932.「傷痕と偏見」
かつてのわたしは『黒の血族』に対して偏見を抱いていた。魔物に近い存在で、人間を脅かす絶対的な敵。それは王都に暮らす人々の共通認識で、幼い子供でも当たり前のようにそう捉えている。
血族と人間のハーフであるヨハンや、毒食の魔女。純血のリリーやルーカス。様々な血族との出会いで、わたしのなかに凝り固まっていた考えは徐々に氷解していったはずだ。ラルフの記憶によって人間と血族がまったく同じ存在なのだと知ったときも、それなりの動揺はあったけれど事実を受け入れるまでに時間はかからなかった。
喉の渇きがひどい。
グラスを持ち上げる手が、冗談みたいに震えてる。
すぐ向かいにいるはずの先生の姿が、やけに遠く、歪んで見えた。傾けたグラスが手をすり抜け、あっ、と思ったときにはけたたましい音が室内に反響した。
「ご、ごめんなさい、――っ!」
慌ててガラス片を拾い上げようと手を伸ばした直後、指先に鋭い痛みが走った。
床に染みつつある橙色の液体に、赤が混じる。
良かった。ちゃんと痛いし、ちゃんと血が流れる。
「クロエさん」
間近で声がして、ハッとして顔を上げると真横に院長先生の顔があった。
彼女はわたしの肩をやんわりと押す。強張ってるのに、自分の身体はなんの抵抗もせずに再びソファに沈み込んだ。
「ごめんなさい、せっかくいただいた紅茶を――」
「そんなことはいいんです」
言って、先生はわたしの右手を覗き込んだ。
人さし指の腹が真っ赤に染まっている。
「包帯を持ってきますので動かないでください。いいですか?」
「大丈夫です、このくらい平気ですから」
「動かずに待っていなさい」
有無を言わさない口調の先生に、思わず頷きを返していた。冷厳な声は昔の先生そのもので、なぜだか懐かしい。口調も態度もきっと先生としてはなにも変わらないのだろうけど、この瞬間にかけられた言葉は子供時代に耳にしたものと同じ温度と距離を感じた。物分かりの悪い子も、すぐさま黙らせてしまう声。人を俯かせる声。今でこそ、彼女のその態度は好感が持てた。優しいだけじゃ駄目なのだ。
扉が閉まり、靴音が遠ざかる。ほとんど一定のリズム。子供の頃のわたしなら、その靴音にさえ院長先生の無関心を感じて無駄に傷付いたことだろう。でも、小賢しく育ってしまった今のわたしは、先生が歩調さえも普段通りにコントロールしようとしているだけに過ぎないのだと気付いてしまっている。それを聞くわたしに不安を感じさせないための配慮なのだと。
ひとりになると、なんだか頭がぼうっとして、先生の言葉がぐるぐると反復された。
『貴女は血族の末裔なんです』
『なんで貴女でなく、ニコルさんが』
『貴女は血族』
『ニコルさん』
『――』
人間を裏切るなら、ニコルじゃなくてわたしのはず。なぜならわたしは血族の血を引いているから。先生の見せた動揺は、当たり前のものなんだろう。
なにか、ひどい勘違いなんじゃないの? と思ってはみたけれど、虚しい疑義だった。先生が物事を見誤ったのは記憶している限り一度もない。嘘を信じるような人でもない。じゃあ、なに。わたしって本当に、血族なの?
「うっ……」
なんで吐きそうになってるの、わたし。意味分かんない。だって、そんなの全然平気でしょ? だって人間も血族も同じなわけだし。同じだけの感情があって、同じように食べたり寝たりする。誰かのユーモアに笑って、気に入らないことがあれば腹が立つし、涙だって流れる。なんにも変わらない。変わらないんだ。
耳鳴りがひどい。悪寒もするし、鳥肌だって。深呼吸をしても、頭がくらくらして視界が揺れる。
魔物の気配を感じたときとよく似た身体の反応に気付いて、唇を噛んだ。痛みは、色んな感情を塗り替えてくれるくらい力強い。さっき切ったばかりの人さし指も、親指と中指で挟んだ。じくじくした痛みが走って、けれども徐々に遠ざかっていく。
「クロエさん」
いつの間に戻ったんだろう。先生はすぐ横にいて、わたしの右手を掴んだ。
「拭きますから、力を抜いてください」
そう言われて、ようやく手の力が抜けて親指と中指が開いてくれた。力が入ったり抜けたり、意識と肉体が連動していない。時間の感覚も欠けている。なにせ、先生はついさっき出ていったばかりで、まだ十秒も経っていないような気がしてたから。でも、現実は違うんだろう。先生は水のたっぷり入った桶と真っ白なタオル、そして包帯をちゃんと用意して戻ってきたのだ。
桶に浸したタオルで、わたしの手が包まれる。ぬるま湯だ。人肌よりも少しだけ温度が高い。いや、もしかするとこれは冷水で、わたしの手の感覚がおかしくなってるのかも。つまり体温がとても低いから、氷水よりも低いから、だから、温かく感じるのかも。
先生の手付きは慎重だった。脆いガラス細工を乾拭きするみたいに。
「包帯を――」
先生の声が空中に浮かんで消えた。
タオルから解放された指先は、なんだか青白かった。血はすっかり拭き取られている。指紋の襞が水分を含んで滑らかに光を吸い込んでいた。ついさっきまであったはずの傷はどこにもない。
「包帯は必要ないですね。床を片付けますので、向かいのソファに座っていてください」
先生はわたしが返事をするより先にしゃがみ込んで、ポケットから出した手袋を身に着けた。
立ち上がり、向かいに腰かける。ソファには先生のぬくもりが残っていた。
ガラスの触れ合う音だけが部屋に染み込んでいく。
「先生」
「なんですか?」
「最後まで話してくださいね」
ほんの一瞬、ガラスの音が途絶えた。一秒にも満たない音の空白が、やけに長く感じてしまう。
「ええ。もう隠しません。知っている限りお話しします」
ですが、と先生は続けた。
「クロエさん。いいのですか?」
このまま聞き続けていいのですか? その準備があるのですか? 心構えは充分なのですか? ……ぼかした言葉だったけれど、『いいですか?』にはいくつもの問いが――似たような問いが含まれている。
十数分前なら即答しただろう。目と耳に意識を集中し、なにひとつ取り逃すことのないようにして先生の言葉を待っただろう。
「聞くために来たんです」
やっとのことで返した言葉だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。本名はカトレア。故人。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『Side Winston.「ハナニラの白」』参照
・『ラルフ』→かつてオブライエンの家庭教師をした男。ラガニアで起きた悲劇の一部始終を『追体験可能な懺悔録』というかたちで遺した。『気化アルテゴ』の影響で小人となり、『岩蜘蛛の巣』にコミュニティを形成するに至った。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ルーカス』→『魔女の湿原』の北に広がる高原に住む『黒の血族』。銀色の梟面を身に着けた小太りの男。父である『巌窟王』と一緒に暮らしている。同じ血族であるマダムに攫った人間を提供していた。血族のみ参加出来るオークションで司会をしていたが、クビになった過去を持つ。クロエをオークションに出品する優先権を持っている。詳しくは『472.「ほんの少し先に」』『609.「垂涎の商品」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて