているみたいだが、震えからか、大きな痙攣にしか見えない。
「山頂に温泉があるから、入ってくればいいわ」
「そういう問題じゃないんですよ。第一、この気温で服を脱いだら即死です」
「わたしは即死しなかった」
「運が良かったんでしょうね。命があって何よりです。そんなことより――」ヨハンは門番に向き直り、捲し立てた。「大事な話があって遥々『霊山』までやって来たんです。貴方じゃ入れていいかどうか判断出来ないなら、アレクさんかサフィーロさんにこう伝えるといいでしょう。クロエ嬢が来た、と」
歯の根が合わないのか、ヨハンの言葉は崩れがちだった。それでも通じたらしく、門番は「んー」と頭を掻く。
そのまま十秒ほど沈黙してから、首を横に振った。
「すんません。今は駄目っす。みんな忙しいんで」
平行線だ。ここで愚図愚図していたら本当にヨハンが凍る。
「それじゃ、侵入者ってことでいいわ」
門番の横をすり抜け、鉄扉の中央に立ち、両側の取っ手を掴む。確か外開きだったはず。
「アッ! 駄目っすよ! ホントにやめてください!」
襟首を引っ張られたが、やめるつもりはない。話にならないのなら無理やり入るほかないのだ。
「第一、その扉は人間じゃ――」
人間じゃ開けないほど重い。そんなことを言おうとしたのだろう。生憎わたしは人間じゃない。随分と重いが、それでも徐々に確実に開いていった。
「アレクさんやサフィーロさんにご相談ください。決断するなら今のうちですよ」後ろのほうで、なにやらヨハンが囁いている。門番に耳打ちしているのだろう。「このままじゃ、うちのお嬢さんが門を突破します。つまり貴方は番人の役目を果たせなかったことになるでしょうなぁ。おっと、武器をしまってください。力尽くで止めるのもいいですが、貴方じゃ二秒でお嬢さんに殺されますよ。悪いことは言いませんから、立場のある竜人に我々のことをお伝えください。そうすれば、貴方が戻るまでは大人しく門の外側で待っていますから」
ようやく人ひとり分が通れる程度の隙間が空いた。振り返ると、底意地の悪い顔をした男が、今にも泣きそうな顔の竜人と肩を組んでいる。
「わ、分かりましたから、ちゃんとここで待っててくださいね」
竜人はいかにも渋々といった様子で言った。そして門を自分が通れる程度に開いて――ひとりで開けるのは辛いようだったので手伝ってやった――扉の先へと踏み出した。門を閉めようと思ったのだろう、一度足を止めてこちらを振り返ったが、どうせ無駄だと悟ったのか、そのまま去ってしまった。慌ただしい足音が遠ざかっていく。
「それじゃ、行きましょう」
開いた隙間から『霊山』に足を踏み入れると、後ろから「待たないんですか?」と声がした。
振り返らずに返事をする。「時間の無駄だから」
わたしの隣に追いついたヨハンが、「いやはや」と苦笑混じりに言った。「考えることは同じですな。まったくお嬢さんも大した悪党だ」
悪党かどうかはどうでもよくて、いつまでも吹雪のなかで待ち続けていることに意味を感じなかっただけだ。そのことを言ったところでどうにもならないので、ただ黙って歩くことにする。
『霊山』は以前見たときとあまり変わっていなかった。剥き出しの岩肌が進むごとに輪郭を整えていって、壁に彫り物や柱のモチーフが多くなる。全体がぼんやりと微光を放っているので視界は良好。外に比べると言うまでもなく温度は高い。けれどヨハンは「思ったよりも寒いですな」と呟いた。
一度温泉で温まってくれば多少はマシになると思ったけど、これも一度口にしたことだったので言うのをやめた。
それにしても静かだ。わたしたち二人分の靴音だけが大きく響いている。遠くのほうで話し声なのか笑い声なのか分からない微かな音がしているものの、以前来たときより物寂しい印象ではある。こうして歩いていても、まだ誰にも出くわしていない。
静けさの原因は、竜人の半数が獣人の地に移住したからかもしれないが、それにしても張り詰めた静寂が周囲を満たしていた。
やがてホールのような開けた場所に行き当たり、足を止めた。以前審判を受けた大広間まで行けば誰かいるだろうけど、道を覚えていない。そもそもここまで誰にも出くわさないことが想定外だった。
「通路が……五つですか。どこへ進みましょう」
横穴が五つ。四つはほぼ同じサイズの通路で入り口に装飾もなかったが、ひとつは竜人が三体並んでも通れる程度の大通りで、通路の入り口の壁には唐草模様が刻まれている。おそらくこっちだろう。
「広い道を進みましょう」
そう答えて、返事を待つことなく爪先を向ける。
「まったく、困りましたね。ここまで静かだとは……。そもそも『霊山』に着く前に警備の竜人に見つかるかと思ってたのですが」
「そうね」
『霊山』は竜人にとって秘密の場所であり、近づく者がいないか常に目を光らせている。そのようなことを以前聞いた。早々と発見されてしまえば『霊山』まで竜人の背に乗って進めるだろうと思っていたのだが。
通路に足を踏み入れて五分もしないうちに、先のほうから足音が聞こえた。二体分の重たい足音だ。
「アー!! なんで入ってきてるんすか!? 信じられない……」
ぎょっと目を見開いて近づいてきたのは、先ほどの門番である。彼にとっては裏切られた思いだろう。
「寒かったから」と平気でわたしは嘘をつく。心は少しも痛まないし、頭を抱える門番に同情もしない。大袈裟だな、とだけ思った。
それよりも、彼のあとから歩いてきた竜人のほうが重要だった。
「クロエ氏! 少しぶりですな」
嬉しそうな声を上げてわたしの手を取ったのは、アレクだ。少しやつれたように見える。
「少しぶり、アレク」
「そちらのお方は旦那様ですか?」
「違う」とわたしが答えると同時に、ヨハンがアレクに手を差し出す。握手。「どうもどうもヨハンと申します。こちらのお嬢さんの世話人といったところです。以後、お見知りおきを」
「はぁ、世話人ですか。よく分かりませんが、どうぞよろしく。個人的には、クロエ氏の関係者であれば『霊山』に入っても良いかと思いますが、明らかに審判案件ですね。のちほどお二人とも裁きますので、牢屋までお連れします」
「ハハ。アレクさんは冗談がお上手ですね」
冗談で言っているわけではないだろう。竜人はルールに敏感なのだ。
思った通り、アレクは朗らかな表情のまま首を横に振った。
「いいえ、本気です。クロエ氏もヨハン氏も侵入罪です。特に今はタイミングが悪い」
「タイミング?」
侵入罪云々は無視してたずねる。
「ええ」アレクは頷き、わたしたちを交互に見やった。「数時間後に、族長を決める戦いが行われるのです」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『アレク』→青みを帯びた緑の鱗を持つ竜人。興奮すると鱗の色が変化する。サフィーロ同様、次期族長候補であり派閥を形成している。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて