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937.「決して埋まらない何か」

 風の音色と幼い嬌声(きょうせい)(かす)かな音の数々が、室内の静寂を色濃く縁取(ふちど)っていた。


 沈黙が訪れてから、もうどのくらい()ったろうか。時間の認識が曖昧だ。肉体の感覚は薄く、思考さえ途切れがちになっている。意識だけが浮き上がって部屋を俯瞰(ふかん)しているような心地だった。


 先生はもう、わたしの手を握ってはいない。背筋を伸ばし、両手を膝に置いて、ときおりまばたきするだけ。きっと忙しいだろうに、立つ素振りは見せなかった。


 もう、わたしにまつわる話は終わったのだろう。先生の知る限りにおいて。


「貴女さえ良ければ、今夜は孤児院に泊まっていってください」


 先生の言葉には、なんの打算も含まれていないようだった。これ以上わたしを刺激しないように、あるいは混乱を(しず)めるために申し出ている――そんな邪推(じゃすい)はいくらでも出来るけど、きっとそうではない。そう信じたい。


 信じる?


 信じてどうなるというの?


 信じないとしたら、なにかが変わってくれるの?


「ありがとうございます、先生。全部」膝に力を入れると、思ったよりも簡単に立ち上がることが出来た。「せっかくですけど、これで失礼します」


「ほかに泊まるあてがあるのですか?」


 泊まるってなんだろう。わたしには眠りも食事も必要ないんだ。少なくとも今は。


「行くところがあるんです」


「……今からニンファに行くのですか?」


 先生、やっぱり鋭いなぁ。けど、まあ、ここまでニンファの話をしたんだからそう思うのも自然かも。


「はい」


 そう返事をすると、先生が立ち上がった。「もう夜です。行くなら明日になさい」


「朝まで長いですから。なにをしていいか分からないんです。近頃ずっと眠れなくて、なにかしてないと落ち着かなくって」


 扉へと踏み出したわたしの手を、先生は素早く掴んだ。


「なら、話をしましょう。ひと晩中でも。子供の頃のことでも、なんでも」


 先生の申し出は、本来ならすごく――涙が出るくらいには――ありがたいものだった。親切にされるのは嬉しいものだから。でも、今はなにも感じない。幸福も嫌悪感も申し訳なさも、なにひとつ、ない。


「ごめんなさい」


 二の腕を掴む先生の指を、一本ずつ、傷付けないように剥がしていった。


 先生はそれ以上わたしを引き留めようとはせず、ただ立ち尽くしている。ほんの少し下がった眉尻(まゆじり)に悲壮感が(ただよ)っていて、ああやっぱり親切な人なんだな、と思った。


「先生。今までありがとうございました」


 言ってから、これじゃ足りないと感じた。でも、足りないなにかを埋めるための言葉が見当たらない。そうしているうちに一秒二秒と時間が経っていって、もう言葉を付け加えるには不自然なほどの沈黙が積もってしまった。


