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936.「クロエ」

 オブライエン。


 オブライエン。


 オブライエンオブライエンオブライエン。


 オブライエンオブライエンオブライエンオブライエン甲高く金属を擦り上げる音オブライエンオブライエン半月に歪む口元オブライエン白銀の髪オブライエンオブライエンオブライエン(わら)いオブライエン――。


「落ち着いて、深呼吸してください」


 これは先生の声だ。記憶の底から鳴り響く(いや)哄笑(こうしょう)ではなく、現実の声。


 視界いっぱいに、ローテーブルの木目が映っていた。


「深呼吸を」


 頭の上から降り(そそ)ぐ声に従って、息を吸う。意識して長く、押し出すように吐く。


 深呼吸を繰り返しているうちに、自分がローテーブルに突っ伏していることに気付いた。先生が依然(いぜん)として手を握ってくれていることも、ちゃんと気付いた。


「……もう大丈夫です」


 顔を上げる。


 目の前にいる先生の表情が分からない。眼球に(まく)が張っているみたいに、なにもかもが(おぼろ)だった。照明の(だいだい)、壁の茶色、先生の黒衣……色ばかりが目に映って、細部が曖昧(あいまい)だった。


「続けてください」


「今日はここまでに――」


「駄目ですよ」先生の手を握り返す。強く。「最後まで話してください」


 今、室内はどんなに静かだろう。わたしには分からない。ずっと耳の奥で、甲高い(わら)い声が鳴り響いているから。


 永遠のように長い時間ののちに、対面から(ひか)えめな吐息が聴こえた。些細(ささい)な音なのに、不思議とくっきり耳に入ってくる。


「オブライエンは私たち住民に(こと)の次第を告げると、早々にトードリリーを去りました。こちらに対価を要求することもなく」


 オブライエン。


 この数日で何度その名を聞いただろう。ラガニアの悲劇の元凶が、わたしの人生にもその影を落としている。


「私はニンファへと走りました。手前勝手なことですが、少なからずショックを受けていたのです。まさか全滅させるだなんて、そんな想定はしておりませんでしたから。……いえ、嘘を言うのはやめましょう。私は、副院長が生きているとばかり思っていたのです。だから死んだと聞かされたとき、みっともないほど心が崩れてしまった。それでニンファへと向かったのです。意気揚々と住民への報告を繰り広げるオブライエンを(ほう)って」


 ひとり荒野を駆ける黒衣の女性。彼女への同情や憎しみは感じなかった。先生が今話しているのは、すべて終わったことで、もう取り返しがつかない。


 先生が王都に手紙を出さなければ、ニンファがその日、滅びることはなかっただろう。それでも憎む気が起こらないのは、災禍(さいか)の源がオブライエンだからだ。先生が動こうと動くまいと、いつかあらゆる物事が彼の手で作り替えられてしまって、哀しみすら超越した惨劇に染まる。そう思ってしまった。


「ニンファの様子は、口にするのもおぞましいほどでした。家屋も隘路(あいろ)も畑も、血と肉片ばかり……。村を進むにつれ死肉が多くなっていって……比較的大きい四辻(よつつじ)に、それはありました。いえ、その人はいました」


「……人?」


 向かいに座った黒い(もや)――先生が(うなず)く。


「そう、人です。血まみれでしたが、その肌は確かに人間のものでした。四辻の中央に(はりつけ)にされていたのです。全身穴だらけで、手足は部分的に欠損していました。先天的なものではなく、明らかに数時間前にズタズタにされた……そんな傷でした。それなのに、その人は生きていたのです」


 先生は一拍(いっぱく)置いて、ときおりか細くなる声で続けた。


「その人はうわ言のように繰り返していました。最初はなにを言っているのか分かりませんでしたが、やがてふたつのまとまった言葉だと知りました。ひとつは『俺の娘』。もうひとつは――」


 先生に包まれた右手が温かい。でも、この温度が本当のものなのかどうか、それさえ不確かだった。錯覚じゃないと、どうして言えるだろう。


「もうひとつは、貴女(あなた)の名前です」


「わたしの、名前……」


「あなたは副院長の娘なのですよ」


 母親のことはおろか、父親のことだって知らずにこれまでずっと生きてきた。


 かつてこの孤児院を、先生と一緒に経営してきた人。それがあなたの父親なんだと言われても、なんだか現実感がない。驚く以前に、わたしは副院長のことなんてこれまでなにひとつ知らずにいたのだ。


