935.「幸福論と副院長」
院長室のソファに腰を落ち着けると、押し出されるように深く長い吐息が出た。一応の礼儀として食器を下げに食堂に入ったら、案の定、目立ってしまったのである。子供たちの、好奇と不審の入り混じった視線に晒され、院長先生の紹介で軽く会釈し、精いっぱいの微笑。エリーさんの「おかわりあるわよ」攻撃をかわしてなんとか奥の洗い場で食器を洗い――その最中もエリーさんが気を回して「置きっぱなしでいいから!」と叫ぶのを「洗い物は好きなので、やらせてください」でなんとか凌いだ――再び食堂を通過して院長室に帰還したのである。
身体は疲れずとも気疲れはするんだ、と思いながら天井を見上げる。
もうじき院長先生が戻ってきて、話が再開されることだろう。それを思うと気がそわそわする。罰を待つ罪人ってこんな気持ちなのかな、と思って苦笑が漏れた。自分について知りたくてここまで来て、院長先生に迫ったのに。自傷行為に巻き込んでるみたいで、随分卑怯な感慨じゃないか。
「ヨハンはどうしてるんだろう」
声に出してみる。それどころじゃないくらい自分のことでいっぱいいっぱいなのに、独り言にしてみると、ちゃんと意識がそちらに逸れてくれた。
集会場で熱弁を振るうヨハン。不健康そのものの、まったくもって非力さしか感じない男の口から放たれる戦争の話は、住民の耳にどう響くだろう。でも彼は口達者だから――露骨に表現してしまうと、口先だけで人の心を右へ左へ振り回すのが大得意な男だから――多分それなりに真剣に聞こえるかも。少なくとも、戦争云々が狂った妄言だと一蹴されることはないだろう。きっと信じてもらえる。でも、そこまでだ。王都に協力するなんて流れにはならない。わたしたちの姿勢には賛意を示してくれるだろうけど、同じ戦場には立てないはずだ。院長先生がわたしに返した通りの答えにしかならない。
ノックの音がして、背筋を伸ばした。
「どうぞ」
「お待たせして申し訳ございません」
慇懃な言葉遣いとは裏腹に、姿を見せた先生の顔は平生の通り硬く引き締まった無表情だった。でも手には盆があって、湯気が立っている。スープの匂いを紅茶の香りが上塗りしていくようだった。
ローテーブルに置かれたふたつのコップは、両方とも木製だった。これなら落としても割れない。
「さっきは本当にごめんなさい。貴重なグラスを割ってしまって……」
「いえ、気にしないでください。誰だって失敗はします」
失敗。耳に入った言葉に、自然と口が開いてしまった。
「先生も失敗するんですか?」
「ええ。ときどきは」
「わたしを引き取ったのも失敗ですか?」
向かいのソファに座りかけた彼女の動きが止まる。でも、静止したのはほんの一瞬だけだった。
先生は何事もなかったかのように座り、こちらを見つめた。
「子供を育てることに、成功も失敗もありません」
正論だ。変な質問をぶつけてしまった自分が恥ずかしい。
けれども、胸のしこりは取れなかった。優しい正論とは別の本心があるんじゃないか。そう思ってしまうこと自体が間違いなのかもしれないけど。
「貴女はどうですか?」
思ってもいなかった反問が突き付けられ、息が詰まった。
自分のこれまでのすべてが、失敗だったか成功だったか。幸福だったか不幸だったか。
トードリリーを再訪する前なら、幸不幸に関係なく、わたしの歩みには意味があることや、まだ道の途中にいる以上、言えることはないのだということなんかを、真剣な目付きで返したかも。でも今は違う。今この瞬間だけかもしれないし、この先ずっとかもしれないけど、わたしはわたしの人生について総合的になにかを言ったりすることなんて出来ない。
だから――。
「分かりません」
こう言うしかなかった。せめて俯くことなく、先生をしっかりと見据えて。
院長先生は微かに頷いて、話頭を転じた。
「ニンファの話でしたね」
「はい。続きを聞かせてください。……どうして滅んだのか。そこに先生がどう関わっているのか」
ニンファ壊滅の原因は自分なのだと先生は告白した。どのように、なぜ滅びたのか。それを知りたい。
