938.「だから、そのままでいて」
すっかり日の暮れた荒野を、たった二人で進んでいた。
夜風の囁き。蹄鉄の音。カサカサと地を掻いて転がるタンブルウィード。
「このあたりは星が綺麗ですなぁ」
ヨハンの声に導かれるようにして顔を上げると、確かに、粒の大きさも輝度も異なる星々が黒の天蓋に散っている。吸い込まれそうな星空だった。
「ヨハン」
「なんです?」
「最初から、トードリリーの人たちが協力してくれるとは思ってなかった。嘘をついたの。本当は自分のことを知りたくてここまで来た」
こうして白状する予定はなかった。そういえば嘘をついたままだったと思い出して、どうせならという気で口にしているだけ。
自分自身の言葉で少しは心が動くんじゃないかと期待したけれど、やっぱりなにひとつ感じなかった。負い目さえも。
短い笑いが聞こえた。
「まんまと騙されたわけですねぇ。してやられました」
「ごめん」
「いいんですよ、別に。日程に余裕はあります」
今は、ベアトリスと別れてから二日目の夜だ。まだ丸八日残っている。昼夜問わず進み続けたおかげだ。『霊山』まで行くのに数日かかったとしても問題はない。
ベアトリスの鎧が脳裏に浮かび、ヘイズで口にした料理へと連想が繋がっていった。
「ヘイズの食事、本当に美味しかったわ」
「なんですか突然。まあ、美味なのは良いことですよ」
「さっき孤児院でも夕食をもらったんだけどね、味がしなかったの」
「……そうですか」
「寝たり食べたり、そういう普通のことが、どんどん必要なくなってるみたい。ゾラと戦ってから、段々」
風は冷たいし、気まぐれに噛んだ唇も痛い。今のわたしにとって必要なのは、そういう直接的な感覚なのだろう。肉体が食事を必要としないなら、味覚は不要だ。本来舌は毒と食料を判別するための器官なのだから、お役御免になったと考えればすんなりと納得出来る。
これからもっと、わたしの身体は無駄を削ぎ落としていくだろう。その分だけ別の感覚が鋭敏になっていくのなら歓迎だし、そうでなく単に欠落していくだけだとしても、別にかまわなかった。
けれどヨハンは、そう思ってないらしい。
「考えすぎですよ。精神的な理由で味を感じられなくなることはあります。そのうち元通りになりますよ。眠りのことだって同じです。血族の血が流れてるからといって、不眠不休で動けるわけではありませんからね。私を見てください。いつでもどこでも眠れますよ」
「それはあなただからよ。あなたが契約の力を持ってるように、わたしには睡眠も食事も必要ないくらいの恢復力があるんでしょうね」
「そりゃあいい。あとは余計なことを悩んだりしなくなれば完璧ですな」
「そうね。だから今のわたしは、少しずつ完璧になってるのかも」
「……冗談ですからね」
知ってる。思い悩んで、ああでもないこうでもないと頭を抱えるのは、きっと大事なことなのだ。それが失われた状態は完璧といえない。
孤児院で話を聞いてから、まだそれほど時間は経っていない。こんなふうになにも感じないことが一時的な疾患なのかどうか、わたしには判断がつかなかった。
「お嬢さん」
「なに?」
「無理して全部受け止めようだなんて思ってないでしょうなぁ?」
無理ってなんだろう。受け止めるというのもよく分からない。事実は単に事実なわけで、認めるとか認めないとかいうものではないはずだ。そして事実はこちらの状態にかかわらず厳然と存在する。たとえ、もう無理、と叫んだとしても容赦してくれるものではない。
「全然平気よ」
「……苦しくなったら、誰かに重荷を肩代わりしてもらえばいいんです。まあ私は見ての通り非力ですので期待されると困りますが、それでも、少しなら持ってあげるのもやぶさかではありません」
「そう」
我ながら淡白な返事だと思う。でも、ヨハンの言っていることが分からないのだから仕方ない。慰めや励ましのための言葉なんだということは理解出来るけど、それ以上のものではないのだ。もっと言えば、わたしが背負う精神的な物事はすべてわたしだけのものでしかなくて、誰かに分け与えたり出来るものではない。
でも、もしかしたらわたしの考えはとんでもなく間違っているのかもしれない。――そう思ったのは、ニンファに着いて馬を降り、すっかり風化した家屋の残骸や道らしきものを目にし、なぜだか目から涙が溢れてしまったからだ。
ニンファは、意識しなければ村があったことにすら気付かないほど、自然と同化してしまっている。冷えた星明りの下、枯れた井戸や人工的な木切れが、ここに誰かが存在していたことを囁いていた。
目の下が冷たい。
涙が道となって、顎から滴っていた。
この場所は、夢で見た景色と遠く隔たっている。夢の中ではいくつものあばら家が建っていた。道はこんなにひび割れていなかった。緑だって、もう少し繁茂していた。今のこの土地は、わずかな残骸だけがある荒野の一部だ。それなのにここがニンファの中心であることが分かったし、夢の景色はやっぱりこの場所だったのだと確信したのはなぜだろう。
いずれにせよ確かなのは、今この瞬間、わたしは哀しみを感じていない。理由なく、ただただ涙が流れるだけなのだ。
「ここ、オブライエンが滅ぼしたの」
無言でハンカチを手渡すヨハンを無視して呟く。わたしの言葉に、彼は一瞬だけたじろいだ様子だった。
「オブライエンが?」
「そう。……ヨハン。あなたは自分の生まれた故郷のこと、覚えてる?」
「ええ、それなりに。以前ルドベキアで話した通りですよ」
いつまでもハンカチを受け取らないわたしに痺れを切らしたのか、布に包まれた指先が目尻に近づく。
ハンカチはどんどん濡れていった。きっともうじき役に立たなくなるだろう。
不意に指先が離れ――。
「どうしたの?」
どうしてわたしは抱きすくめられているのだろう。
骨ばった胸に、涙の染みが広がっていくのが見えた。
「どうもしてないです」
頭上で声が返ってすぐ、頭を撫でる手のひらを感じた。
どうしたんだろう、ヨハン。そんなにわたしが哀れに見えたのかな。
もしそうだとしても、やっぱりなにも感じない自分がいる。情けないとすら思わない。
「私がお嬢さんに出来ることはありますか?」
珍しいな。ヨハンからそんなこと言うなんて。少し前――院長先生の話を聞く前、いや、ルドベキアで戦う前のわたしなら、きっと嬉しくなって余計に泣いたことだろう。それで、じゃれるみたいに些細な要求をしたかもしれない。
今はとてもじゃないが、そんな遊びをする気になれなかった。
でも。
そんなわたしでも。
ひとつだけ彼に頼みたいことがある。
「一瞬だけ、遠くに行ってくる」布袋に手を入れ、小瓶を探り当てる。「だから、そのままでいて」
帰ってきたわたしがもし以前のように豊かな感情を取り戻していたなら、きっと今の状況を心から嬉しく思うだろうから。
ヨハンがなにか言う前に、わたしは小瓶の中身を――自分自身の記憶を喉に流し込んだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて
・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて
・『ニンファ』→トードリリーの西に位置する廃村。ラガニアから落ち延びた血族たちが作り上げた、血族のための村だった。トードリリーの夜間防衛を請け負う代わりに、人間の男を定期的に村へ逗留させるよう求めた。その理由は、人間の血を入れることで血族としての血を薄めるため。詳しくは『931.「末裔」』『933.「血族の村」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて