929.「運河を越えて、ふるさとへ」
すでに通過した道を再び歩むことは、ある意味で記憶を旅しているような風情がある。揺り起こされた思い出が、今現在の景色と常に対比され、どことなく郷愁めいた感情を呼び起こすのだ。否応なく頭に浮かぶ記憶が、考えなくてもいい諸々の不安たちを隅へ隅へと押しやってくれる。そうした心の動きを、わたしはありがたく感じた。直視したくない物事の代わりに、しっとりとした思い出が思考の大部分を柔らかく満たしてくれるのだから。
運河沿いの廃屋にたどり着いたのは、すっかり夜になってからだった。穿たれた穴はそのままで、しかし作業員の姿はない。多分、ラクローが引き揚げの指示を出したのだろう。運河を渡る大きな目的として竜人との接触があったわけで、その任をわたしが引き継いだ以上、もはや先の見えない掘削作業を続ける意味はないということだ。疲れ切った表情の割に手際のいい作業員たちの姿がないことに、少しの安堵を感じた自分がいる。
「お嬢さん、鍵を」
ヨハンに促されるまでもなく、布袋から鍵を取り出した。冷ややかな金属の感触が手のひらに伝わると同時に、脳内に膨大な情報が流れ込む。対岸まで続く地下道の、あらゆるルート、あらゆる形状が押し寄せてきて、なんだか眩暈がした。
目を閉じ、いくつものルートのなかのひとつを選び出す。地下に降りるまでは、馬で進行出来るよう傾斜の緩い坂道。そこからは一直線の道。運河を渡り切ってから地上へ出るまでの道は、同じく緩い上り坂。
目を開けると穿たれた穴は消えていて、代わりに広々とした下り坂が続いていた。
「お見事ですなぁ」
「簡単よ。鍵を持ってイメージするだけだもの」
鍵さえあれば誰でも出来る。頭に浮かんだ多くの可能な道のりのなかから、イメージに沿うものを選び出すだけのことなのだ。
馬に乗り込み、ヨハンはへらへらと言う。「レイブン氏の遠大な配慮ですな」
「そうね」
本当に彼の言う通りだ。誰にでも扱えるということが、レイブンにとって重要だったに違いないから。遥か未来で、誰かが自分の代わりにオブライエンを討つために。
手綱を引くと、馬はおそるおそるといった具合に暗闇の坂道を歩んだ。ぽくぽくと、蹄の音が耳に心地よい。
「寝てていいわよ」後ろのヨハンに呼びかける。蒸し返すのは嫌だけど、なるべく彼には楽にしていてほしい。「寄りかかっても平気だから」
「お優しいですなぁ。ま、遠慮しておきます。落馬したくないですからね。それに、ラクローさんの邸でたっぷり寝ましたから」
それなら、いっか。
馬は暗闇に慣れるにつれ、少しずつではあったが歩調を速めてくれた。
手綱と一緒に握り込んだ鍵は、依然として地下道の可能な分岐をいくつも脳に注いでいる。そのなかには当然、わたしの見知った部屋も存在した。
最後の渡し守。
永遠を手放すことに決めた女性。
キララ。
彼女の亡骸は、今も純白の部屋に留まっていることだろう。
運河を渡り終えて地上に出ると、魔物の気配がそこここでしていた。視界に何体かグールの影も見える。
対岸とは打って変わって、こちらは緑少ない荒野である。もっとも、今は星明りで物の輪郭くらいしか見えないけど。
速度を上げて一気に進んでいく。湧き出る魔物に目もくれず。そうして空が白む頃、荒野の廃墟――ルピナスに到着した。
「この先にオアシスがありますよね? そこで一旦休憩しましょう」
案外、ヨハンの声は平常通りだった。眠そうな印象はないし、疲れも見えない。とはいえ休憩は賛成だ。馬を休ませてあげたいし、なによりヨハンの具合も少し気になっている。
荒れ果てた廃墟を直進していると、抉れた地面が目に入った。自然に朽ちたとは言い難い砕けた岩壁も視界に飛び込んでくる。
「ここはお嬢さんが大立ち回りをした場所ですね」
「大立ち回りって……不可抗力で戦わなきゃいけなかっただけよ」
『守護騎士』を名乗る鎧の男――フェルナンデスの姿を思い出す。『霊山』へと進む道中、わたしたちは彼に襲撃されたのだ。何度倒しても立ち上がってくる男に、結局勝つことは出来なかった。それも当然で、鎧の男は妄想の産物、つまりは決して倒すことの出来ない存在だったのだから。その正体は王都の元騎士で、現在はトードリリーの孤児院の地下室で寝たきりになっている老人である。
懐かしい、と素直に感じてしまった。まるで遠い昔のことのように思える。今もフェルナンデスは、孤児院長に世話をされているのだろう。そして夜毎、自分の理想を顕現させ、トードリリーの平和を守っているに違いない。