ふ、っと短く息を吐いて、先生は語り始めた。それまで通り、わたしの反応をいちいち待つことなく、淡々と。
「まず、孤児院の話から始めねばなりません。十数年前、ここには副院長がいました。孤児院建設の計画は彼と一緒に進めたのです」
その彼が、ニンファでの種付けに選ばれたのです、と院長は無感情に言った。誰がニンファ行きになるか、当時のトードリリーでは成人男性を集めてクジ引きで決めていたらしい。選ばれた者がどんな立場にあったとしても拒否出来ない。完全に公平であるために。既婚者が選ばれることもあったと院長は言う。
「その頃のトードリリーでは、血族は言うまでもなく忌まわしい存在でした。進んでニンファに行きたいなどと言う者は誰ひとりいません。彼もその点は同じでした。混乱し、嘆き、自殺さえ仄めかす彼をどう救えばよかったのか、今となっても分かりません」
ローテーブルに視線を落とす。紅茶の湯気はすっかり収まっていた。
「彼は私に『一緒に逃げてくれ』と言いました。でも、どうしても首を縦に振ることは出来なかったのです。彼の提案は、すべてを見捨てることと同義ですから。孤児院の子供たちを放り出すことになりますし、なにより長らく続いたニンファとの契約を破棄することになります。そうなればどんな悲劇がこの町を襲うか……考えるまでもありません。謝ることしか出来ない私を、彼は非難しました。口にするのも嫌な言葉で、何度も。ひと晩中私を罵った翌朝、彼はニンファへと旅立っていきました。そして、二度と戻ることはなかったのです」
ニンファへの滞在は数年――血族の女性が妊娠するまで続くと聞いている。二度と戻らなかったとは、どういうことなのか。
嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。
「彼が去って四年後でしょうか、王都からひとりの男が訪れました。偶然来たのではなく、私が呼んだのです。行商人に、王都の兵士への手紙を渡して。町の男がひとり連れ去られたので救出してほしい、と。……もちろん、それはニンファに対する反逆行為です。今後、彼らに守ってもらうことは出来なくなります。ですから、手紙を綴るまでに自警団を組織して、準備を進めたのです。ニンファの血族に露見すると大変ですから、実戦経験はありませんでしたが。……断っておきますが、私はあくまでも彼の救出と契約の破棄だけを望んでいたのです。村を滅ぼそうとまでは考えていませんでした。ですが、率直に言ってしまうと、そうなったとしても誰ひとり嘆かない状況だったのは事実です」
外で鳴る風の音が、やけに耳障りに響く。
「王都から来た男に、私はニンファまでの道を教えました。男はニンファへと出発してから半日とかからず帰還し、こう告げたのです。『君が救いたがっていた男はすでに死んでいた』『血族は野放しにしておけない』『だから全員殺した』と。嫌な話し方でした。本当に。無邪気に、嬉々としてそんな内容を報告したのです。今でもときどき夢に見ます」
一旦言葉を切り、先生は紅茶を飲んだ。眉間には皺が寄っている。演技ではなく、本当に嫌悪している表情だった。
吐息に紛れて先生の口からひとつの名前がこぼれたとき、わたしは吐き気を堪えて俯くほかなかった。
「オブライエン……その男の名です」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している
・『エリー』→トードリリーの孤児院の従業員。ふくよかな体型で温和な性格の女性
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて
・『ニンファ』→トードリリーの西に位置する廃村。ラガニアから落ち延びた血族たちが作り上げた、血族のための村だった。トードリリーの夜間防衛を請け負う代わりに、人間の男を定期的に村へ逗留させるよう求めた。その理由は、人間の血を入れることで血族としての血を薄めるため。詳しくは『931.「末裔」』『933.「血族の村」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




