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934.「夜の前景、あるいは最後の晩餐」

 不意に響いたノックの音と同時に、わたしの手を包んでいた温度がパッと離れた。向かいの院長先生が立ち上がってドアまで歩き、ノブを捻る動きを目で追う。


 流れるような動作だった。


「院長先生、夕食のお時間――あら、クロエちゃんじゃない!」


 扉の先で、エプロン姿のふくよかな女性が小さく手を振る。びっくりした表情から笑顔までの移り変わりに、なんだか感心してしまった。基本的に無表情で、感情の片鱗(へんりん)なのか肉体の反応なのか分からない程度の変化しかない院長先生と比較すると、その落差は圧倒的なものがある。


「お久しぶりです、エリーさん」


 お手伝いのエリーさんを見て、無性に(なご)む自分と、嫌なところに出くわしてしまったなあと感じる自分がいる。先生の話を聞く前か、あるいはすべてを聞き終え、真実に対して心が整ったときに――そんなときが来れば、だけど――会いたかった。こうしてぎこちなく微笑みを返している自分が、まるで嘘つきみたいに思えて仕方ない。さっぱりとした(いつわ)りのない笑顔を交わしたかったのだけれど、そうもいかない状態なのだった。


「クロエちゃんも一緒に食べるでしょう? いつも少し多めに作るから平気なのよ。ほら、子供たちも待ってるわよ」


「ごめんなさい、エリーさん。今満腹で……。院長先生とみんなで食べてください。わたしはここでのんびりしてますから」


「遠慮しちゃ駄目。たくさん食べなきゃ元気になれないわよ」


「充分元気です。お気遣(きづか)いありがとうございます」


 それ以上の問答が続いたら、息苦しさに耐えられなくなっていたかもしれない。だから、院長先生が「食事を終えたら戻ってきますので、申し訳ないですが少々お待ちくださいね」と言い、まだなにか言いたそうなエリーさんを(うなが)して去っていったとき、心の底からありがたく思った。


 孤児院の夕食はいつも午後六時きっかりだったと記憶している。今でもそうなんだろう。立ち上がって遮光カーテンをほんの少し開けると、外はすっかり夜だった。均一に刈られた芝が夜の底に沈んでいて、その先で敷地の鉄柵が街灯の光に濡れている。


 庭木になかば遮られた夜空を見上げていると、胸のざわめきが一層大きくなっていった。先生の話を聞いている(あいだ)ずっと自分が混乱していたことを、ようやく気付いた心地である。でも、それは決して良いことではなくて、混乱の(みなもと)が輪郭を整えていくという意味しか持っていない。


 本当に小さい頃、わたしにとって夜は『恐いもの』だった。魔物が徘徊(はいかい)する恐ろしい時間。先生やお手伝いさんから、魔物の存在は早くから教えてもらっていた。


 ――絶対に夜は孤児院から出ては駄目。恐い魔物がいるからね。


 幼いわたしは、夜を愚直に恐れていたのだ。勇敢さを披露したくてたまらない男の子たちは何度か孤児院の脱走を(くわだ)てたようだけど、一度として成功しなかったことを覚えている。彼らはみんな、脱出前に院長先生に見つかったのだ。


 王都で生活するようになってから、わたしにとって夜は恐怖の対象だけではなく、別の意味が加わった。


 戦わなければならないもの、だ。


 誰かが夜と真っ向から対峙してはじめて、ほかの人々の安らかな眠りが(たも)たれる。当然ながら危険と隣り合わせで、でも誰かが(にな)わなければならない仕事なのだ。騎士団として夜を過ごしていた頃のわたしは、そのことを心から崇高(すうこう)責務(せきむ)だと感じていた。ニコルに裏切られてからも、夜と、魔物と、自分自身との関係性は変わらない。魔物がもともと人間であることを知った時点で意識に揺らぎが生まれたものの、向かってくる敵を討つという点では同じだった。


 今こうしてカーテンの隙間から(なが)めている夜は、どうなのだろう。ガラス越しに自分の姿が反射していて、それは室内にいるというより、夜の前景になっているように見えた。


