933.「血族の村」
「遥か彼方の地から落ち延びた一族が住み着いて生まれたのが、ニンファという村です。はじめは数名だけで野営していたのが、時代を経るごとに少しずつ村としてのかたちを整えていったと、そう聞いています」
先生は真っ直ぐこちらを見つめ、控えめな抑揚で語りはじめた。最初とはソファの座り位置が真逆。わたしが紅茶を割ったからだけど、そんな些細なことがやけに気にかかってしまった。多分、照明のせいだ。ランプはちょうど先生の真後ろの壁にかかっていて、逆光で影ばかりが強調されている。
「トードリリーとの交流が生まれたのも大昔のことです。当時、この町は自警団を作って夜を乗り越えていました。しかし、完全ではなかったようですね。後進が育つ前に犠牲が出てしまう状況にあったそうです。彼ら――ニンファの住民と接触したのは、夜でした。強力な魔物が現れて、このままでは町全体が朝までもたないという悲惨な夜。ニンファの血族たちが加勢に現れたのです」
甘い香りが室内を満たしている。こぼした紅茶の匂いだ。先生の語り口とは正反対で、どうにも落ち着かない。
いや、そうじゃないことくらい分かってる。わたしがそわそわしてしまうのは、真実を知りたい気持ちと目を逸らしたい気持ちがせめぎ合っているからだ。
心を動かすな。話の表面に集中しろ。そんなふうに自分自身に言い聞かせる。自分のこととしてではなく、あくまでも他人事として聞くように、と。
「トードリリーの人々も、近隣に血族がいることは知っていました。とはいえ当時は知識もありませんでしたから、奇妙な肌の奇妙な存在が――自分たちとよく似た存在がいるというだけで、干渉することなく過ごしていたそうです。幸い近隣と言ってもそれなりに離れてはいましたし、水源や狩り場も別々でしたから、滅多に顔を合わすことはなかったらしいですね」
しかし、接触は生じた。危機を救う存在としてトードリリーに紫色の影が踊ったのだ。
ありがたいことに、先生はわたしの反応を気にせず次々と話を進めてくれる。
「トードリリーの人々は、血族に感謝を伝えました。彼らの助勢で魔物を退けることが出来たのですから当然でしょう。ただし、それで終わりにはなりませんでした。彼らはトードリリーに交渉を持ちかけたのです。自分たちが夜の安全を保障する代わりに――」
階上で子供の笑い声が弾けた。天井をすり抜けて届いたその声が、なんだかひどく羨ましい。
「――人間を捧げるよう、要求したのです」
頬の内側が切れて、錆臭い味が口に広がった。
事実だけを聞くんだ。他人事だ。わたしには関係ない。現在のわたしとは無関係な、大昔の出来事でしかないのは確かなのだから、感情を閉じ込めて耳だけを働かせるんだ。
「交渉の結果、トードリリーは町の男を定期的に……期限付きでニンファに滞在させることになりました。些か直接的な言葉になってしまいますが、ニンファの女が孕んだら帰還を許されるという関係性です。彼らは、血を薄めたかったのですよ。人間と番うことで、呪われた血が消えるのを夢見たのです。しかし、残念ながらあまり上手くいかなかったようですね。世代を経ても、産まれてくる子供たちは一様に紫の肌だったそうです」
ヨハンと毒食の魔女を思い浮かべる。あの二人は血族と人間のハーフで、肌も人間のそれと変わらない。彼らは特別な、稀有な存在なのかもしれない。あるいはニンファの血が――つまり体内の『アルテゴ』が――特別に濃かった可能性もある。
「トードリリーとニンファは、長い時間をそうやって過ごしてきました。行商人が来ても王都からの旅人が訪れても、決して変わることなく。ただ、町の外にはニンファの存在を隠すように努めたのは確かです。外部の知識が入り込んだ時点で、トードリリーの人々はニンファの住民に対する認識を改めました。彼らが魔物と近い存在である、と。しかし、今の関係を崩してしまったら夜を乗り越えるのは困難になりますし、なにより下手に刺激をしてしまったら襲撃される……そんな危惧もあったようで、住民だけで秘密を分かち合って生きていたのです」
血族と魔物の事実を、どうやら先生は誤認しているようだった。それも当然で、彼女はラルフの記憶を知らない。ラガニアとグレキランスの真実を、なにも知らない。
今こうして院長室に座っているわたしのことを、先生はどう思ってるんだろう。本当はすごく怯えているのかもしれない。それでも刺激しないように、慎重に、冷静に対処している。きっと子供たちを守るためだ。わたしという異物から。
乱れがちになっていた呼吸を、深く長く整える。
先走り過ぎだ、わたし。第一、先生はわたしを育ててくれたじゃないか。たとえそこに怖れのような感情があったとしても、無力な子供でしかなかったわたしを見放すことなく、ここで生活させてくれた。本当に怯えていたなら、孤児院で引き取るなんてしなかったはず。
そう。
きっとそうだ。
「ニンファが滅びたのは、そう昔ではありません。十年以上前のことです。貴女が三歳のときに滅びたのですよ」
……そんなこと知らなかった。なにも知らずに、今の今まで生きてきた。
トードリリーで過ごした幼少時代、記憶している限りでは『ニンファ』という単語は耳にしなかった。
自分の喉が、ひゅう、と鳴った。
「そんなに、最近なら、どうして誰も、話題に、しなかったんですか?」
「忘れたい物事だったのです。トードリリーの人々にとって、『ニンファ』という名には後ろ暗い意識がつきまとっていますから。曲がりなりにも彼らの力で存続し、発展してきた事実があります。そこから目を逸らして、トードリリーの住民による努力の末に現在があると思いたかったという心情もあるでしょうね。いずれにせよ、ニンファについて語ることはごく自然とタブーになったのです」
身勝手で、だけどありふれた考え方。誰だって嫌なものは見たくないし、早く忘れ去ってしまいたい。真実としてなかったことには出来ないとしても、考えないことによって、意識しないことによって、ある種の物事の現実性を極限まで薄めることは出来る。
「……なぜ滅びたんですか?」
つい十数年前まで存在していたのだ。壊滅にはそれなりの理由がある。
先生は長いまばたきをしてから、身を乗り出し、わたしの手を取った。
骨と皮ばかりの老いた手。それなのに、温かさと力強さを感じる。
「私のせいなのです」
彼女ははっきりとそう言った。
握った手に力が入るのを感じる。
「ですから、責めるなら私だけを責めてください。いいですね?」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『アルテゴ』→オブライエンの発明した兵器。『固形アルテゴ』『液化アルテゴ』『気化アルテゴ』がある。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ニンファ』→トードリリーの西に位置する廃村
・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




