920.「危険物を背に」
「奇特だな、お前は」
居住区へと戻る道のりは、代わり映えのしない赤黒い起伏に覆われた隘路だった。ベアトリスと肩を並べながらようやく歩ける程度の通路が延々と続いている。彼の肩には、気を失ったルチル。集合墓地で意識まで恢復することはなかったけれど、心臓は動いているし、呼吸もある。どうあれ、生きていることは幸運だった。
「人間に扱える代物ではないぞ、毒石は」
隣で呆れたように言うベアトリスに、「いいでしょ、別に。ほうっておいても危険なだけだし」と返すほかなかった。
今、わたしの背負った布袋にはとびきりの危険物が入っている。集合墓地で拾った分厚いガラス瓶に密閉された、滑らかな漆黒の石。ベアトリスが『毒石』と呼ぶ物体。その正体を彼に告げぬまま、わたしが管理すると申し出たのだ。当然ながら怪訝な反応を受け取ったわけだけど、『虚の母』を討伐した報酬として貰うことで最終的に合意してくれたのである。
集合墓地の広場を出て以来、わたしの耳は現実の音しか拾っていない。ヨハンの交信魔術は途絶えていた。必要なことは伝えたし、物事は理想通りに推移しているのだろう、彼にとって。
『固形アルテゴ』。わたしの得た報酬は、かつてラガニアに悲劇をもたらした物質だ。人々を血族と魔物と他種族に変え、今この瞬間まで連綿と続いている分断の原因と言ってもいい物体。
ヨハンは、それを回収するよう命じた。誰にも正体を告げるなと付け加えて。
『いいですか、お嬢さん。それはわたしたちにとって最大と言ってもいいほど強力な武器になります』
断言するヨハンの声に言い返すことが出来れば、と歯噛みしたのは言うまでもない。『アルテゴ』が悲劇しか生まない兵器だってことくらい彼も分かってるはずじゃないの? それを武器に使うなんて倫理観の欠片もない。まあ、彼に常識的なブレーキが備わっていないことは知ってるけど。
抵抗を感じたくせに、こうしてキッチリ回収してしまった自分が少し情けない。でも、このまま地下に放置出来ないのも事実だった。ヨハンに会ったら問い詰めてやる。絶対に。
「毒石を」
ベアトリスの声で、思考が一旦停止する。
「利用しようと思うな。生物として一線を越えたくなければ」
名前は違えど、手出ししてはいけない物体であることはベアトリスも認識しているらしい。
肉体を蝕む。毒石について、ベアトリスはそのように語っていたっけ。そして広場で彼は、実在を疑うような素振りも見せた。
「毒石のことなんだけど、昔なにかあったの?」
この土地で。存在が薄れるほど過去に。
「大昔……何百年前になるか知らんが、地底の開拓者たちが遺した日誌がある」
がしゃがしゃと、一歩ごとに鎧が鳴る。
わたしは返事をすることなく、次の言葉を待った。
「ある日、開拓者たちは地底湖を発見した。彼らは水質調査を兼ねて水底を浚い、そして奇妙な石を見つけたのだ。周囲のどの物質とも違う、ひと塊の石。もしかすると希少な宝石か、未知の素材かもしれない。開拓者のひとりはそれを持ち帰ろうとしたらしい」
一拍置いて、彼は続けた。
「開拓者たちはその晩、地底湖のそばで夜を明かした。交代で魔物の相手をしながら。二人が地底湖の横穴にこもって休息し、残った三人で戦う。その予定だったらしい。交代の時間になって横穴に戻ると、そこには異常な光景が広がっていたと記してある」
「異常な光景?」
「二人分の、融解した肉と臓物が散らばっていた」
思わず口元を押さえてしまった。
「三人はすぐに荷物を持って帰還することに決めた。道中の魔物を相手にしながらでも、一刻も早く逃げねばと思ったらしい。正体不明の怪物に怯えたのだ」
何者かが潜んでいて、横穴の二人を異常な方法で始末した。わたしもその状況なら、きっと同じ想像をし、同じ行動を取るだろう。横穴の入り口がひとつで、そこへ迫る魔物を狩っているという状況を頭に描く。魔物の侵入を許した覚えのない横穴内で、謎の死を遂げた二人の仲間。普通じゃない魔物がいると思うのは自然だ。なにせ、夜に訪れる脅威はそれだけなのだから。
「帰路をたどるなか、開拓者のひとりは手元で日誌を書き続けた。たとえ自分が死んだとしても、脅威の存在を伝える役目を忘れなかったのだ」
わたしたちが今まさにたどっている道のりに、三人の男たちの姿を重ね合わせる。彼らの表情は怯えと恐怖と責任感で濃厚に彩られていた。吐く息は荒く、歯軋りの重奏が響く。
