107.「トラスという男」
雪が降っていた。
窓越しに雪華を見つけたとき、思わず息を呑んだ。ふわふわと舞い落ちていく白に目を奪われる。素っ気ない壁を背景に舞う純白は、わたしの心を一瞬にして捉えた。暫く見つめていると、急にニコルのことが頭に浮かんだ。
彼に知らせなければ。
雪を見たのは初めてだった。その奇跡のような光景を幼馴染に教えてやらなければならない。
「ニコル!」
ニコルの部屋に飛び込んだとき、彼はベッドで寝返りを打った。
「ニコル! ニコル! 凄いよ! 寝てる場合じゃないよ!」
ばしばしと背を叩くわたしを、彼を寝惚け眼で見返した。
「んん……。どうしたの? まだ朝の四時だよ……」
「いいから来て!」
迷惑そうに目を擦るニコルを、寝間着のまま連れ出した。
訓練校に併設された宿舎。その長い階段を駆け下りてロビーから外へ出る。
その景色が見えたとき、隣から「わあ……」と感嘆の声が聴こえた。
なんとなく誇らしい気持ちで「ね!」と呼びかけると、ニコルは嬉しそうにはにかんだ。
訓練場は白の絨毯が敷かれていた。暗闇のなかを舞う白い結晶。冷たい風も気にならない。
「奇跡みたい……」と呟く彼に、わたしは「奇跡なんだよ!」と返した。
奇跡が起きているんだよ、と。
目を開けると硬質な灰色の天井が目に映った。
「奇跡……」
呟いて、なんだか虚しい気持ちになった。
身を起こし、目を擦る。瞼は妙に湿っていた。
息を整えて部屋を眺める。窓がひとつに机と椅子がひと揃いあるだけの殺風景な部屋。入り口には年季の入った扉があった。
立ち上がると全身が痛み、思わずベッドに座り直した。
机の上にはサーベルが置いてある。ご丁寧に、誰かが腰から外してわざわざベッドまでわたしを運んだのだろう。痛みに耐えて立ち上がり、窓際に寄った。
隣家の壁が近いせいか圧迫感を覚える。見下ろした路地は薄暗いものの、外は昼の明るさを湛えているようだった。先ほどの夢を頭から振り払い、ベッドに腰かける。
わたしは王都を目指す元騎士で、ここは『大虚穴』の先。つまり、ハルキゲニアだ。
しかし自信は持てなかった。先ほどの路地からは大した魔力を感じなかったし、隣家の壁は薄汚れていた。大都市の華やぎとはかけ離れた寒々しい雰囲気。どことなく、ケロくんの潜伏していた廃墟を思わせた。
不意に扉が軋んだのでそちらを向くと、髭面の大男が立っていた。髪はボサボサの短髪で、ゴツゴツした顔をしている。上半身は黒の肌着一枚。盛り上がった筋肉がありありと見えた。
咄嗟にサーベルを取り、抜き放つ。襲われるくらいなら、いっそ――。
「お、おい! 剣を納めてくれ! 俺は敵じゃない!」
「乙女の部屋に断りなく入るような男は全員敵よ」
サーベルがしっくりと手に馴染んでいた。今、わたしは片手で構えている。なのにあまり重さを感じないのは、やはり慣れだろうか。
「悪かったよ! 様子を見に来たんだ! 死んでたら大変だから……」
「見ての通り、元気いっぱいよ」
「そ、そうだな。一日中寝れば、そりゃ元気にもなる」
一日中、という言葉が引っかかった。そういえば、と思い出す。『大虚穴』を抜けて老魔術師に会ったあとのことをさっぱり覚えていない。
すると、倒れたのだろうか。そして丸一日、昏々と睡眠を取り続けた……。
ヨハン。
そうだ、彼はどうなったのだろう。
「ヨハンは?」
髭面は力強く頷いて笑った。不揃いな歯が見える。「ヨハンは大丈夫だ。レオネルさんがなんとかしてくれた」
「そう……。良かった」
なんだか力が抜けて、立っているのが辛くなった。またしてもベッドに腰を下ろす。
レオネル――ハルキゲニアの防衛を担っていた魔術師……だったはずだ。防御壁の稼働によりお払い箱になった老人……。
「まだ目は覚めてないけどな。二、三日もすれば意識を取り戻すってよ」
「そっか……。ところで、わたしをここまで運んでくれたのはあなた?」
訊くと、髭面は誇らしく自分の胸を叩いた。「おうよ。地下に寝かせとくわけにはいかないからな」
気は優しくて力持ち。豪快で単純。そんな性格が垣間見えた。
「ありがとう」
「気にすんな。そうだ! 喉渇いてねえか? 腹は? 具合はどうだ?」
親切心の爆発。クルスを情熱的にしたような男だ。思わず頬が緩む。
そういえば、喉がカラカラに渇いている。
「水をもらえたら助かるわ」
「よしきた! すぐ戻るから待ってな」
髭面は喜色満面で去っていった。
疑問はいくつも頭に浮かんだ。ここはどこで、彼は何者なのか。レオネルはこの場所でなにをしているのか。そして彼らとヨハンの関係性は……。