「あの老人も戦力に出来ませんかねぇ?」
頭の後ろに響いたへらへら声は、わたしの胸中にあった期待を見事に引きずり出した。
フェルナンデスのことを思い出したときにはすでに、ずうずうしい思いが芽生えていたのだ。
けれど――。
「難しいでしょうね。フェルナンデスはトードリリーを守る気持ちだけで騎士を生み出してるから」
トードリリーの周辺が戦場になるなら別だけど、その可能性は低いだろう。血族の世界――つまりラガニアとの境界線である『毒色原野』は王都の北東だ。西側まで血族が迂回して攻めてくる確率は低いと思う。王都を包囲するにしても、わざわざ運河の先から手を伸ばすのは非効率でしかない。そう考えると、トードリリーの人々はあらかじめ戦火から無縁ともいえる。
少しだけホッとした。
「この調子で行けば、夜にはお嬢さんの故郷ですな」
「そうね」
のんびりするつもりはない。ベアトリスとの約束の日まであと九日あるとしても、だ。
昇る朝陽に照らされて、荒野のあちこちに濃淡様々な靄が立ちのぼっていた。地平線は曖昧にぼやけているのに、遠方の山際は却ってくっきりとした輪郭を描いている。
「ついでにトードリリーで兵士を集めましょう。当初西を目指していた理由はそれですし」
「……うん」
少しでも戦力を増やしたいのは事実で、だからこそ運河の先の町々を――現存する町は随分と少ないにせよ――勧誘する目的だった。ベアトリスとの協力とは比べものにならないほど小さな力だろうけど、無意味ではない。とりあえずは『霊山』へ向かうのが最優先だけど、ちょうど道中にあるトードリリーに協力を申し入れるのは妥当だと思う。
「ねえ、ヨハン」
「なんでしょう」
「交渉、頼んでもいい?」
「いいですけど、珍しいですね。何事も率先してやるのがお嬢さんの信条だと思いましたが」
全然皮肉じゃない言葉なのに、皮肉っぽく聞こえるから不思議だ。ヨハンが言うと、褒め言葉さえ含みがあるように感じてしまう。まあ、皮肉でもいいけど。
交渉に自信がないとか、積極的に動きたくないとか、そんな理由じゃない。
「ちょっと用事があるの」
「へえ、なんです?」
「秘密」
それ以上聞いてこないヨハンは、やはりというかなんというか察しがいいし、それなりに優しいんだろう。
朝靄の向こうにぼんやりと、記憶のなかの孤児院の一室が滲んだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『孤児院長』→トードリリーにある孤児院の院長。名はレイラ。鉄面皮で知られており、感情を表に出すことはなく、常に無表情。幼い頃は自分も孤児だった。寝たきりの状態であるフェルナンデスを孤児院の地下で世話している
・『キララ』→廃墟に接する運河の、渡し守を担う女性。元々は渡し守の家柄ではなく、そこの召使いでしかなかった。詳しくは『第三章 第二話「妖精王と渡し守」』にて
・『フェルナンデス』→孤児院の地下で看病されている、寝たきりの老人。トードリリー出身であり、王都で騎士をしていた過去を持つ。実体を持つ幻を創り出す魔術『夢幻灯篭』を使うことにより、トードリリーの夜間防衛を担っている。創り出す幻は、『守護騎士フェルナンデス』『従士パンサー』『愛馬ロシナンテ』の三つ。『夢幻灯篭』とは別に、魂を奪う力も持っており、幼少時代のクロエは彼に魂を奪われたことがある。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『毒色原野』→人も血族も住まない荒廃した土地。グレキランスの人間は『中立地帯』と呼んでいる。夜会卿の統べる都市とキュラスとの中間に広がった荒野を指す。常に濃い靄に覆われており、毒霧が発生しているとの噂がある。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』にて
・『ルピナス』→クロエたちがフェルナンデスの襲撃を受けた廃墟。運河とトードリリーの間に位置する。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて
・『トードリリー』→クロエが子供時代を過ごした孤児院がある町。詳しくは『第三章 第三話「夜の守護騎士」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




