表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1219/1468

939.「再誕」

 暗闇と音。そのふたつだけが有った。視界いっぱいの闇は単なる黒ではなくて、中心に薄い赤が混じっている。色は一定ではなくて、暗くなったり明るくなったり、小さくなったり大きくなったりした。いくつかの赤い(かたまり)に分裂したりもする。闇に物体の輪郭が浮かんでいるというよりは、光が(まぶた)を通過して、不定形に歪んでいるように思えた。長く目をつむっているときの、網膜(もうまく)に刻まれた光の名残に似ている。


 音は、光よりももっと曖昧(あいまい)で複雑だった。()えずノイズのように、なにか流れるような音があちこちでしている。それとは別に、頭のずっと上のほうから、ど、ど、ど、と一定間隔のまとまった音が響いていた。


 身体を動かすことは出来なかった。あらゆる意志が肉体に届かない。わたしは思考と感覚だけを持つ、隔絶(かくぜつ)された存在なのだと知った。ラルフの記憶を旅したときとは全然違う。あのときは視覚と聴覚だけを追体験していたのだけれど、今わたしは暗闇のなかで、はっきりとした五感を持っている。


 やがて、この場所がひどく狭い、不自由な空間であることを(さと)った。まるで小さな箱に無理やり押し込められたような、そんな感じ。


「――」

「――」


 ときどき、ノイズや一定間隔の響きとは違った音がする。低い音と、高い音。ぐにゃぐにゃに歪んでいて、音の意味はなにひとつ(とら)えられない。けれどもそれらを耳にしていると、不思議と落ち着いた。



 押し出される感覚ののち、光が(はじ)けた。なにも見えないほど強烈な白。瞼の筋肉がきつく縮こまり、冷えた空気が全身を刺した。


 誰かが耳元で、しかも大声で泣いている。


 そっか。


 泣いてるのはわたしだ。


「――」

「――」

「――」


 音の洪水の中心に、わたしの泣き(わめ)く声がある。飛び()う音の数々は、どれもわたしのほうを向いているようだった。


 奇跡。肌。人間。そんな単語が聞き取れたけど、わたしの空耳かもしれない。なにせ方々(ほうぼう)から押し寄せる音はあまりに新鮮に耳を刺激していて、ひと塊の言葉として捉えるのが難しい状況だったから。


 でも、荒い息の混じったその声は、どうしてかちゃんと耳に――意識に――入ってきてくれた。


「生まれて、きてくれて、ありがとう……クロエ」


 その声は、暗闇のなかで聞いた高いほうの音に似ていた。



 わたしを抱いてゆらゆらと揺する女性は、本当に、心の底から幸せそうな笑顔だった。目尻に涙が(にじ)んでいるのが不思議だけれど、悪くない表情だと思う。


 わたしを覗き込む女性の顔は、どことなく既視感(きしかん)があった。特に目元と唇の薄さは馴染み深いものがある。誰かに似ているというのじゃ、もちろんない。


 わたしが彼女に似ているのだ。肌の紫色や、滴るような(つや)っぽい黒髪を除いて。


「なんだか信じられないな」


 頭の先から低い声がする。満ち足りた、穏やかな口調だった。


「わたしも」と女性が呟き、ほっそりした指先をわたしの顔のそばに持ってきた。指を求めて(くう)()くわたしの手は、彼女のそれとは違って、白い。


「男衆から夜通し酒を飲まされたよ。まいったね、ははは。まるで英雄だ。クロエを産んだのは君なのに」


「クロード。あなたのおかげよ。もう聞き飽きたかもしれないけど、あなたは村の英雄なの。わたしたちがどれだけ長い間、この奇跡を待っていたか……」


 女性はもう、わたしを見てはいなかった。クロードと呼ばれた男――わたしの父のほうを向いて、少しだけ悲しそうな顔をしている。


「こんなこと言うの、本当は間違ってるんだけど……この先もニンファにいてくれる?」


「そのことで、改めて謝りたいんだ。……俺は君たちのことを誤解していた。自分とは全然違う、なんというか、もっと残酷な存在だと思ってたんだ。君と結ばれてから、そんなことは思わなくなったけどね。赤ん坊の顔を見るまではそばにいようと決めたのも、君のことを本心から好きだと思ったからだよ。――だから、俺から頼みがあるんだ」


「うん、なんでも言って。トードリリーに戻りたいなら……引き留めないから」


「違うんだ。この先もずっと、一緒にいてほしい。俺と君とクロエで、ずっと生きていきたい。この村で」


 落ちた水滴が額で弾ける。それが無性に楽しくて、わたしは笑った。



「ときどき不安に思うんだ」


 ひと部屋の長屋。薄い敷布(しきぬの)の上に、二歳になったわたしはうつ伏せになっている。父譲りの(あわ)い栗毛を母が頭の後ろで()ってくれて、それを崩したくなくて、伏せるように寝ているのだ。正確に言うと、うつらうつらしているだけで、頭だけは起きている。


「なにが不安なの?」


 母がわたしの背中を撫でながら言う。すっかり寝入ったと思っているのだろう。


「この幸せがいつまで続くんだろう、って」


「ずっとよ。ずっと幸せでいましょう。もし嫌なことがあっても、幸せだって言い張ればいいのよ。そうすれば本当に幸せな気持ちになる」


 笑い混じりのため息が聞こえた。


「つくづく、君は天才だと思うよ」


「皮肉?」


「違うよ。本気で言ってるんだ。君は幸せを掴む才能がある」


 このときわたしは、必死で叫んでいた。今すぐここから逃げ出して、と。でも、届くはずがない。記憶のなかのわたしはお腹いっぱいで、そのせいか眠くて眠くて、とてもじゃないけど動けなくなってる。二歳の身体に宿(やど)った現在のわたしは、一切を追体験しているに過ぎない。