「貴女のお父様は、貴女の名を呼び続けていたのです。そして目の前の私に気付くことなく息絶えました」


 副院長の声が段々と間遠(まどお)くなり、やがて瞳に生気が失われ、周囲がまったくの静寂に包まれてからも、院長先生はその場に立ち尽くしたそうだ。


 副院長が生きていることを、先生は(はかな)く狂おしく願い、果たして本当に生きていたのである。決して望ましいかたちではなく。これが『奇跡』だと言うのなら、それは、呪いの別名ではないのか。


 口調こそ普段の先生とそう変わらないくらい冷ややかだけれど、流れる言葉はどこまでも率直な、虚飾(きょしょく)のないものだった。


「亡き副院長を見つめているうちに、私は(さと)ったのです。彼は精神的にとても潔癖な方でした。ですから、本来トードリリーに戻らねばならないのに、血族の地に留まったのです」


 相手が妊娠したら町への帰還が許される。だとするなら副院長は――わたしのお父さんは、帰ってもいいはずだった。


「彼は、血族と関係を持った事実を自分自身への(いまし)めとして背負うことを選んだのです。(けが)れた身で町に戻ることは出来ないと判断したのでしょう。だから、ニンファの住民となることを自分に課したのです」


「……先生は、そう思ってらっしゃるのですね?」


「ええ」


「わたしのことも、穢れていると思っていますか?」


 先生は問いに答えることなく、けれどわたしの手を包み込んだままだった。


 今さら先生がどう思っていたとしても、それで動揺したりはしない。もう充分、心は動いた。一生分、感情が震え、崩れた。


 だから、いいんだ。どう思われていようと。質問すること自体、きっと間違ったことだったんだ。


 仮に先生が血族を軽蔑(けいべつ)していたとして、わたしには非難する権利なんてない。だって、同じだもの。ラルフの記憶を知っているかどうかは関係なしに、自分の身に血族の血が流れていることに動揺してしまった時点で、そこに蔑視(べっし)があったのは事実なのだと思う。血族と人間はなにも変わらないと口では言いながら、自分があちら側になってしまうことは嫌だったんだ。そういうことなんだ。


 なんて浅ましいんだろう。


「ニンファを去る途中、女の子に会ったのです」


 ああ、先生。続けるんだ。


「日の暮れかけた空を(なが)めてぼうっとしている彼女の肌は、人間のそれでした。年齢は三歳ほど。見た瞬間から、その子が何者なのか分かってしまいました」


「クロエ」


 自分の名前が、ほとんど無意識にこぼれた。


「ええ。それが貴女です。しかし、なにもかも分かっていないようでした。ニンファでなにが起こったのかも。自分自身の名前や、ニンファのこともすべて。私は、記憶を失った貴女の手を引いてトードリリーに帰還したのですよ」


 そして、孤児院で育てることにした。


 どこまでが院長の意志によるものなのか、判然としなかった。いっときの衝動(しょうどう)だったのかもしれない。


「……後悔しましたか?」


 曖昧な光と影が、段々と輪郭を整えていく。動揺から恢復(かいふく)したのかどうかはっきりしないけれど、少なくとも心因性の視力低下からは立ち直ったらしい。でも、これだって、わたしの身体を支配している奇妙な恢復力の賜物(たまもの)かも。いや、もうそれさえどうだっていい。視界は開けているほうが、何事も助かる。今だって、院長先生の顔がようやく見えてきて、微笑んでいるのが分かるから。


 彼女は(ゆる)く首を横に振った。


「いいえ。一度だって後悔しませんでしたよ」


「なんでですか? だって先生は血族を嫌ってるんでしょう?」


 先生ははっきりと返す。「それとこれとは関係ありません。大事なのは、貴女は当時子供であり、誰かの助けが必要だったということです。恩着せがましい意味ではなく、単に事実を申し上げているだけです」

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて


・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて


・『ニンファ』→トードリリーの西に位置する廃村。ラガニアから落ち延びた血族たちが作り上げた、血族のための村だった。トードリリーの夜間防衛を請け負う代わりに、人間の男を定期的に村へ逗留させるよう求めた。その理由は、人間の血を入れることで血族としての血を薄めるため。詳しくは『931.「末裔」』『933.「血族の村」』にて


・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より


・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて

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