「しんがりが融けた。日誌にはそう書いてあった。三人とも魔物には充分に注意を払っていた。もし怪物がいるとしても、なんの音も立てず、気配も消して襲撃するなど不可能だ……普通はな。筆記者は脇目も振らず逃げようとしたが、もうひとりの開拓者がそれを止めた。石を回収しなければ、と。……そう、しんがりの男は石を運んでいたのだ。そんなもの放っておけと、筆記者はそう思ったらしいが、遅かった。筆記者が足を止めて振り返ると、もうひとりの開拓者は融けた仲間の遺骸から石を回収したところだった。そして見たのだ。石を握った彼の腕が黒く融け落ちる様を。またたく間に全身が融けてしまって、ついに筆記者ひとりになった。そこでようやく気付いたらしい。怪物はその石だったのだと。石は触れる生物を蝕み、融かしてしまうと」
布袋を負った背中が、ぞわぞわと粟立った。
わたしが毒石――否、『固形アルテゴ』を回収するときにはもちろん直接触れなかった。ベアトリスの指示で、木切れを使って瓶に収めたのだ。
一歩間違えばわたしも開拓者と同じ運命をたどってた?
「開拓者はそれから、ガラス瓶に石を封じて地底湖まで戻ったらしい。そして、地底湖のどこかに埋めた」
日誌はそこで終わっていたらしい。以後、開拓者がどうなったかは分からない。なんにせよ、日誌の内容は居住区の血族たちに共有され、毒石という名で伝わったのだ。決して触れてはならない危険物だと。
「相当危ない物なのね」
「そうだ。直接触れなければ問題ないようだが、それも日誌で読む限りの情報でしかない。お前が所持することに反対した理由を分かってくれたか?」
「ええ……」
でも、布袋のなかの危険物をここで放り出すつもりはない。
『固形アルテゴ』が具体的に作用するのは、気化してからだ。その前に液体になる必要がある。少なくとも、オブライエンの言では。
『固形アルテゴ』を液化させる方法は知らないけど、おそらく、開拓者が発見した時点で液化の手前の段階だったんじゃなかろうかと思う。たとえば表面だけが液化したとか。それに触れたものだから、肉体が変化を強制された……そんな理由ではないか。証明することは出来ないけど。
「今なら私が毒石を始末するが……どうする?」
ベアトリスは足を止めずに問う。
彼はヘイズの構造に熟知しているのだろう。誰も足を踏み入れない場所だって、いくつか存在するに違いない。
でも――。
「いいえ、結構よ。わたしが持ち帰るわ。でも、毒石が見つかったことは秘密にしてくれない?」
「言われずともそうする。余計な混乱を招くだけだからな」
ヨハンの思惑がどこにあるのか。それはこれから問い詰めることだけれど、少なくとも、彼ならこの危険物を御せるように思えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『オブライエン』→身体の大部分を魔力の籠った機械で補助する男。王都内の魔具および魔術関連の統括機関『魔具制御局』の局長。自分の身体を作り出した職人を探しているが、真意は不明。茶目っ気のある紳士。騎士団ナンバー1、紫電のザムザを使って『毒食の魔女』を死に至らしめたとされる。全身が液体魔具『シルバームーン』で構築された不死者。かつてのグラキランス領主の息子であり、ラガニアの人々を魔物・他種族・血族に変異させ、実質的に滅亡させた張本人。詳しくは『345.「機械仕掛けの紳士」』『360.「彼だけの目的地」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ヨハンの交信魔術』→耳打ちの魔術。初出は『31.「作戦外作戦」』
・『アルテゴ』→オブライエンの発明した生物兵器。『固形アルテゴ』『液化アルテゴ』『気化アルテゴ』がある。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『固形アルテゴ』→オブライエンの発明した生物兵器。固形。詳しくは『間章「亡国懺悔録」 幕間37.「アルテゴ」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。人間と比較して長命。もともとは王都の敵国であったラガニアの人々のごく一部が、オブライエンの生み出した生物兵器『気化アルテゴ』のよって変異した姿。詳しくは『90.「黒の血族」』『間章「亡国懺悔録」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域、と思われている。実際はグレキランスを領地として治めていた一大国家。オブライエンの仕業により、今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』より




