927.「死に嫌われている」
「いやはや、ご苦労様です。愉快な勘違いでしたなぁ、お嬢さん」
優に三人は腰かけられるくらいのソファを占領し、背もたれに両腕を広げて足を組んだヨハンは、わたしを見るなりそう言った。「ヒヒヒ」と薄気味悪い笑いを漏らして。
きっちりメイクされたままのベッドが壁際の一角を占めるこの部屋は、富裕な町の長が持つ最上級のゲストルームとしてあまりにしっくりくる空間だった。家具はほとんど白で統一されていて、毛足の長いカーペットは薄黄色。グレーの革張りソファが良いアクセントになっている。唯一の異物は、この部屋の使用を許された不健康・不健全・不潔・不真面目・不道徳な男だけだ。
半日と少し。ヨハンと離れていた時間はたったそれだけなのに、ヘイズで味わった諸々のせいで、なんだか久しぶりの再会のように感じてしまう。だから開口一番の皮肉に、呆れるよりも安堵が押し寄せたのは自然な心の動きなのだと思う。
「言いたいことは山ほどあるけど」ソファを半分譲ったヨハンを眺めて、部屋の入り口に立ったまま言う。「出発するわよ」
ちょっとした誤解騒動ののちに、わたしはヘイズからマグオートへと転移した。ベアトリスは約束通り、なんの危害も加えることなく元の土地に帰してくれたのだ。最初に彼と邂逅した部屋からマグオートの地下までは、まばたきひとつだった。『目を閉じて、再び開いたときにはマグオートだ』と説明してくれた通り、あっという間の長距離移動である。
それから町長の邸の一階へと登ると、ちょうど床を拭いていたメイドに『お帰りなさいませ。お連れ様のお部屋までご案内いたします』と導かれてヨハンと再会したのである。あれよあれよという間の出来事だ。はじめて顔を合わせるメイドでさえ万事心得ている雰囲気で、それがなんとも不思議に思えたのだけれど、町長の邸を出る間際に疑問は氷解した。辞去を告げるべく応接間でラクローに会い、そこで全部はっきりしたのである。ヘイズで行われた層間会議の場に彼も出席しており、おおよその交渉の流れを把握していたのだ。
『貴女は、かの地の信頼を勝ち得た。私から言うことはなにもありません』
別れ際のラクローの言葉だ。彼が応接間のソファに沈み込んでそう言ったとき、わたしとヨハンは思わず顔を見合わせてしまった。わたしとベアトリスの間で交わされた約束事は、決してマグオートと無関係ではない。それなのにラクローは徹頭徹尾、当事者ではないような素振りを見せた。ヘイズとマグオートについて知った内容は他言無用だと釘を刺されただけで、あとは知らぬ存ぜぬの態度は揺るがないままだったのである。かくしてわたしたちは邸を――マグオートを――去ることとなった。
そして今、町を出て、風を切って馬で進んでいるというわけだ。ヨハンから回収した眼帯で視界が半分になっているけれど、馬の扱いに支障はない。
「随分あっさりしてたわね」と背後のヨハンに呼びかける。
「まあ、あんなものでしょう。責任を取るのは嫌なものですからね」
ヨハンの言う通り、ラクローは一切をベアトリスに任せている向きがあった。どんな些細なことであれ、なにかを決めるのには負担が伴うし、決めたことの責任から逃れるのは難しい。選択や決定につきまとう懊悩を避けるというのがラクローのやり方なら、わたしはなにも言うことはない。個人的には好ましくない態度だとは思うけど、考え方はそれぞれだから。
「我々は我々にとっての最善を尽くすだけです。その意味では、町長殿と大して変わらないですよ」
「そうかもね」
異論はあるけど、あえて言うほどではない。同じだとか違うとか、そんなものは重要ではないのだ。
土煙の先を見つめながら、わたしたちにとって最善のシナリオを思い描く。すなわち、ベアトリスと夜会卿の対峙だ。具体的にどのタイミングでそれが訪れるかは確かではないけど、想像は出来る。たとえば、夜会卿を含めた彼らの腹心たちが王都に切り込んでくる瞬間がやってくると考えてみる。王都側の兵士を正面に見据えた彼の背中に、ベアトリスのかたちなき刃が伸びるのだ。夜会卿の本隊は、人間と裏切者とに囲まれて消し炭になる。そしてそのままベアトリスは人間側に加勢して血族を退ける――。
