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921.「祝宴と妻」

 居住区に戻る頃にはすっかり魔物の気配はなくなっていた。


 出発したときと同様、人目を忍んでベアトリスの邸宅に戻ってからマグオートへ転移するものとばかり思っていたのだけれど――。


「人間の女が集合墓地の怪物を討つなんて……信じられん! 快挙だ!」

「やっぱり魔術かい?」

「違えよ、(あね)さんは剣士だって」

「皿が()いてるぞ! 早くご馳走を用意するんだ!」


 大樹のそばに設けられた即席の宴会場で、もうかれこれ一時間は揉みくちゃにされている。広場一面に紫の人だかり。住民たちが持ち寄った椅子やテーブルには()えず料理が運ばれて、そこかしこで太鼓やら笛の愉快な音楽が鳴っている。


 祝宴の中心にいるのは言うまでもなくわたしだ。褒めたり(たた)えたりされるのは決して嫌じゃないけれど、数えきれないくらいの人々がみんなわたしに注目しているというのは、なんだかとても恥ずかしい気分になる。それもこれもベアトリスの(はか)らいで、けれど肝心の彼の姿はここにはない。


「あ、カイル!」


 ちょうど給仕をしに来たベアトリスの召使いに呼びかける。すると彼は、なんだか含みのあるニヤニヤ笑いを浮かべ、わたしのそばにやって来た。「なんでしょう、クロエ様」


「様なんて付けないで頂戴(ちょうだい)。……ベアトリス卿はまだ忙しいの?」


「まだ会談中でございます」


 ヘイズ各層の長を集め、集合墓地の件について会議を行う。ベアトリスはそう言い残して邸宅に引っ込んでしまったのだ。彼がバルコニーから顔を(のぞ)かせないかと何度か視線を送っているのだけれど、ちっとも漆黒の鎧姿は見えやしない。


 居住区に帰還するや(いな)や、わたしとベアトリスは住民に取り囲まれてしまったのだ。どうやら先に帰還した兵士がわたしたちのことを漏らしてしまったようで、全住民が居住区の出入り口で今か今かと帰りを待っていたらしい。当然わたしは動揺したし、どうしようと困惑したのだけれど、ベアトリスはこの状況を淡々と受け入れた様子だった。ルチルの介抱(かいほう)を兵士たちに命じ、(つど)った血族たちにこう言い放ったのである。


『集合墓地の魔物は消えた。この者――マグオートからの来訪者クロエによって。英雄を讃える宴を準備せよ。本日の労働はなしだ』


 今回の勝利はわたしだけのものではない。というかベアトリスがいなければ倒せなかったのだから、彼こそが讃えられるべきなのだ。しかしわたしが反論する(すき)もなく方々(ほうぼう)で歓声が上がり、(とう)のベアトリスは会議のことをわたしに耳打ちして去ってしまったのである。かくして尊崇(そんすう)の眼差し輝く人々に手を引かれ、あれよあれよと宴会の中心に導かれた次第(しだい)である。


「クロエさん、俺はね」無精髭の男が顔を寄せる。お酒臭い。「正直人間を舐めてたよ。魔物と戦うことなんて出来やしねえだろうと思ってたんだ。それが、ベアトリス様も勝てねえような怪物を倒しちまうんだからよ、とんでもねえことだ。世界は広いな」


「倒したのはベアトリス卿なのよ。わたしは手を貸しただけで――」


「アンタって人は謙虚だねえ」


 男に軽く肩を叩かれて、苦笑するしかなかった。こんな具合のやり取りをもう何度繰り返したことやら分からない。


「クロエ様」


「だから様は付けないで、カイル。呼び捨てでいいから」


「そういうわけにはまいりません」


 言って、カイルはわたしのコップに根汁(ねじる)(そそ)ぐ。


「ありがとう。でも、もうお腹いっぱいなの」


「ご遠慮なさらずに」ニッコリ微笑んだ召使いが、サッとわたしの耳に口を寄せた。「しかし、このような危険行為は今回限りにしてくださいね。いくら二人きりになりたいからといっても」


