幕間.「王都グレキランス ~冬の卵~」
その日王都は、記録的な寒波に襲われた。曇天が太陽の姿をすっかり覆い隠し、北方から吹き付ける風は街を囲う外壁の隙間からこぞって入り込み、街路を疾駆して人々の身体の震わした。冬用の上着が飛ぶように売れ、露店ではカボチャのスープが開店から間もなく底をついた。急激な気温の低下は騎士団も等しく被り、普段は『空調』と揶揄される『熱風の魔術』を会得している魔術師が、騎士団本部の部屋という部屋から引っ張りだこになっている。
今朝からの異常気象に関して、噂は噂を呼び、情報は錯綜したままバリエーションを増やしていった。たとえば、この気温は血族の侵攻加速を示しているという噂がある。他方では吉兆であるとする意見も出ており、冷気によって血族の歩みそのものを遅らせようとする神の意志であると真顔で説く者もいた。はたまた頭のおかしい魔術師の実験によるものだとか、あるいは新種の魔物が現れただとか、昨晩の断続的な地震の影響であるとか、いずれも推測の域を出ないものばかりだった。もとより王都の人々は噂好きで、出所不明の情報も喜んで飛びついて方々へ触れ回るものだから、明らかな誤りが含まれた噂も四方八方へ流れていく。悪しざまに言うなら、そうした噂話の流布は、かじかむ手足からいっとき心を逸らすための遊戯的側面が強かった。
王都に蔓延する噂がひとつの単語に収束したのは、昼頃のことである。
曰く、『冬の卵』。
北方の門を出て西へ数百メートル行ったところで、騎士団長のゼールは仁王立ちしていた。『冬の卵』とはよく言ったものだと皮肉な感心を覚えつつ、数メートル向こうに聳える楕円形の物体を睨む。表面は滑らかな銀色で、巨大な鶏卵に似た形状だった。ひんやりと硬質な感触で、およそ生物とは思えない。当然、動く気配もまったくない。しかし魔力だけはとろとろと周囲に漏れ出ていた。
夜間防衛に出ていた騎士から報告があったのは、深夜のことである。断続的な爆裂音とともに地面が揺れ、それから一時間も経たないうちに、騎士団本部で事務処理を行っていたゼールのもとへ真っ青な顔をした騎士が飛び込んできた。なんでも流星が地に落ちたんだとか。半信半疑ながら現場に駆け付けたゼールは、市井の人々が翌日になって『冬の卵』と名付けた物体に遭遇したのである。壁上に移動して、王都周辺に点々と例の物体が広がっていることも確認した。騎士たちを駆り立て、夜を徹して調査を行ったが、その正体はいまだに特定出来ていない。わけの分からない物体にいつまでも人員を割くわけにもいかず、騎士たちには戦争に向けた訓練へ戻るよう命じ、ゼールだけは草原に留まって『冬の卵』とやらを調べ続けていた。此度の戦争における指揮の大部分を担うゼールにとって、仕事は山ほどある。発狂するほど、ある。どれだけ減らしても際限なく増えていく。そんな状況において『冬の卵』の調査を自身で継続しているのは、どうにも胸騒ぎがするからだった。
「いくら熱心に見つめても孵化しませんよ」
声に導かれて振り返ると、いつの間にかゼールの背後にすらりと背の高い女性が立っていた。銀縁眼鏡の奥にある眼差しは鋭い。
「君は確か」
言葉を切り、記憶を手繰る。定期的に催される王都の重役たちの会合――その会場となっている邸で何度か目にしたことのある女だった。魔具制御局長オブライエンの秘書だということは覚えていたが、名前は思い出せない。
「ジュリアと申します。騎士団長殿の記憶力に尊敬の意を表しましょう」
くすりとも笑わずに皮肉を飛ばす女を見つめ、ゼールは思う。
これは、どっちだろうか。
はじめてオブライエンに邂逅したのは、初回の会合だった。そこで彼はジュリアと名乗った女性に変装していたのである。女の身体が銀色の流体として溶け出し、またたく間に白手袋の紳士へと姿を変えるさまは脳裏に焼き付いていた。決して愉快ではない記憶として。
目の前のジュリアは、本物なのだろうか。あるいはオブライエンが変装しているだけなのだろうか。その疑問は、記憶のなかから溢れた銀色の流体に呑み込まれていった。
似ている。あのときオブライエンが見せた『シルバームーン』なる、魔術とも魔道具とも言い難い代物と、王都周辺に点在する『冬の卵』が。質感と色、光の反射具合がそっくりだった。
「お察しの通り」ジュリアがゼールの横を通り抜け、『冬の卵』に触れる。紅茶の香りが彼の鼻にこびりついた。「これは制御局の持ち物です」
直感的な推測が当たったことに、ゼールは少しも驚かなかった。むしろ納得していた。これがオブライエンの仕業だとするなら、なるほど、理解は出来る。胸騒ぎが消えない理由もそこにあった。