 これから起きることは、すでに全部が終わっている。ゆえに、なにをどうやっても変えようがないのだ。



「ここでじっとしてるのよ。怖くないからね」


 わたしを(わら)に押し込む、か細い腕。母は微笑を作っていた。崩れそうな(もろ)さの、ほとんど決死の微笑を。


 あちこちで悲鳴と怒号が飛び交っている。


「行かないで」


 思わず腕を掴むと、母は力強く振り払って、それから、そっと頭を撫でてくれた。


「絶対に声を出しちゃ駄目よ。それと、外に出ちゃ駄目」


「やだ。やだ、行かないで。怖い」


 路地に(たたず)む母は、物悲しそうにわたしを眺めていた。それから、すっ、と無表情になる。


「ごめんね、クロエ。全部忘れて眠るのよ」


 硬質な無表情に、涙がひと(すじ)流れた。


 母の人差し指がわたしの額を押す。それからストン、と脱力するのを感じた。


「さあ、眠るのよクロエ。静かに眠るの」


 視界が藁で(おお)い隠され、母だった女性の靴音が慌ただしく遠ざかっていく。


 それからわたしは、甲高い、(いや)な笑い声を聞きながら、眠りに落ちていった。


 どうして母が忘却魔術を会得(えとく)していたのか、わたしには分からない。なにか忘れたいこと、忘れさせたいことがあったのかもしれないけれど、もう答えはどこにもないのだ。



 目を覚ますと、空が夕暮れに染まっていた。焼け焦げた(にお)いに混じって、これまで嗅いだことのない異臭が鼻をつく。


 藁から出て、一歩二歩と、おぼつかない足取りで進んだ。どこへ行きたいのか、どこへ行くべきなのか、当時のわたしが分かっていたとは思えない。でも正解だったのだと思う。三歳のわたしは、鳴り響く慟哭(どうこく)の中心へと歩んでいた。


 何度目かの角を曲がると、その女性はいた。べたりと地面に座り込み、低い声で泣いている。恐ろしい獣のような、そんな声にも思えた。


 すぐそばまで行くと、ようやく彼女はわたしに気が付いて、泣き声が途切れた。大きく見開かれた目からはぼろぼろと、冗談のように大粒の涙が(あふ)れている。


 院長先生はわたしを抱き寄せた。(うな)るような嗚咽(おえつ)が物悲しくて、わたしも、わけが分からないままに泣いてしまった。


 波のように不安定に寄せては返す泣き声のなか、先生は何度も何度も謝っていた。



 ヨハンの腕を逃れ、(そで)で涙を(ぬぐ)った。


 十八年弱の人生を丸ごと追体験して、今わたしは現実の時間の上に立っている。


 先生の言った通り、わたしは血族と人間のハーフだった。彼女が嘘をつくはずないと思ってはいても、心のどこかで否定材料を探していた自分もいる。


 けれど記憶の旅のある地点――先生とともにニンファを去った時点で、もうなにも感じなくなった。淡々(たんたん)と事実が流れていくだけで、映像を(なが)めているのとさして変わらない。現実の時間の流れに回帰しても、その点に変化はなかった。目の前のすべてが他人事(ひとごと)のように遠い。自分自身にまつわる物事さえ。


「お嬢さん?」


 こちらを覗き込むヨハンを見ても、やっぱりなにも感じなかった。


 自暴自棄になったわけではない。目的を遂行(すいこう)するために必要な視座(しざ)だけが残されている。


「ヨハン。ここからは別行動にしましょう」


「……なぜです?」


「わたし、心が死んじゃったみたい。もう本当に(・・・)なんにも感じないの。あるのはニコルと魔王を倒すっていう目的だけ。きっと、一緒にいたら気が滅入(めい)るだけよ」


 (きびす)を返し、彼は彼の道を歩むべきだった。それぞれ別々に、王都のために動けばいい。


 ヨハンは(あき)れたように頭を()き、「ハァ」とわざとらしいため息を吐き出した。そして一度も振り返ることなく馬に(またが)る。


 それでいい。馬は彼が使うべきだ。わたしはなくても問題ない。


「早く乗ってください。行きますよ」こちらを見下ろし、ヨハンが手を伸ばす。「これから『霊山』まで強行軍。そのつもりでしょう?」


「あなたも行くの?」


「当たり前でしょうに。あのですね、私を見くびってもらっちゃあ困ります。こんなわけの分からない僻地(へきち)に女性一人放置して、自分だけどこかへ行くと思いましたか?」


 頷く。するとヨハンはがっくりと肩を落としたけど、なんで落胆するのか不明だ。


「お嬢さんにはお()りが必要なんですよ。ご自分じゃあどう思ってるか知りませんけどね、若者の軌道修正は大人の役目です」


 理屈は謎だけど、納得してるなら別にいい。


 無言でヨハンの後ろに乗り込むと、小さく「やれやれ」と聞こえた気がした。


 満天の星空の下、二人を乗せた馬は蹄鉄(ていてつ)の最初の一歩を夜闇に打ち鳴らす。馬上で浴びる風に昼間の名残はなく、行く手には分厚い夜の(とばり)が降りていた。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している


・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて


・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて


・『ニンファ』→トードリリーの西に位置する廃村。ラガニアから落ち延びた血族たちが作り上げた、血族のための村だった。トードリリーの夜間防衛を請け負う代わりに、人間の男を定期的に村へ逗留させるよう求めた。その理由は、人間の血を入れることで血族としての血を薄めるため。詳しくは『931.「末裔」』『933.「血族の村」』にて


・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて


・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