 わたしは血族で、つまりこれまで盲目的に敵だと信じ込んでいた相手そのもので、これから戦場で戦おうとしている勢力のほうにこそルーツがある。


 窓ガラスに(ひたい)がくっついて、それが妙にぬるく感じた。


「入ってもいいかしら?」


 ドア越しにエリーさんの声が聞こえて、思わず窓から身を離す。振り返ると、返事をする前にもうエリーさんが室内に入ってきていた。彼女は柔和(にゅうわ)な表情で、ひとり分の食事が乗った盆をローテーブルに置く。


「食べきれなかったら残してもいいからね」


 微笑むエリーさんは、(まぎ)れもなく親切心の(かたまり)だ。面食らっているわたしをソファまで引っ張って座らせるあたり、正しい強引さがある。それは素晴らしい優しさなんだ。今のわたしには素直に受け取る能力がないというだけで。


「クロエちゃん、オニオンスープ好きでしょう? ちゃんと覚えてるのよ」


 盆の上で湯気を立てているスープは、なんだか無性に懐かしかった。半透明になった玉ねぎが黄金色のスープに沈んでいる。手のひらサイズの不揃いな丸パンがふたつと、緑一色のサラダ。


「なにがあろうと、院長先生も、私も、クロエちゃんの味方よ」


 ハッとして顔を上げる。柔らかな(しわ)に包まれた瞳には、エリーさんなりの真剣みが(こも)っていた。


「あ、ありがとうございます……」


「なにも言わなくていいわ。私には全部分かってるもの」


「え?」


 ということは、エリーさんもわたしの正体について知ってるってこと……?


「だってクロエちゃん、随分思いつめた顔をしてるんだもの。嫌でも分かるわよ。男に振り回されたんでしょう? 故郷に戻るくらい傷付いたのね。分かるわ」


 ぷしゅ、と空気が抜けるように脱力してしまった。


 エリーさんはなにも知らない。そのことに安堵(あんど)しているわたしがいる。仮に彼女の反応が好意的なものであっても、わたしがさっき突き付けられたことをエリーさんには知ってほしくなかった。


「クロエちゃんくらい美人なら、そりゃあ男で苦労するわよ。そういうものよ」


 そういうものなんだろうか。ちっとも分からない。でもニコルに振り回されたのは事実だから、その意味では彼女は慧眼(けいがん)なのかも……。


「でもね、へこたれちゃ駄目」エリーさんはわたしの手を握る。「つらい思いをした分だけ、あなたは幸せになれるのよ。私が保証する。だから、ありのままの自分を大事になさい」


 幸せ。


 ありのままの自分。


 わたしはまるで小さな子供に戻ったように、こっくん、と一度だけ(うなず)いていた。ほとんど無意識に。


「クロエちゃんはとってもいい子だって、私、知ってるんだからね。ここにはちゃんとあなたの味方がいることを忘れないでいて」


「……はい」


「それじゃ、たくさん食べなね! おかわりが欲しかったら食堂に来ること。いいわね」


「うん」


 エリーさんは飛び切りの笑顔で何度か頷き、そして去っていった。バタン、と扉を響かせて。彼女はなにをするにも音が大きい。そのことをいつも院長先生に指摘されていたっけ。彼女は彼女のまま、なにを言われようと巨大な音を響かせて扉を閉めて生きてきたのだろう。アイデンティティと言えるほど大層なものじゃないけど、そういうことは、もしかするととても大事なのかもしれない。


 スープをひと(さじ)(すく)って、口に流す。


「おいしい」


 もうひと掬い。


「おいしい」


 パンも食べる。ひとつ丸ごと口に詰め込む。


「おいしい」


 サラダの皿を持って、ざざざっとフォークで(ひん)なく食べて(から)にする。


「おいしい」


 もうひとつの丸パンを、ちぎってはスープに(ひた)して口に入れる。


「おいしい」


 残ったスープを飲み干す。


「おいしい」


 あっという()に盆の上は(から)っぽになった。


 (にじ)んだ涙を、慌てて(そで)(ぬぐ)う。


 最初から最後まで、なんの味もしなかった。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐


・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している


・『エリー』→トードリリーの孤児院の従業員。ふくよかな体型で温和な性格の女性


・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて

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