ゼールはオブライエンが何者であるか、正確なところは知らない。彼が魔具制御局を牛耳っている男というくらいしか情報はなかった。が、なにか途方もないことを仕出かしかねない男であることは嗅ぎ取っていた。
「そうですか。で、その物体はどういった代物でしょう。民は『冬の卵』と呼んで不安に思っておりますので、差し支えなければ正体を教えていただきたい」
「かまいません。そのためにこんな寒々しい草原まで来たんですから」
彼女の説明はシンプルだった。これは対血族用の兵器であり、みだりに触れてはいけない。人間に危害を及ぼすものではないのでその点は安心してもらってかまわない。
実態は依然として謎のままだったが、彼女にはそれ以上詳しく『冬の卵』について教えるつもりがないことが、ゼールにははっきりと分かった。
「昨晩それを見た騎士が、流星だと言っていた」
「そう見えたでしょうね。我々はこの子たちを打ち上げて、然るべき座標に落としたのですから」
オブライエンの技術力について、取り立てて確かめるつもりはなかった。彼の魔術が異常であることは、すでに最初の会合で証明されている。騎士団長としてそれなりの知識と経験は有しており、したがって魔術によって実現可能な物事の範疇は把握していたが、あくまでも既存の理論に追随する知識でしかない。まったく未知のロジックによって成立している技術については、いかに騎士団長とて知りえない。そしてオブライエンはその例外的な『未知』を有している男だと言える。
ゼールにとって関心事はひとつだった。
「落としたと言ったが、被害は出ていないのか?」
『冬の卵』は人間を軽々と押し潰せるサイズである。もしこれが家屋に落ちたならひとたまりもない。ゼールの確認した範囲ではそのような被害はなかったし、報告も受けてはいなかったが、点在するすべての『冬の卵』を確認したわけではない。
ジュリアはやはり少しも表情を変えず、「さあ。知りません」と答えた。冷えた風が下草をぎこちなく揺らしている。
「局長にとって」言葉が足りないと思ったのか、ジュリアは付け加えた。しかし付言する意味があったのかは定かではない。「民衆の被害など些事。勘定に入れる必要のないものです。血族の手から人間を守るために、少なくない犠牲が必要であることは団長殿もご存知でしょう?」
「正論だ。しかし、相容れん。はじめから被害を無視するのと、被害を知って決断するのとでは大きく異なる」
「ご高説痛み入ります、閣下。失礼ながら申し上げますと、局長が貴方のお言葉を耳にしたならこう言うでしょう」赤い舌が、女の口で踊った。「家畜だ! 麗しさの檻で餌を食み性交することを自由と嘯く豚に違いない! なんて素晴らしいんだ、人間ごっこをする家畜は!」
はじめ、それが笑いだとゼールは気付かなかった。金属の擦れる歪な音。人に不快感を要求する音色。ぽっかりと空いた女の口から、そんな、奇怪な獣のような笑いが流れ出ていた。
ゼールはそれ以上なにも聞かず、その場を立ち去った。やるべき仕事は多い。そしてまた、敵か味方か分からない存在もいる。
理念に則った慎重さで歩まねば。内心でそう呟いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ゼール』→騎士団長。王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』『第九話「王都グレキランス」』『幕間.「王都グレキランス~騎士の役割~」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ジュリア』→魔具制御局のメンバー。オブライエンの部下。オブライエンの実験による最初の不死者。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築されている。詳しくは『第二章 第八話「騒乱の都」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『魔具制御局』→魔具を統括する機関。拠点は不明。オブライエンが局長を務めている。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『196.「魔具制御局」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