滾々と湧き出る謎を一旦振り落とし、ほっと息をついた。
ヨハンは生きている。
その事実だけで充分報われた。『毒瑠璃の洞窟』での逃亡劇。『大虚穴』では極限状態で狭い階段を延々と登り続けた。そしてこの場所に辿り着き、ヨハンは死ななかった。
あ、泣きそう。
「待たせた! って、すまん!」
わたしの顔を見た髭面は瞬時に背を向けた。なんだか最近涙腺が緩くなっている気がする。気力が落ちているのだろうか。
瞼を擦り、彼に呼びかけた。「ごめんなさい。もう大丈夫よ」
「お、おう」
髭面は振り向いて、平たい水筒を手渡した。
お礼もそこそこに蓋を取って、一気に流し込んだ。温い水が喉を通過し、全身に行き渡る。ごくりごくりと遠慮なく喉が鳴った。いくらでも飲める。
「豪快だなあ……」と髭面はまじまじと見つめている。さすがに少し恥ずかしい。
飲み干すと、水筒を彼に返した。「ありがとう、生き返ったわ」
「なに、気にすんなって。あんたは恩人だからな」
恩人? ヨハンの恩人と言うなら分かるが。言い違えたとも思えないような含みを感じた。
「わたしが恩人? どうして?」
「そりゃあ、ヨハンを救ってくれたからだよ。俺たちはヨハンの帰りを待っていたんだ。あいつがいなきゃ始まらないからな!」
首を傾げる。「始まらない……って、なにが?」
髭面は自分の口元を覆い、しまった、とでも言うような分かりやすい狼狽を示した。どうやら部外者には話せない類の物事らしい。
なんて単純な男だろう。
「大丈夫よ。追及して困らせるようなことはしないわ。ただ……」
「ただ?」
「……色々と訊きたいことがあるのよ。レオネルさん、だっけ? 彼に会わせてくれないかしら?」
髭面は嬉しそうに頷いた。なにがそんなに嬉しいのかは分からないが。
「おうよ。レオネルさんは一階にいる。さっき水を汲みに行ったときにあんたのことを話したら安心してたぞ。さあ、行くか!」
肩を貸そうとした彼をやんわりと押し戻し、部屋を出た。廊下は薄暗く、どうにも廃墟じみている。壁も石造りそのままといった具合だ。
髭面は先導しつつ「俺はトラスってんだ。よろしくな」と言った。彼の声は大きく、百メートル先にいても充分聴き取れるだろうと思われた。
「わたしはクロエよ」
「クロエ……クロエか! 良い名前だな!」
多分、トラスは誰に対しても「良い名前」と褒めるような奴だろう。そのシンプルな性格は嫌いじゃない。
何度か踊り場を抜けると階段は終わった。逆算すると、あの部屋は三階にあったことになる。地下から運ぶとなると普通は大仕事だろうが、トラスの筋肉を鑑みるに造作なかったろう。
階段を抜けてすぐの場所に両開きの扉があった。トラスはそれを開け放つ。中は長テーブルと椅子が設置された広間だった。全体的に洒落た木目調の家具が置かれている。
しかし、誰もいない。
トラスは広間から廊下に戻り、順々に他の部屋を見ていった。どれも三階よりは調度も内装もしっかりしていた。何番目かの部屋の前で立ち止まり、扉をノックする。傍若無人に扉を開け放っていた先ほどの彼とは、様子が異なっていた。
中から「どうぞ」と聴こえる。張りのある男の声。
トラスは部屋に入ると、こちらを一瞥した。一緒に来い、ということだろう。
その部屋は広間の半分ほどの広さだった。皮張りの立派なソファが一対。左右の壁には巨大な本棚と鉢植えがいくつか。鉢からは滑らかな木肌の植物が生えていた。
正面には大ぶりの書き物机があり、その後ろには臙脂色のカーテンが引かれている。机に向かっていた人物は顔を上げてこちらを見た。左右に撫でつけた髪は灰色に染まっており、その下の顔は優しげな、ともすれば気弱な顔立ちをしている。皺の具合から見て五十代といったところだろう。
彼は手にしたペンを置き、ニコリと微笑んで見せた。
「こちらはクロエさん。ヨハンを救った女傑です」
女傑とは、なんとも気落ちする表現だ。肩を落としそうになったが、堪えて一礼した。
「ああ、その節はどうも。大変助かりました」律儀に頭を下げて、男は続ける。「私はドレンテ。この街の領主をしていた人間です」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ケロくんの潜伏していた廃墟』→『61.「カエル男を追って~魔物の巣~」』参照
・『クルス』→ハイペリカムの自警団長。誠実な男。詳しくは『72.「自警団長クルス」』にて




