10.「使命と責任 ~スライムゼリーを添えて~」
靴音がして前を見ると、二コルがいつもの微笑を湛えて歩いてくる。その隣にはアイツがいた。指は再生したようで、薬指に煌めく宝石が憎らしい。彼らはわたしが床に倒れていることに気付かないようで、ずんずん歩いてくる。途中で魔王が手を差し伸べ、二コルはそれを握った。
恋人繋ぎ。
顔の血管がどくどくと脈打つのを感じた。二人は睦ましげに語り合いながらこちらへ近づいてくる。わたしは以前と同様に、指一本動かせなかった。またしても触覚奪取の呪術をかけられているようだった。
靴が目の前まで迫る。そして、背中に衝撃が走った。魔王がうつ伏せになったわたしの背中で足踏みしているのだ。何度も何度も。絶対に気付いてるだろ、こいつ。ぶちのめす、と思っても身体は動いてくれない。二コルは彼女の手を取ってニコニコしているだけだ。
魔王のステップは段々激しくなる。身体全体が揺さぶられるような、そんな感覚。
「……ちゃん。……お姉ちゃん」
揺れに耐えかねて目を覚ました。甘い香りが鼻腔に流れ込んでくる。夢だと知って、心底ほっとした。それと同時に、自分自身が情けなくなる。
「クロエお姉ちゃん!」
寝返りを打つと、ネロの顔が見えた。わたしを揺さぶっていたのは彼だったようだ。
「よかった……。お姉ちゃん大丈夫そうだよ!」
ネロは振り向いて大声を出した。寝起きの頭にびりびりと沁みる。
「マスター、クロエは悪い夢を見ていただけデス」
声のしたほうを見ると、部屋の入り口にハルが佇んでいた。
「でもすごい音がしてたよ。ぎりりりり、って」
「マスター、人間は悪夢を見ると歯軋りするのデス」
歯軋りしていたのか。可愛らしくうなされているだけであれば祝福出来るのだが、歯軋りとは。なんだか恥ずかしくなって枕に顔を埋めた。
「お姉ちゃん、まだ眠いの?」
半身を起こして、ネロの頭を撫でた。瞬間、ネロはびくりと反応し、ハルの元へと駆け寄っていった。スキンシップはまだ駄目か。子供って難しい。
「クロエ、朝食兼昼食がありマス。向こうの部屋で摂りまショウ」
そう告げて引き返していく。ネロも同じく去っていった。
ひとりになると、昨晩のことが自然と頭に浮かんだ。ハルとネロを繋ぐ魔術……視覚共有。ネロはハルの目を通して世界を見ているのだ。それはどんな感覚だろう。たとえばハルがネロを見つめるとき、まるで鏡のように反転した自分を見ているとすると、混乱してしまわないだろうか。
いくら考えても、その景色は分からなかった。
部屋を出て、リビング兼ベッドルーム兼台所に入ると、昨晩と同じテーブルに二人は腰かけていた。昨日と同じく、ネロの隣に腰を下ろす。
食卓には昨日のスープと、パンと、あとは透明のどろどろした液体が小鉢に入っていた。
「これは?」
「スライム」
ハルの言葉に、思わず顔をしかめてしまった。すると、ネロがクスクスと笑い出す。
「……冗談デス。砂糖と寒天を溶かしたゼリーデス」
匙でつつくと、確かにそれらしい弾力があった。よりにもよってスライムだなんて、悪い冗談だ。グールと同様の低級な魔物だが、スライムは水辺でときどき見られる程度の存在だ。魔物のなかでは珍しく昼夜問わず活動するが、大した害はない。動植物に影響を与えるわけでもなく、ただ川沿いをぶよぶよと移動する。なにを栄養としているのか、なんの目的があるのか、いまだに解明されていない。魔力の滓を吸収しているのだとか、そもそもスライム自体が魔力の滓だから目的意識もなにもないのだとか、諸説ある。王都ではスライムをマスコット化したゆるいグッズが売られていたりした。――かくいうわたしも、スライムのぬいぐるみを持っていた時期がある。
スライムを食べた論文なんてあっただろうか。ひと口、またひと口と匙を動かしつつ、ついついそんなことを考えてしまう。案外、このゼリーと同じくらい甘ったるくて水っぽいのかもしれない。
「お姉ちゃんはいつも寝ぼすけなの?」
「いや……」
思わず口ごもってしまう。なんと答えればいいやら。魔物と戦っていたことを少年に知らせていいものかどうか判断がつかず、ハルを一瞥する。
「クロエは昨晩、ワタシと一緒に魔物を討伐していたのデス。だから、寝ぼすけではありまセン」たぶん、と余計に言い添える。
「お姉ちゃん強いの?」
「クロエは強いデス。ネロには及びませンガ」
「すごーい」
そこからは質問攻めだった。昨晩の戦いの模様をどこまでも詳しく聞いてくる。ほどほどに語っていると、ハルが相槌の代わりにいちいち余計な一言を付け加える。「クロエはスコップ使いデス」だとか「華のクロエ……かっこいいでスネ」だとか。
ハルにチクチクとからかわれてうんざりしたわたしは、食事を済ませると町へ行くことを伝えた。
「なにか用事デモ?」
「王都への行きかたを探すの。あと、周辺の地図とか地史があればそれも見ておきたいな。……あと服も」
「旅に出るのは良いですケド、庭の始末はつけてくだサイ」
ハルはぴしゃりと言う。その意味が分からないではなかった。転移魔術によって空間に魔力の残滓が散ったのなら、この近辺で魔物が増えるのは自然なことだろう。しかし、その影響がいつ消えるのか、そもそもどの程度魔物の出現率が上がったのかも不明だった。昨晩倒した魔物の数自体は、王都でひと晩に相手をする数よりも少ないくらいだ。
「……今まで魔物はどのくらい現れていたの?」
「せいぜいひと晩に三、四体デス」
すると、十倍程度には膨らんでいるわけだ。これを放置するのはさすがに気が引けた。ただ、いつまでもそれに付き合っているわけにもいかない。わたし自身の使命もある。責任という言葉が両側から押し潰してくるような、そんな葛藤に襲われた。
「……すぐには発たないから。でも、地理については知っておきたいの」
ハルはため息をついて頷いた。ネロはネロで、なにやら嬉しそうにしている。懐かれているのなら、それは悪いことではない。むしろ、嬉しい。王都にいたときは羨望の眼差しこそあったが、近寄ってはくれなかった。使命を背負い、力を振るう。人々が恐れる魔物を易々と薙ぎ倒す。そこには確かに、畏怖があった。
なんにせよ一歩ずつしか歩めないなら、この瞬間を大切にしなければならないだろう。焦ることなら誰だってできる。結果を出す者は一瞬一瞬を丁寧に積み上げるのだ。
修行。そう考えることに決めた。
【改稿】
・2017/8/19 下記項目を修正
視界共有→視覚共有
・2017/11/16 口調及び地の文の調整。ルビの追加。
・2017/12/21 口調及び地の文の調整。ルビの追加。