 会釈(えしゃく)をして院長室を出る。去り際の扉の音は、まるで自分の身の内から響いたように感じた。




「用事は済んだんですか? お嬢さん」


 トードリリーの集会場は、それと知らない者から見れば単に木造の長屋だ。だから、玄関先の敷石に腰かけるヨハンは客観的に見れば物乞(ものご)いか浮浪者に見える。


「これからちょっと出かけるわ」


 立ち上がって膝を払うヨハンに、そう告げる。すると彼は露骨に首を傾げた。


「どこへ出かけるんですか? まさかまた徹夜で行軍じゃないでしょうね」


 まだ彼はわたしのことを心配しているらしい。それもそうだ。もう何日も寝ていないことはバレてる。口調に(とが)めるような厳しさが混じるのも無理はない。


 でも彼の心配は全部、わたしが普通の人間だったら通用するものでしかないのだ。


「あなたはこの町に泊まって。わたしの名前を出せば孤児院で部屋を()いてくれるでしょうし、もし駄目だったとしても集会場で眠ればいいわ。毛布が置いてあったでしょ?」


「確かに毛布はありましたが、それはどうでもいいことです。お嬢さん、私の質問に答えてくれませんか? これから夜だというのにどこへ?」


 もうじき魔物の時間だということは分かってる。ここからニンファまでは、馬を使っても一時間はくだらないだろう。さっき手持ちの地図で確認した。


「交渉は上手くいった?」


「いえ、残念ながら説得出来ませんでした。戦争が人間全体の危機だということは認識してもらえましたが、そこまででしたね。ま、事情はそれぞれですから」


「そう」


 予想通りだ。驚くことはないし、落胆もない。


 (きびす)を返すと、ヨハンに肩を掴まれた。


「……質問の答えをまだ聞いてないですよ」


「隣の村に行くだけよ」


「なんのために?」


「自分のため」


 そうとしか言いようがなかった。そこに行ってなにかが得られるとは考えていない。確かめたいだけなのだ。つまりただの、自己満足。


 振り返ると、ヨハンは随分険しい顔をしていた。無理もない。今わたしは彼を振り回しているようなものだから。


「わたし、血族だったみたい」


「……なにを言ってるんです?」


 一瞬硬直した顔が、すぐに(いびつ)に崩れた。ヨハンのへらへら笑いに、いつもの巧緻(こうち)さはない。口の(はし)が引きつっていることに、はたして彼は気付いているだろうか。


「さっき院長先生に聞いたの。隣の村は血族の住処で、わたしはそこの生まれだって」


「で、今から故郷に向かうと?」


「ええ」


 少し落ち着いたのか、ヨハンの肩を(すく)める仕草は普段と変わらなかった。たっぷりの呆れが(こも)っている。


「今じゃなきゃ駄目なんですか?」


「どうせ眠れないから」


 そう口にしてから、言い訳だと気付いた。眠れない夜の時間を有効活用しようと思っているわけではない。どうしようもなく、わたしはニンファに引っ張られている。そこに論理は介在しない。そうしたいのだという、身も蓋もない衝動だけがある。


「仕方ないですね」ヨハンは濃いため息を吐き出した。「では、さっさと行きましょうか。方角はどっちです? ああ、それより馬を連れてきましょう」


「あなたも行くの?」


「もちろんです」


 言いながら、ヨハンはわたしに背を向けて集会場の裏へ行き、少しもしないうちに戻ってきた。馬の背に乗って。


「今度はお嬢さんが後ろです。さ、早く乗ってください」


「なんであなたも行くの?」


 するとヨハンは短く笑い、馬上から手を差し出した。


「なにを仕出(しで)かすか分からないからでさぁ。片目を共有しているからといって、お嬢さんの無茶を止められるわけじゃありませんからね。すぐそばで見ていないとおちおち眠れませんよ、私も」


 あえて小馬鹿にするような口調を選んだ彼は、先生とは違ったタイプの、親切心の(かたまり)なのかもしれない。


 本当ならヨハンの言葉をありがたく思いつつ、ちょっと言い返すのが正しい――というか今までのわたしだろう。それは分かってる。でも、なんとも思わないのだ。それを情けないとか悔しいとかも、感じない。


 言葉を返せずにいるうちに、ヨハンがぐっと身を低くして手を伸ばし、わたしの腕を取った。そして不思議なほど強い力で引き上げる。抵抗する気もなかったわたしは、呆気(あっけ)なく馬上に収まった。


「ごめんなさい」


 なにを言っていいか分からないから、上手く返答出来ないことも含めて謝るしかなかった。


 (ひづめ)の音が夜に染み込む。


「なにを謝ってるんですか。お嬢さんらしくもない」


「うん。ごめん」


「なんでもいいですよ。そら、スピードを出しますから掴まっていてください」


 ヨハンの腰に腕を回す。皺だらけのシャツに身を預ける。わたしと同じく、人と血族の血が流れているのに、どうしてか彼の身体はとても温かく感じた。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している


・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて


・『ニンファ』→トードリリーの西に位置する廃村。ラガニアから落ち延びた血族たちが作り上げた、血族のための村だった。トードリリーの夜間防衛を請け負う代わりに、人間の男を定期的に村へ逗留させるよう求めた。その理由は、人間の血を入れることで血族としての血を薄めるため。詳しくは『931.「末裔」』『933.「血族の村」』にて

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