「んえ?」


 二人きり? いや、そんなつもりは一切ないんだけど。


 やっぱりカイルは色々と誤解している。ベアトリスの邸宅でのことが多分原因だろう。この機会に訂正しないと――と思った矢先、召使いは人波に(まぎ)れて消えてしまった。


 あとを追おうと腰を上げかけたところで、肩をちょんちょんと叩かれた。見ると、先ほどの無精髭の酔っ払いは消えていて、長い黒髪を後ろで(たば)ねた、鼻の高い女性がいた。伏し目がちで眉が薄く、口も小さい。そのせいか薄幸(はっこう)な印象だった。


「このたびは、本当になんとお礼を申し上げて良いか……」


 消え入りそうな小声が耳に届いた。


(うつろ)の母』を倒した件だろうと思って、もはや定型句と化した台詞を返す。「魔物を倒したのはベアトリス卿で、わたしはちょっと手助けしただけよ」


 女性は手を前に組み合わせ、深々とお辞儀をした。


「ルチルを――夫を助けていただき、心から感謝いたします」


「え? あっ」


 そういえば、ルチルは近々結婚する予定なんだっけ。すっかり忘れてた。じゃあ目の前のこの女性がお相手ということだろう。


 謙遜(けんそん)の言葉が喉まで昇って、引っ込んだ。その代わり、慎重に言葉を選ぶ。


「早く目覚めるよう祈ってるわ」


 ルチルは結局、ベアトリスに背負われたままこの場所に戻ったのだ。生きてはいる。が、意識はない。死んでしまうことと比べれば(はる)かにマシだけれど、今の状況を手放しで喜べないのも事実だ。


「昨晩の守護にあたっていた者から聞きました。あなたが夫の救出を申し出てくださったんですね。あなたのお申し出がなければ、夫はこの世にいませんでした。本当に、本当にありがとうございます」


「お礼は大丈夫よ。ルチルのそばにいてあげて」


 目が覚めたとき、一番最初に見る顔が彼女であってほしい。そう思ってしまうのはきっと自然なことだろう。でも、目覚める保証のない者のそばに(はべ)ることは苦しくもある。それでも彼女に必要なのは祝宴の空気ではなく、眠る夫の顔であるように思えたのだ。


 彼女は頭を下げたまま、わたしの手を握った。決して強い力ではないし、震えてさえいたけれど、不思議と弱々しさは感じない。


「ありがとうございます」


 最後にそう繰り返し、顔を上げてからまた一礼し、彼女は去っていった。


 やがて彼女の姿が見えなくなり、徐々に喧騒(けんそう)が大きくなっていった。そのときになってようやく、先ほどまで皆が息を()んでわたしたちに注目していたことに気付いた。反動からか、今は空気が弛緩(しかん)している。


 目を閉じ、自発的に動くことはないけれど生きているルチル。現在の彼について想うと、どうしても別のイメージも脳裏(のうり)に浮かんでくる。彼の()(かた)の対岸には、集合墓地の靴音があった。(みずか)ら立ち、歩くが、決して生きてはいない亡者。両者を比較する意味なんてないことは分かっていても頭から離れてくれない。そのイメージは容易に『虚の母』へと発展していって、裸身の女性へと結びつく。そして彼女の消滅後、(いた)むように膝を突いたベアトリスの姿まで(つら)なっていく。すると急に布袋が心配になって、膝の上のそれに手のひらを添えた。


 ベアトリスがどう思っているのか知らないけれど、わたしはやっぱり『固形アルテゴ』が『虚の母』の体内にあったという考えを(ぬぐ)えない。彼女の消えた場所にたまたまあっただけという可能性を、どうしても信じてあげられない。


「クロエ様、ご気分が優れませんか?」


 不意に話しかけられたので慌てて顔を上げると、カイルが覗き込んでいた。


「いいえ、考え事をしてただけよ」


「そうですか。こう言っては失礼かもしれませんが、随分と悲しそうな顔をしてらしたので」


「大丈夫、なんでもないわ」


 気を引き()めて笑顔を送った。感情は制御出来なくても、あまり表に出さないようにしないと駄目だ。少なくとも余計な心配をされない程度には。


「さあ、お立ちになってください」カイルが(うやうや)しくわたしの手を取る。「会談が終わりました。ベアトリス様がお呼びです」

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて


・『固形アルテゴ』→オブライエンの発明した生物兵器。固形。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて


・『マグオート』→文化的、経済的に成熟した街。王都から流れてきた富豪が多く住む。トムとマーチの故郷。別名『銀嶺(ぎんりょう)膝下(しっか)

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