どれほど現実的なんだろう、と改めて思ってしまう。確率を正しく導き出すことは出来ないけれど、上手くいく可能性が高くないことだけは確かだ。そんな甘い敵を相手にしているつもりはない。
「すべてが上手く転んだとしても、せいぜい撤退させる程度でしょうな」
わたしの沈黙から何事か察したのか、ヨハンがそんなことを言った。
「撤退?」
「夜会卿のことですよ。言っておきますが、ベアトリスさんが奴を討伐出来るだなんて思わないでくださいね」
「そうでもないわよ。あなただって、わたしの片目を通して見たでしょ? ほら、集合墓地での攻撃のことよ。貴品を上手く使えば、倒せる可能性はゼロじゃないわ」
本心を言うと、もうベアトリスには貴品を使ってほしくない。彼の身体のうち、残された部分は首から上だけ。夜会卿を倒すために全力を尽くすという意志は尊重するけれど、それで彼が消滅してしまうのは……なんか、嫌なのだ。この考えが甘ったるい感傷を含んでいることは重々承知してるし、犠牲なしにやり遂げられるような簡単な物事じゃないんだって分かってるんだけど。
「ゼロですよ」
背後のヨハンが、きっぱりと言い放つ。
さすがにちょっと、ムッとしてしまった。
「なんでそう言い切れるのよ」
「言い切れるんですよ。ベアトリスさんもそのあたりのことは分かってるんじゃないですかね? 敵の正体も知らずに突っ込むなんてことはないでしょうから」
「だから、どういうことなのよ」
「死なないんですよ、奴は」
死なない。ヨハンの言葉を頭のなかで繰り返す。死なない。
「魔王と同じく、不老者ってことでしょ? それって寿命がないってだけで、死なないわけじゃないわ」
肉体が損なわれれば死ぬはず。老いることがないだけで、死の全部の側面を凌駕しているわけではない。
――そう思っていたのだけど、事実は違うらしい。
「奴は不死者なんですよ。言葉のあやではなく、正真正銘、死に嫌われてるんです。拒絶されていると言ってもいいかもしれませんね。……血族が特別な力を有しているのはご存じでしょう?」
「ええ」
それは知っている。誰しも、というわけではないだろうけど、血族のなかには魔術とは異なる説明のつかない異能を持っている者がいるのだ。
「夜会卿の場合、それが『不死の力』というわけでさあ。身体をバラバラにしても、核を中心にして再生します」
「……再生?」
「たとえば、四肢と首を切ったとしましょうか。すると、手足と顔は溶けて消えますが、胴体から欠損した部位が生えてくるんです。溶岩に投げ込んだとしても核は決して溶解しませんので、肉体の再生はきっちり行われます」
なにそれ。
「……じゃあ、誰にも倒せないってこと?」
「ええ。あのニコルさんでさえ駄目でした。数十回殺したのちに諦めたんですよ」
そんなの、逃げるしかないじゃない。というか、不死者を相手に宣戦布告するなんてどういうこと……?
わたしの疑問を察したのか、ヨハンは言葉を続けた。
「とはいえ、勢力さえ剥いでしまえば夜会卿も脅威ではありません。死なないだけですから。厄介なのは彼の手にしている人員の数ですよ。さすがに孤立無援の状況で健気に戦い続けるほどの意志は夜会卿にありません」
言っていることは分からないでもない。胸に広がる絶望感を晴らすにはほど遠いけど。
とにもかくにも、今は目先の目的に向かって進んでいくしかなかった。遥か西――竜人の住処まで。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→クロエの幼馴染。魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺膝下』
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




